3  やり直しの世界にて

 ――コンコン、とドアがノックされる音が響く。


「エステル様、朝ですよ」

「……ん?」


 名を呼ばれたエステルは、ごろんと寝返りを打ち――はっとした。


(あっ、いけない! うつ伏せは、お腹の子に――)


「……あれ?」


 一気に覚醒してばっと体を起こしたエステルだが、すぐに違和感に気づく。


 普段エステルは、ランドルフに無理矢理抱かれた記憶しかないベッドに寝ている。伯爵婦人用の一人用ベッドも一応あるのだが、ランドルフが使わせてくれなかったのだ。

 だが今自分が上半身を起こして座っているのは豪奢なダブルベッドではなくて、一人用の小さなベッドの上。だがこれも、伯爵婦人用のものではない。


(……え? ここって……私の部屋?)


 ここは、エステルが十六歳で働き始めた頃から無断で結婚宣誓書を提出されたあの日まで使っていた、伯爵邸の半地下にある自室だった。


(……私、寝ている間にあの部屋に戻された? いえ、でもあの部屋はもうずっと前に空にされたし……)


 ぺたぺたと自分の顔に触れてから、エステルは気づいた。

 結婚してから悪化する一方だった肌の調子はよくて、爪は短い。指や手の甲には仕事をしていて付いた細かな傷があるし……腹はぺたんこだ。


「……うそ」


 つぶやいた声は、かすれていない。

 両親から「エステルの声は、可愛いな」「歌劇団に入れるかもしれないわね」と褒められていた声はちょっとした自慢だったが、ランドルフと結婚して泣いたりわめいたり不健康になったりして、その美声もすっかり失われていたはずだ。


 既に撤去されたはずの自室に、健康な体。そして下働きのメイドが「奥様」ではなくて「エステル様」と呼んでいる。


「……私、過去に戻っている……?」


 つぶやいたエステルの耳に、調理場担当の少女たちが笑う声が聞こえてきた。










 顔をつねったり思いっきりビンタしたりしたが、現状は変わらない。

 エステルはおっかなびっくりしつつも周りの人たちからそれとなく情報を集めた結果……今が、アーサーと話をした後でまどろんだあの日より一年以上前だと分かった。


 皆、エステルのことを「奥様」と呼ばない。ランドルフの暴走により解雇させられた者たちも皆そろっているし、屋敷の雰囲気も明るい。


(私、本当に過去に戻っているのね……)


 エステルとしては久しぶりにメイドの仕事をしたが、案外体は慣れているようでほぼ問題なく取り組めた。


 休憩時間、メイド仲間――彼女は、ランドルフの妻になったエステルを疎み、解雇させられた――からお茶に誘われたが「ちょっと頭痛がするから」と言って断り、自室に籠もった。


(どうしてかは分からないけれど、私は過去に戻って……人生をやり直している)


 指を折って数えるが、あの宣誓書を提出された日よりも三ヶ月も前だ。既に老年の庭師は引退宣言をしているのだが、代役であるアーサーはまだ来ていない時期である。


(そ、それじゃあ、さっさと逃げればいいのよね!)


 あのときは、あれよあれよという間にランドルフに絡め取られ外堀を固められ、気がついたときには逃げ場がなくなっている状況だった。

 だが今なら――既にランドルフからご指名は入っているが、それほど執着されていない。さっさと辞めてしまえばいい話だ。


(……あ、でも私、三年契約で雇われているのよね……)


 ハリソン伯爵家の採用面接を受けた際に、家政婦ハウスキーパーから「最低でも三年は勤めること」と言われている。由緒正しい伯爵家の使用人なので、一年二年そこらでいなくなられると困るそうだ。


 もちろん、実家の都合だとか結婚することになったとかの理由があれば契約無視して辞められるが、だからといって嘘をつくのは難しい。「私は実は、一年ほど先から時間遡行してきて~」なんて言っても、頭がおかしくなったかと思われるだけだ。


(それに、下手すればお父様やお母様たちの評判にも関わるし……かといってもう、旦那様からロックオンされつつあって……)


 ……あの結婚生活を思い出すと、ぞっと鳥肌が立った。

 エステルの言い分を一切聞き入れず、歪んだ笑みを向けてくるランドルフは、もはや恐怖の対象でしかない。彼のしつこさと思い込みの強さと面倒くささは十分身にしみて分かっているので、彼も納得するような形で逃げなければならない。


(まずは、旦那様からのご指名をもう受けないようにしよう。今ならまだ……うん、なんとか回避できるはず!)


