2 不幸せな伯爵夫人
エステルは、ランドルフの妻にさせられた。
伯爵相手に男爵家が太刀打ちできるはずもなく、エステルのサイン偽造の主張さえ握りつぶされた。「君がおとなしくしてくれれば、ご家族にも融通を利かせるよ?」と言われると、あらがうこともできなくなった。
ランドルフはエステルに愛情を向けてくるが、彼女にはその愛情すら恐ろしくてたまらなかった。
「私はあなたのことが好きではありません」と言っても、「照れ隠しだね」と言いくるめられる。
「家に帰してください」と言っても、「ここが君の家だよ」ととりつく島もない。
名門貴族の当主が男爵令嬢を正妻にしたことであちこちで問題が勃発したそうだが、ランドルフはそれらの声全てをねじ伏せた。当然、彼の婚約者だった子爵令嬢との話もなかったことになり子爵家は憤慨したが、それすらランドルフは蹴散らしたそうだ。
一度、彼の元婚約者が屋敷に突撃してきたことがある。
ジョージアナというその令嬢は憤怒で顔を真っ赤にして、使用人たちを突き飛ばしながらエステルの部屋まで来て――さっと青ざめた。
ベッドに力なく寝るエステルはきっと、とてもひどい顔をしていたのだろう。きれいなドレス、きれいな装飾品、きれいな調度品に包まれるエステルだが、望んでもない愛情を押しつけられ全ての訴えをひねり潰され毎晩ひどく抱き潰され、憔悴しきっていた。
「……お、おまえが、ランドルフ様の……?」
たっぷりとした黒髪を持つ美しいジョージアナも、エステルがここまでぼろぼろになっているとは思っていなかったようだ。
エステルはぼんやりと彼女を見て……ふと、思いついた。
(……そう、だ。この方なら、ひょっとしたら……分かってくださるかも……?)
「ジョージアナ様……ですか?」
「そ、そうよ! おまえがランドルフ様を……いえ、本当に、大丈夫なの、あなた?」
殴り込みに来たジョージアナも、今のエステルの様を見て怒りも吹っ飛んだようだ。
彼女に気遣われたエステルは、力なく笑う。
「ジョージアナ様……申し訳ありません。私、こんなことを望んだのでは、ないのに……」
「……そ、そんなことを言いましても! わたくしは、ランドルフ様に婚約破棄されたのですよ! それに、社交界での話を、ご存じで!? ランドルフ様はあなたのろけを語り、わたくしは男爵令嬢ごときに負けた女だとあざ笑われ……!」
知らない。
そんなの、エステルは知るよしもない。
なぜならランドルフはエステルを妻にしたのに、屋敷の外に出してくれないのだ。いや、ひどいときは部屋からすら出してもらえない。
ランドルフは、「君は、ここにいさえすればいいんだ」「君に、伯爵夫人の重責を負わせたりはしないから、安心してくれ」と笑い、エステルを閉じ込めた。
そしてエステルが訪問した商人とおしゃべりをして笑おうものならその者を追い出して出禁にし、エステルがランドルフへの反対意見を口にしようものなら「君にそんなことを言わせる者は、私が罰しなければ」と言い、見当違いな使用人を次々に解雇する。おかげで、無理矢理結婚させられてからのこの半年で使用人の数はぐっと減ってしまった。
だから、エステルはランドルフが社交界でどんな振る舞いをしているのか、ジョージアナがどんな思いをしているのか、見ることも聞くこともできなかった。
ジョージアナはすぐに冷静になり、エステルが望んで伯爵夫人になったのではないと理解してくれた。
そして、「わたくしの方から、ランドルフ様にご相談申し上げます」と頼りになることを言って去って行ったのだが――
「エステル! ああ、かわいそうに! あんな魔女に暴言を吐かれて、さぞ怖かっただろう!」
その日帰宅するなりランドルフはエステルを抱きしめ、そんなことを言った。
「でも、安心してくれ! あの魔女は私が罰しておいたからね。もう怖がることはないよ」
「魔女……? だ、旦那様、ジョージアナ様に何を――」
「だめだよ。そんな……私たちの愛を阻害する者の名を、口にしては」
その声は底冷えするように冷たくて、エステルはびくっと身を震わせて口を手で覆った。
この半年で、エステルはランドルフの感情の機微が嫌でも分かるようになってしまった。ここで口答えをすると彼を怒らせ――その怒りがエステル以外の誰かに向き、その者が罰を受けると分かってしまったから。
