二
二人を乗せた車は、東名高速道路を一路、横浜方面へ向かって快適に飛ばしていた。その走る車の揺れに、二人は酔いしれ暫く会話を止める。今は言葉など交わす必要はない。今まで話し得た喜びの余韻を噛み締めるだけで充分だった。
車が東名川崎を過ぎた頃、言葉少なに呟く。
「純一さん……」
「うん、何だい?」
ハンドルを握り、前方を見ながら応じた。
「いいえ、何でもないの……。今まで心配掛けてご免なさい。あなたにお会いしたら、すぐにお詫びしなければいけないのに。つい楽しくなって言いそびれていたわ」
神妙な顔つきで告げた。すると、純一が優しく応える。
「いいや、そんなことはいいんだ。心配を掛けさせたのは、むしろ僕の方かもしれないからね。それよりも、君の方こそ具合の方はどうだい?」
「ええ、もう大丈夫よ」
「そうか、それはよかた。それに会社の方、休ませて悪かったな。上手く口実作って許可してもらったんだろ。嫌み言われたんじゃないか?」
「いいえ、そんなことないわ。だって、例の件で定期的に病院に行くから、その日が今日だと言って休みを取ったから」
「成る程、それなら疑われないな。まさか俺とデートでドライブに行っているなんてさ」
「ええ、だから会社の方は大丈夫なの」
「それじゃ、今日は丸一日一緒にいられるわけだね」
「ええ……」
「二人で海へ行って潮風にあたる、気持ちいいと思うよ。幸い天気もいいし、最高の一日になる気がする」
「そうね、嬉しいわ。だって、今日一日、あなたと一緒にいられるんだもの……。あっ、それに作ってきたお弁当。あなたのお口に合うか心配だわ」
「いいや、君の作った弁当なら、口に合わないなんてとんでもない。そんなこと言ったら、罰が当たるよ。君の作ったものなら、美味いに決まっている」
「まあ、そんなこと言われたら、出しづらくなるわ」
「それに朝早く起きたんだろ、眠くないかい?」
「いいえ、それは気になさらないで。私、あなたに食べてもらいたくて、早起きしただけですから。大変なことなんかなかった。それより純一さん。食べてみて不味かったら、不味いと言って。その方が私としては気が楽になるから」
「何を言う。そんなことあるもんか。だって君の愛情がいっぱい詰まっているんだろ。それに朝早く起きて作ったんじゃないか」
「ううん、まあ……」
「それこそ文句をつけたら罰が当たる。閻魔様に舌を抜かれてしまうよ」
「まあ、そんなこと言って。でも、私、一生懸命作ったわ。私の愛も沢山詰めたつもり。もし不味くても、それで許してね」
「ああ、嬉しいな。君の手作り弁当か。早く食いたいな……」
「駄目よ。海に着いてから。我慢できる?」
「勿論、大丈夫だよ。そうか、今食べたら、楽しみがなくなってしまうしな。それじゃ、君の気持ちを長く持っていた方がいいから我慢するよ。ええと、今が川崎辺りだから。そうか、あと昼まで二時間弱か。でも長いな。それまでお預けか、辛いな」
「そう、純一さん。お預けよ。けれど、期待されても困るな。だって、男の人のためにお弁当作るの初めてだもの」
「あれ、君だって、毎日作っているんんだろ。お昼、会社で食べるやつをさ」
「ええ、毎日じゃないけれど、時々作って持っていくわ」
「それじゃ、弁当作りのプロじゃないか。そんなら美味いに決まってら」
「ええ、でも。自分が食べるものなんか、有り合わせの物や、昨夜の残りを入れることが多いでしょ。だから簡単なの。けれど、今日は違うの。種明かしすると、少し悪戦苦闘したわ。だからもし、お口に合わなかったらご免ね」
「ううん、君の作ったものだ。美味いに決まっている。それに、一生懸命作ってくれたんだ」
納得する口振りで告げた。
「ああ、後二時間足らずで食べてもらえるのね。どうしよう……。何て言われるか心配で、どきどきしてしまうわ」
膝の上に乗せた手を固く結ぶ。すると、前方を見ながら純一が片手を延ばし、その手をそっと掴む。
「あっ!」
小さな声を発した。思わぬ出来事に急に胸が高鳴り、足が小刻みに震え出した。
「純一さん、危ないわ……」
