4 思いがけない協力者
穏やかで優しい先代庭師のロルフが皆に惜しまれつつ引退して、新しい庭師がやってきた。
「彼の名は、アーサー・オブライエン。東のリミテア共和国からやってきたそうです」
家政婦が紹介しているが、残念ながらエステルの位置からだとアーサーの姿を見ることはできなかった。
(……そうそう。前も、このタイミングでアーサーが来たのよね……)
メイド仲間たちは興奮して彼にアピールするが、無口でシャイなアーサーは非常にノリが悪かった。だから、しばらくすると皆も彼にアタックするのを諦めるようになった。エステルは不思議と彼と馬が合い、よくおしゃべりをしたものだが。
家政婦からの紹介が終わり、彼は男性使用人たちの方に向かってしまった。これから彼らに屋敷の説明をしてもらったりするのだろう。
(前は……アーサーには本当に、助けられたわね)
部屋に閉じ込められていたエステルは、メイドたちとおしゃべりすることもできなかった。そんな中、アーサーは持ち前の造園技術で見事な庭を造り、エステルの癒やしを提供してくれた。
(今回も、彼とは仲よくしたいものね)
……そんなことを考えながら、エステルは本日の仕事をしていたのだが――
(……あっ、アーサーだ!)
エステルが来客に備えて応接間の準備をしていると、窓の向こうの庭を歩くアーサーの姿が見えた。彼は既に事前にロルフから引き継ぎをしていたようで、広大な庭を前にしても特に迷う様子もなく、手際よく花の植え替えをしていた。
エステルは窓辺に近づき、アーサーの姿を眺めていた。彼は立ち上がり、手の甲で額の汗を拭い――そして、エステルと視線がぶつかった。
きれいな藍色の目はアーモンド型で、ランドルフのような壮絶な色男と言うほどではないが優しくて誠実そうな美貌を持っている。
どちらかというと線は細くて屋外で作業する際にも日焼けに気をつけているのか色も白い方だが、庭師らしくいかにも男性らしいしっかりとした体つきをしていた。
(ああ、懐かしい。……でも、まずは初めまして、よね)
そう思い、エステルは微笑んだ。
それを見たアーサーは目を丸くして、エステルが何かを言うよりも前に口を開き――そして、言った。
「奥様」と。
しばし、二人の間に変な空気が流れた。
応接間の窓辺に立つエステルと庭にいるアーサーとの間にはそれなりの距離があるが、今彼の唇からこぼれた声は妙にはっきりとエステルの耳に届いた。
(…………えっ?)
今、彼は、なんと言った?
エステルを見て、なんと呼んだ?
ぽかんとするエステルだったが、先にアーサーの方がはっとした様子で目を伏せ、こちらに背を向けた。今の発言は、なかったことにするつもりだろう。
だが――
「アーサー」
エステルの呼びかけに、彼の背中が震えた。
もしかして、もしかすると。
「……小さな白い花、植えてくれる?」
それは、混乱しながらもエステルが必死に思いついた、暗号。
普通の人なら、特に何も思うことのないだろう台詞。
だが、もし、彼もまた「そう」だったら――
「っ……!」
ばっとアーサーが振り返り、こちらに駆けてくる。弾みで被っていた帽子が外れ、彼の柔らかい金色の髪がふわりと揺れた。
「エステル……?」
「アーサー。……約束、覚えている?」
窓から身を乗り出したエステルは、どきどきしつつ尋ねる。
アーサーはこぼれんばかりに目を見開くと――くしゃり、と今まで見たことのない笑い方をして、言った。
「……うん。ちゃんと、手配するよ。エステル」
エステルと同じく、アーサーもまた未来から過去に戻ってきていた。
「……びっくりだよ。まさか、君も過去に戻っていたなんて」
再会であり初対面でもある日の夜。
人気のない使用人用食堂で、二人はレモン水入りのグラスを手に情報交換を行っていた。
「私もよ。……ちなみに私は一ヶ月ほど前に思い出したのだけれど、アーサーもそれくらいのタイミングだったの?」
「……いや、僕はもう少し前だ。ロルフさんの引き継ぎをすると決まったのが半年ほど前なんだけど、一度彼に案内されてここに来て……そのときに、思い出した」
アーサーはそう言い、向かいに座るエステルを見た。
「君は……ええと……一応便宜上の呼び方として、【あの未来】としようか。【あの未来】のことは、わりとはっきり覚えているのか?」
「ええと……そうね。ランドルフ様が私のサインを偽造して結婚宣誓書を出して、楽しくも幸せでもない結婚生活を送って、子どもができて……」