 かつて、エステルは「幸せって、何なのかしら」と考えていた。あのときの自分はもう逃げ場がなく逃げる気力もなかったのだが……今は、違う。


(私は、幸せになりたい。自分で自分のやりたいことを決められる、自由がほしい!)


 夫に束縛されることなく、好きなところにいき、好きなものを食べて、好きなものを買い、好きな人とおしゃべりをする。


 今度こそは、そんな人生を歩むのだ。









 ……と決めたのはいいものの、ランドルフもなかなかしぶとかった。


「エステル、旦那様からご指名ですが……」

「……ええと。できれば、他の人に、と」

「……恐縮する気持ちは分かりますが、何度もお断りすれば旦那様のご不興を買いますよ」


 家政婦に心配そうに言われて、彼女の正面に座っていたエステルは頭を抱えたくなった。


(ああーっ! ほんっとうにしつこいわね!)


 のらりくらり言い訳しつつ、「私なんかが旦那様のご指名なんて……」という雰囲気を醸し出しつつ、ランドルフからのご指名やお誘いをかわしてきた。だがランドルフはエステルも知ってのとおりねちっこくて諦めが悪い性格だからか、何度も声をかけてくる。


 エステルの上司である家政婦たちは、どちらかというとエステルに同情的だ。以前は伯爵閣下のご尊顔を間近で見られるだけでなく特別手当をもらえるのだからルンルン上機嫌でご指名を受けたエステルだが、今はひたすら謙遜して遠慮する方向で行っていたのに。


(せっかく過去に戻れたけれど、若干手遅れだったってこと……?)


 またあんな目に遭うのかと思うと胃が痛くなるが、まだ時間に余裕はある。

 元々彼は婚約者のジョージアナと近いうちに結婚する予定だったのを、権力などで全てを踏み潰してエステルと結婚したそうだ。だから、このままエステルが逃げ切れば時間切れになり、ランドルフはジョージアナと結婚する……はずだ。


(前は、ジョージアナ様にも申し訳ないことをしてしまったし……今回は何事もなく結婚してほしいわ。……それなのにっ!)


「はぁ……」

「エステル、最近ため息が多いわよねぇ」

「旦那様からのご指名、ちょっと困っている感じ?」


 休憩時間中に仲間たちに問われて、エステルは力強くうなずいた。


「そう、困っているの! ……あ、いや、ほら、ご指名は嬉しいけれど、私はどちらかというと堅実に行きたいから……」

「ああ、そういうこともあるわよね」

「旦那様は確かに格好いいけれど、ちょっと近寄りがたいものね」

「うんうん。あんまり他人に興味がなさそうというか、ドライであっさりしている感じだものねぇ」


(いえ、実際は面倒くさくて人の話を聞かないトンデモ物件ですけれどね!)


 心の中だけで叫んだところで、仲間の一人が「あ、そうだ」と声を上げた。


「格好いいといえば。今度、ロルフさんが引退するじゃん? この前、次の庭師が面接に来ているのを見たんだけど……なかなかの美少年だったわよ!」


 その言葉に、ことん、とエステルの心臓が動いた。

 次の庭師……アーサーのことだ。


「えっ、そうなの?」

「ええ。正直、庭師じゃなくて従僕フットマンでもいけそうな感じだったわ。ありゃあ、給仕ペイジたちが嫉妬するわねぇ!」

「えええっ! そんな格好いいの!? やだ、私、狙っちゃおうかしら?」

「いいんじゃない? 庭師なら十分あたしたちにも可能性があるわ」

「そうそう。旦那様は高嶺の花すぎるし、やっぱり身の丈に合った相手が一番よね!」

「私もそう思うっ!」


 エステルも、力強く同意を示しておいた。

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