「大丈夫だ。俺のために朝早く起きて、懸命に作ってくれた君の手に感謝しようと思ってな」
彼女の手を強く握り締めた。すると、真奈美も握り、
「純一さん、有り難う……」と、小声で返した。
互いに感極まるのか、黙った。
「……」
「……」
車が巡航速度で走っていた。
「……君の手って、温かいんだな」
純一に突然言われ、返すように言葉がでる。
「純一さんだって、温かくて頼もしいわ……」
ところが、嬉しさのあまり涙が滲んできて、前方の景色がぼやけてきた。
「ご免なさい……」
純一から手を離し、そっと目頭を拭う。
「あっ、ご免。何だか、泣かせてしまったみたいだね」
「いいえ、いいのよ。だって、嬉しいんですもの」
くすっと鼻をすする。
「あっ、いけない!」
真奈美が急に何かを思い出したのか、大きな声を上げた。
「えっ、どうしたんだい?」
純一がいぶかる。
「どうしよう。紅茶を入れた魔法瓶、家に置いてきちゃった!」
すっとんきょな声で告げる。
「ご免なさい。急いていたせいか、お弁当のことばかり気になって、うっかり忘れてきちゃったわ。ああ、どうしよう」
「いや、それは残念だ。君の入れた紅茶、飲みたかったけど仕方ない。途中コンビニに寄って、飲み物を調達すればいいさ」
「ご免なさい。まったく私って、そそっかしいんだから」
運転する純一に、すまなそうに詫びる。すると、「気にするな」という顔で頷いた。
車は走り続け東名高速道路から横浜横須賀道路へと入り、暫く走ると道沿いにローソンの看板が見えてくる。そこに立ち寄った。
車を止め告げる。
「それじゃ僕がいって、お茶を買ってくるから待っていてくれるかい?」
「ええっ、嫌。私も一緒にいく」
むずかるように鼻を鳴らし、伴に車外へと出た。
遠慮がちに手を繋ぎローソンに入っていく。お茶入りのペットボトル二本と、ガムや菓子類を調達した。何を思ったのか、ソフトクリームを二つ買った。
「君も食べろよ」
純一が渡してくれた。店を出て車に入らず、二人は道路脇で一休みしながら、楽しそうにソフトクリームを頬張っていた。
さきに食べ終えた純一が、真奈美の終わるのを見計らい、車内に招き入れる。
「そろそろ出発するか」
走る他車の流れに入り、ふたたび三浦海岸へと走り出し、徐々にスピードを上げていた。
「今、どこら辺りまで来たのかしら?」
「うん、そうだな……。保土ヶ谷辺りかな。道路もすいているし、このぶんだと十二時過ぎには、油壺に着けると思うよ」
「それじゃ、後一時間ぐらいで、油壺というところに行けるのね」
「ああ、その予定だけれど。道路マップを見てくれるかい?」
「そうだったわ。私、ナビゲーターだったんだ」
慌てて道路マップをめくる。
「ええと、さっき東名高速から横浜横須賀道路に入って……、ここを通ってきたんだな。それからずっと走ってきて、あ、あった。ここだわ。油壺って!」
確認できたのか声を上げる。
「どうだい、分かったかい。ナビゲーターさん?」
「ええ、この横浜横須賀道路をずっとゆけばいいの。そうすれば油壺にいけるから」
「はい、分かりました」
純一が応える。するとマップを閉じてしまい、思いを馳せる。
「早く着かないかな。着いたら海の空気を思いっきり吸い込んで、潮の香りを満喫してみたいな。さぞかし気持ちいいでしょうね。それに潮騒も耳に響き、心地いいと思うわ……」
遠くを見る眼差しで気持ちを込めた。その様子を純一が横目で見て添える。
「もう少しの辛抱だ。だから待っていてな。直に着くからさ。ああ、俺も早く海の香りを、全身に浴びたくなってきた。いいだろうな」
「そうね、とても気持ちいいでしょうね」
真奈美はリラックスしていた。純一を意識しなくても話ができるようになっていた。池袋を出た時に比べ歴然としていた。すると変に意識することなく、話たいことが次々と湧いてくる。
それは、何も真奈美だけではない。純一とて気兼ねなく、会話を楽しめていたのである。
「そう言えば、朝飯食ってこなかったんだ。車に揺られていると、急に腹が減ってきたよ。君の手作り弁当、早く食べたいよ。どんな愛が俺の口へ入るのかな」