「あ、ええと……もし言うのが辛かったら、いいよ」
アーサーに気遣うように言われたため、エステルは苦い笑みをこぼした。
「ありがとう。でも、お互いに持っている情報の確認は必要だから大丈夫よ。それに……アーサーに白い小さな花を手配してもらう約束をしてから後のことは、記憶がなくて」
「記憶が……?」
「うん。悪阻がひどくて眠くなって、ベッドに寝ていたら……気がついたら、過去に戻っていたの。アーサーもそんな感じだった?」
「…………」
エステルが尋ねると、アーサーは難しい顔でしばらく沈黙した後に、ゆっくりうなずいた。
「……うん。僕も、気がついたら過去に戻っていたんだ。君とほぼ同じタイミングだったから、君がお願いした花を準備することができなかったんだ」
「そうなのね。……でも、不思議なことだわ。私たち二人とも過去に戻っているなんて……」
「そうだね。でも、これはまたとないチャンスだ」
アーサーはちょうど空になっていた二人分のグラスにおかわりを注ぎ、まっすぐにエステルを見つめた。
「エステル。君は、未来を変えたいか?」
「ええ、変えたい……ううん、何としてでも変えるわ」
迷うことなくエステルは言う。
何もさせてもらえず、声も届かず、望んでいない愛情を押しつけられていた、【あの未来】。
(もう、あんな思いはしたくない。やり直せているのなら……今度こそ自由になる!)
「それで、ね。あなたがここに来るまで一ヶ月ほどあったから、いろいろ考えてみたけれど……すぐに退職するのは難しそうで」
「……ああ、そういえば君は、三年契約で雇われているんだったっけ」
【あの未来】での雑談中に話したことを、アーサーはよく覚えているようだ。
「そう。だから、普通に退職するにはあと半年以上必要で……それまで逃げ切るという方法もあるけれど、旦那様もなかなか私を諦めてくれなくて」
「ああ、うん、なんというか……あの人、そういうところがあるんだよね。今はまだましだけれど、元々その素質というか片鱗は見えていたみたいだ」
アーサーはうなずき……しばらく黙った後に、口を開いた。
「……その。結婚して退職するというのは、考えていないのか?」
「もちろん、そういう手段もあると分かっているわ。でも、相手がいないから……」
「僕はどう?」
アーサーの言葉に、エステルは口元まで運んでいたグラスをゆっくり下ろした。
(僕……えっ? アーサーが、私と……結婚?)
内心かなり動揺しているエステルとは対照的に、アーサーは落ち着いた様子でレモン水を飲んでから、エステルを見てきた。
「僕と君は、同じ境遇にある。僕なら君の事情が分かっているから、君を助けることができる。過去に戻ってきたなんて普通の人に言ったら正気を疑われるだろうけれど、ね」
「え、そ、それは……そうだけど。でも、ええと……結婚、するの? 私と、あなたが?」
自分とアーサーの顔を交互に指さしながらエステルが問うと、アーサーは真顔でうなずいた。
「うん、それがいいと思ったんだ」
「……」
「あのさ、エステル。僕は【あの未来】で……ずっと、後悔していたんだ。君を助けたいのに、何もできない。無力な自分が憎くて、何もできないこの状況が歯がゆくて……」
「アーサー……」
「だから、人生をやり直せるのなら僕が持っている何を使ってでも、君を助け出すと決めたんだ。もちろん、僕と恋仲になってくれなんて望まない。僕だって……正直、あの伯爵に仕えるのは御免被りたい。でも、君と結婚して故郷に一緒に行くとなったら伯爵だって僕をあっさり解雇してくれるだろう。僕にとっても君にとっても、悪い話じゃないはずだよ」
シャイで無口なアーサーらしくもなく熱を込めて言われるので、エステルは彼の言葉を理解するのに少々時間を要してしまった。
(ええと、つまり……アーサーは私を助けてここから脱出するため、私は【あの未来】を回避するためという目的一致のために、偽装結婚して退職するということ……?)
彼から「僕はどう?」と言われたときには緊張と驚きのあまりめちゃくちゃに拍動していた心臓が、少しだけ落ち着いた。
彼の言うことは、理にかなっている。
恋愛にうつつを抜かす使用人は、どこでも歓迎されない。家政婦たちとしても、いきなり駆け落ちされたり気がついたら妊娠していたりするよりは、恋仲だと分かった時点でさっさと追い出す方が後腐れがないし後でこじれる可能性が低いのだ。
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