震えるエステルを見てランドルフは、「こんなに震えて、かわいそうに。私が慰めてあげよう」と酔いしれるように言うとエステルを抱えて寝室に向かい、一方的に愛情をぶつけてきた。
エステルが望まずとも、その可能性は巡ってくる。
「ご懐妊です。おめでとうございます、奥様」
お抱え医師は、貼り付けたような笑顔で言った。
ぼろぼろになったエステルの表情を見ると「おめでとう」なんて言えるはずもなかっただろうが、下手な声かけはできなかったのだ。
結婚して半年経過して、エステルの妊娠が分かった。それを聞いたランドルフが大喜びで、「よくやってくれた。君の子なら絶対に、可愛いだろう」と嬉しそうにエステルの腹を撫でたため、エステルはぞっとした。
(赤ちゃんができなかったら、いつか飽きられて捨ててもらえるかと思ったのに……)
あれだけ毎日抱き潰されているのだから、いつかこうなるかもしれないとは思っていた。
それでも、愛しているどころか憎い男の子を孕んでいると分かり、エステルはすっかり枯れた心で笑うことしかできなかった。
お腹の子は順調に育ち、ドレス越しでもその膨らみが分かるようになった。
エステルはランドルフのことが嫌いだが、この子に罪はない。せめて元気に産んでやらねばと思い、食欲がなくても食事をして健康になるように努めた。
ランドルフはエステルが妊娠してからいっそう溺愛するようになり、「何か、ほしいものはないか?」と頻繁に尋ねてくる。
自由がほしいです、両親に会いたいです、お買い物がしたいです、裸足で庭を歩いてみたいです、お友だちがほしいです。
そんな、たくさんの願いが胸の奥から芽生え、そして喉を通るよりも前に消えていく。
最後にエステルが言えたのは、「旦那様に、側にいてほしいです」という、憎い男のご機嫌を取るためだけの言葉だった。
多くの使用人が辞めさせられ、特に見目のいい若い男たちは軒並み追い出された。
その中でも庭師のアーサーが残っていたのは、彼が無口な仕事人タイプでランドルフから「こいつは、放っておいても問題ない」と判断されたからではないか、とメイドが口にしていた。
そんなアーサーは、エステルの部屋から見える庭にたくさんの花を植えてくれた。窓を開けると外で作業をしていたアーサーはお辞儀をして、庭の方を手で示した。
「奥様、どうですか。ご希望の花などがあれば、植えます」
かつては「エステル」と気さくに呼んできた彼の変化を寂しく思いつつも、エステルは微笑んで庭園を見やった。
「ありがとう、アーサー。今のままでもとっても素敵だけど……白い花がもう少しほしいわね。小さくて、可愛いお花がいいわ」
「小さくて白い花、ですか」
アーサーは反芻し、うなずいた。
「分かりました。すぐに手配して必ず、最高の庭園をお見せすることを、お約束します」
「いつもありがとう。約束ね」
「どういたしまして。……お体に障りますので、そろそろ窓をお閉めください」
そう言って彼はお辞儀をして、きびすを返した。
彼は、知らないだろう。
外に出ることが許されないエステルにとって、彼の造る庭園がどれほどの癒やしになっているのか。
そして、白い花が……かつて彼がこっそり贈ってくれたあの花が、どれほどエステルにとって美しい思い出になっているのかなんて。
(ううん、知らなくていいわ)
知らなければ、彼がエステルのことをただの奥様として認識してくれていれば、彼が理不尽に辞めさせられることはない。
(子どもが生まれたら……少しは、変わるかしら)
もしかするとランドルフの、あの異常とも言えるエステルへの執着が薄まるかもしれない。
そうすれば、庭を散策することも、買い物をすることも、家族に会いに行くことも、できるようになるかもしれない。
(……ああ、なんだか眠いわ)
ここ最近、悪阻の影響で食欲がなくなったり、吐いてしまったりしている。アーサーの庭をもっと見ていたい気持ちもあるが、なんだか急に疲れてきたので少し横になりたかった。
(……幸せって、何なのかしら)
メイドたちの手を借りて寝室に向かい、ベッドに横になったエステルは腹をさすりながら思う。
そうして、ゆっくりと意識を手放していく中――「エステル」と呼びながら小さな白い花を差し出すアーサーの幻が、見えたような気がした。
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