「あら、さっきアイスクリーム食べたでしょ」
「うん、そうだけど。弁当のことを、つい考えちゃって、早く食べたいな」
「そうね、そうしてもらいたいけど、やっぱり海に着いてからにしましょ。だって、口に合わなかったら、潮香に誤魔化して食べてもらうつもりだもの。だからここでは駄目。それに運転中だし、駄目よ!」
純一の太ももを軽くつねった。
「あ痛っ、何すんだ!」
目を丸くするが、彼女を睨めず仕返しにと、今度は真奈美の太ももを触ろうとする。
「あら、駄目……」
気づかれ手を叩かれた。
「何だ、つまんないの。君にタッチしたかったのに」
そう言われると、恥ずかしそうに顔を染める。
「純一さんの馬鹿……」
小さな声ではにかんだ。
「ああ、それにしても腹が減ったな」
前方を見つつ嘯く。
「そうだ、食べさせてくれないなら、君を食べちゃおうか」
惚けて、瞬時に片手で真奈美の太ももに触れた。
「きゃっ!」
小さな声を上げる。
「駄目っ!」
純一の手を掴み離すが、そのまま握り締めていた。そして彼の横顔を見る。
「このおいたさん。悪いことをしないように、しっかり掴んでいますからね!」
上気したように、ぎゅうと握り締める。
「ああ、ご免、ご免。もう悪戯しないから離してくれ」
「嫌、駄目よ。そんなこと言って、また悪さするといけないから離さないわ。ずっとこうしている。だって……、こうしていたいんたもの」
そう言いながら、そっと自分の太ももへと導いた。
純一はなされるままに、柔らかな感触を感じつつ、真奈美の手を握り返した。
二人に沈黙が訪れる。
「……」
「……」
前方を見つめる二人の目が、さらに輝き出していた。
「真奈美さん、何時も電話でばかり言っているが、今日は直接自分の口で言う。俺は君が好きだ。こうしてずっと君といたい!」
彼女の手を強く握り締めた。
「……」
真奈美は嬉しかった。
直接告げられたことで、電話にはない温かさが胸の奥に広がってきた。
やっとの思いで囁く。
「私だって……」
そう告げ、言葉の代わりに手を握り返す。すると、前方を見つめ運転する純一の顔から笑みが消えていた。その真剣な眼差しは、真実を伝える表情になっていた。
真奈美はその横顔を見ながら、ふいに彼の胸に飛び込みたい衝動に駆られる。すると察してか、真奈美の太ももを撫ぜていた。
拒否せず受け入れていた。
純一の手に伝わる柔らかな感触は、より情欲的な気持ちを高ぶらせる。純一の心はすでに彼女を凌駕しつつあった。
だがしかし、理性がそれ以上の行為を許さなかった。運転を続けるため、想う気持ちを現すだけで耐えた。そして尋ねる。
「真奈美さん、俺のことをどう思う?電話ではなく直接聞きたい。教えてくれないか?」
「ええ、でも恥ずかしいわ……」
「大丈夫だよ。僕の他に聞いていないから。だから恥ずかしがらずにさ。どうしても聞きたいんだ」
促されるが、高ぶる気持ちを悟られまいと俯く。すると、純一の手が太ももを強く押す。応えるように呟く。
「……ええ、私だってあなたと同じ気持ちよ。それに電話で話したとおりだわ」
そう言い、純一の横顔をきりりと見つめる。
「好きです。私、あなたのことが好きです。大好き……」
顔を赤らめた。
「ううん、嬉しいよ。俺も君に打ち明けた。君も俺に気持ちを話してくれた。もう、何があっても君を離したくない。だから、ついてきて欲しい。絶対に幸せにする。約束するから」
「私だって、もう絶対にあなたから離れない。だから、私を嫌いにならないで。もし気に入らないことがあったら、あなたの言うように直すわ。だから優しく抱いて欲しい。あなたの厚い胸に飛び込んで行くから……」
前を見つめる純一に寄り添い、自分の頭を彼の肩に載せた。意識的にそうした。甘えたかった。
もたれた彼女の甘い髪の匂いが、鼻腔をくすぐる。
何と素敵な香りなんだろう……・。
胸に迫る想いと、彼女を抱き締めたいという衝動に駆られていた。それでも必死に耐えた。車の運転を放り投げるわけにはいかない。運転が散漫になるのを抑え、前方をじっと見つめ集中していた。
二人の言葉が止っていた。
車中で流れる音楽など上の空となる。聞こえるのは微かに漂う二人の息づかいだけだ。
二人を乗せた車はひた走りに走った。そして、三浦半島の油壺へと来ていた。真奈美が声を上げる。
「わあっ、海だわ。純一さん、とうとう来たのね」
「ああ、やっと着いたよ。どうする。このまま三浦海岸まで行ってしまうか?」
「どうしようかしら……」
迷い気味に言うと、純一が付け加える。
「三浦海岸までは、もう目と鼻の先だからわけないよ」
「そう、それなら三浦海岸まで行きましょう。そうだ、ナビゲーターの私に任せてくれますか。お願いするわ運転手さん。それでは三浦海岸までいって下さるかしら?」
「かしこまりました。おおせの通りに致します、愛するナビゲーターさん」
純一との掛け合いに、張り詰めた空気が和やかになり、車内が笑い声で渦巻いていた。
純一が車の窓を少し開けると、潮風が舞い込んできた。真奈美が鼻を膨らます。
「ううん、いい香りね。何とも気持ちがいいわ。この潮の香り、都内では味わえないもん」
「そうだね、気持ちいいな。ちょっと車止めてもいいかい。背伸びして、おいしい潮風を思いっきり吸ってみたいんだ」
「あら、気がつかずご免ね。東京からずっと運転してきたんですもの。大変だったでしょ。それに疲れたんじゃない。肩でも揉んであげましょうか?」
「いや、ちょっと休めばそれでいいよ。君に肩など揉まれたら罰が当たるだろ。それに後で何を強請られるか分からないからな」
首をすくめた。真奈美が睨む。
「何を言うの、そんなことするわけないでしょ!」
「本当かな」と言いつつ、純一は適当な場所を見つけ車を止めた。
「真奈美さん、ちょっと降りてみようか」
「ええ」
二人は車外に出た。眩しい真夏の陽射しが二人を迎えた。すると純一が両手を突き上げ、背伸びをしながら大きく潮風を吸い込む。
「ああ、いい気持ちだ。やっぱり海はいい」
「ううん、そうね。潮の香がとてもいい。胸に染み入るわ」
真奈美も背伸びをし、満足そうに返す。
「本当に来てよかった。こんな気持ちになるの久しぶりだわ。純一さん、有り難う」
「そうだね。俺も一緒に来てよかった。こうして二人でいられるんだ。こんないいことはないよな。それに君の嬉しそうな笑顔を見られて幸せだ」
「それじゃ、純一さん。お礼をしたいから、目をつぶってくれないかな」
「えっ、どうして目をつぶらなきゃいけないんだ?」
「どうしても、それじゃなけりゃ駄目なの!」
「ううん、分からねえな……」
訝り目をつぶる。するとその瞬間、真奈美が素早く純一の頬にキスをした。
「あっ!」
ふいを突かれ、予期せぬキスに目を丸くする。
「何だよ、ずるいなキスするなんて。俺が君にしてやることなのに。これじゃ、逆さまだよ!」
ぼやき周りを見るが、人がいないことに気づく。
「そうか、誰もいないからくれたんだね」
「ばれちゃったか。その通りよ」
種明かしをした。すると今度は純一が、急に真奈美を抱き寄せる。
「きゃっ!」
純一の腕の中に吸い込まれた。そのまま抱き合い、堰が切れたように互いの唇を求めていた。少しの間抱擁は続いたが、人目を気にしてかそっと離れる。
「真奈美さん、お返しだ!」
「ううん、純一さんの馬鹿……。こんなところで、私、恥ずかしいわ。でも、嬉しい」
「さあ、行こうか。あと少しで三浦海岸だ。ひとっ走りすればすぐに着くから」
二人は車に戻った。
「それじゃ出発しましょ。でもその前に、純一さんお願いがあるんだけれど、聞いてくれる?」
「ああ、いいよ。お願いってなんだい?」
「ううん、意地悪。ねえ早くして」
目を閉じて顔を近づける。純一が気づく。真奈美を抱き寄せ熱いキスをプレゼントした。
「しょうがないなこの子は、甘えん坊なんだから」
「どうも有り難う。これって、出発の合図でしょ」
「そうだったね、危うく忘れるところだった。ナビゲーターさんの要望通りにしなけりゃいけなかったんだよな」
「そうよ、出発する時の合図よ!」
「それじゃ、出発する」
エンジンキーを差込み、アクセルを踏み込んた。海岸線に沿って走ると、程なく三浦海岸へと到着した。
適当な駐車場を探し、そこへ車を止める。
「さあ、着いたぞ。真奈美ナビゲーターさん着きましたが。到着の合図はいかが致しましょうか?」
「到着の合図って……。ええっ、キスのこと?こんなに人がいるところで。ちょっと恥ずかしいわ。でも、運転手さんの、たってのご要請なら仕方ないですね。運転、ご苦労様です」
素早く口づけを交わした。
車から出ると、眩い太陽と潮香が二人を包む。
「ううん、何といい香りなんでしょう。芳しい潮の香り何年ぶりかしら。海に来るなんって久しぶりだもの」
真奈美が手をかざし、大きく深呼吸をした。
「さあ、お弁当持って、浜辺へゆきましょ」
純一をせっつき促した。
「おい、おい。そんなに急かせるなよ。海は逃げないからさ。ほら、バスケットを持ってあげるから」
「有り難う。それじゃお願い」
手作り弁当の入ったバスケットを手渡した。そして他の荷物を持ち、純一の差し出す手に手を預け、海岸へと歩いていった。海辺に近づくにつれ、潮の香がさらに強くなり、打ち寄せる小波と潮騒が歓迎するように二人を迎えていた。
波打ち際まで来て、打ち寄せる白波を見て感激する。
「素敵だわ、やっぱり海っていいわね。心の中が洗われるようだわ。今までの辛かったことを、すべて洗い流してくれるみたい……」
「そうだね、俺も同じ気持ちだよ。今日ばかりは、すべてのことを忘れ、君のことしか考えないことにする。そうさ、真奈美さんしか見えないものな。ほら、打ち寄せる小波が囁いているように聞こえるだろ」
「あら、そうかしら。私には、純一さんが他の女性に目を奪われぬよう監視していなさい。と言っているように聞こえるけど」
「えっ、そんなことしないぞ。君に誓うよ。絶対にそんなことしないと」
「本当、嘘じゃないわね。それだったら、小指を絡ませて約束してくれる?」
細い小指を立てた。
「おお、分かった。指切りでも何でもしてやる。俺の気持ちは変わらんぞ!」
小指を真奈美の小指に絡ませる。
「約束拳万、嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
見つめ合い指切りをした。
「ああ、よかった。これで純一さんも、私一人のものね。指切りしたもの」
「ああ、何だか騙されているみたいだな。そうか、それなら君だって約束を守らなければ針、千本飲んでもらうからな。いや、待てよ。針を飲ますんじゃなく……。そうだ、お尻をぺんぺんしてやるからな」
純一の顔がにやける。
「あら、嫌よ。そんなことされたら、お尻が痛いもの」
「それじゃ、優しく撫ぜてあげようか」
目じりを下げ、真奈美の尻を触る真似をした。
「まあ、純一さんのエッチ。駄目よ、こんなところで。他の人が見ているじゃないの」
恥ずかしそうに振舞う。
二人の間に笑みがこぼれた。すると今度は、にわかにしゃがみ込み、真奈美に両手で波をすくいかけた。
「きゃっ、冷たい。何するの!」
驚くが、すかさず真奈美が海水を両手で汲み投げかけた。
純一が面くらい奇声を発する。
「ひやっ、冷てえ。こら、何をする!」
発するや、彼女を捕まえようとした。するりとかわし、あかんべえをした。そんなふざけ合う二人の表情に、屈託のない笑みが浮かび、寄せ来る小波と共に悦びの声が響いていた。
突然、純一が叫ぶ。
「おお、そうだ。腹が減ったのを忘れていた。早く食べようよ。君の愛情の詰まった弁当を!」
「そうね、私もお腹空いちゃった」
砂浜に腰を下ろし、並んで弁当を広げた。真奈美からおにぎりを受け取り食べ始める。
すると、純一が口いっぱいに頬張り驚嘆する。
「美味えな。こんな美味いもの、食うの初めてだ!」
応えるように、真奈美が嬉しさを満面に浮かべる。
「ええっ、本当。でもそうやって、嘘でも褒めてくれると嬉しくなっちゃうわ!」
食べっぷりを満足気に見た。
頬張り、感心しながらさらに褒める。
「それにしても、君は料理が上手だな。この玉子焼きといい、おにぎりの握り加減といい。まったく大したもんだ。このウインナー可愛らしいじゃないか。まるで君のようだ。さあ、ウインナーちゃん食べちゃうぞ!」
口に放り込む。
「うむ、美味い。じつに美味いな。余は満足じゃ」
笑みを浮かべた。
「本当に、真奈美さんは料理が上手だね。俺、料理の得意な女性が好きなんだ。その点から言えば合格だな。それに昔、小さい頃お袋が作ってくれたおにぎりを思い出しちゃったよ。いや、むしろ君の作った方が美味いかな。やっぱり、愛情のかけ方が違うんだな」
「あら、そう。それは有り難う。お母さんのより美味しいだなんて、おせいじでも褒めてくれると嬉しいわ」
「いや、おせいじじゃないし、嘘でもない。本当に美味いから、感じた気持ちを正直に言っているんだ!」
真面目くさった顔で言い、さらに続ける。
「真奈美さんは、すぐにひねくれる。そんな君の顔がまた、何とも言えないくらい愛らしくて、可愛いいんだよな」
「まあ、純一さんったら。そんなこと言って、私、本気にしちゃうから」
「ああ、いいとも。俺は本気だ。そう思っているし、君を見ていると、無性に抱き締めたくなるよ」
「また、そんなことを言って。私だって、周りに誰もいなければ、あなたに抱きつきたいわ。今すぐにでも……」
マジな眼差しで見つめ合う。
「そうだ、真奈美さん。お弁当食べ終わったら、海岸沿いを歩いてみないか?」
「ええ、いいわね」
純一が夢中になって食べる。その様子を嬉しそうに見守っていた。
「ああ、食った、食った、満腹だ。君の作ったおにぎり美味かった。それに、ウインナーは子供の頃の思い出の味かな。玉子焼きはふっくらと焼けていてとてもいい。どれも君の愛情がいっぱい詰まっていて、それを食べたんだ。こんな幸せなことはない。真奈美さん、ご馳走様。すっごく美味しかったよ」
「どう致しまして。あなたにこれだけ褒められると、私、作った甲斐があったわ。それに残さず食べてくれて有り難う」
真奈美は嬉しかった。心の底から喜びが湧いてくる。
純一さんのためにと、一生懸命に作ってきたの。それを美味しそうに食べてくれた。彼の感想は、懸命に作ったことに感謝しているんだわ。私の想いを受け止めてくれて……、本当に有り難う。
心の中で、そっと呟いていた。
「さあ、片づけていこうか」
「ええ」
二人で手早く後片づけをした。
「いい浜風じゃないか。この潮の香り何とも言えないな。深く吸い込むと気分が落ち着くし、何だか心が洗われるようだよ」
「そうね。浜辺で打ち寄せる波と戯れ、そして私たち二人も潮風に乗り、素敵なワルツを踊りましょ」
「ううん、いいな。ロマンティックで。けど、俺、ワルツなんか知らないよ」
純一が周りの様子を覗う。
「それにこんなところで、二人してダンスなんかしてみろ。皆が何を始めたのかと、じろじろ見られてしまうぞ」
「純一さん、例えよ、例え。私だって、二人で抱き合い踊るなんて、恥ずかしくて出来ないわ。その代わり手を繋ぎ歩きながら、心の中で踊るの。それならいいでしょ。そうすれば周りの人たちにも気づかれないし」
「ああ、それならなんともないな。それに気持ちが乗ってきたら、スキップでもしようか」
「いいわね、そうしましょ」
打ち寄せる波を避けながら、時にははしゃぎ、立ち止まっては見つめ合う。繋いだ手を離してはまた握り合う。潮風が心を一つに結びつけるように絡み付いてきた。何時の間にか、潮騒が周りの視線やざわめきを消し去り、たった二人だけの至福の空間を作り上げていた。
少なくとも、二人にはそう感じていた。そして、打ち寄せる波のリズムに合わせ、ゆっくりと歩いた。
漂う潮香が気持ちを和ませる。
数時間前に来たにもかかわらず、随分前から一緒にいるような気分にさえなっていた。潮香と潮騒がそうさせているのだろうと感謝していた。
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