第3章 夢に酔う
一
だが、またもや恋愛の神様が悪戯をする。蜜月の関係が二ヶ月続くと、ふたたび安穏とする日々が訪れていた。真奈美が憂鬱そうに呟く。
「やはり駄目なのかしら。ほんの少しの間、夢を見ていただけなのかも知れないわ……」
うたかたの夢。そう、純一と寄りを戻したという錯覚の夢を。互いのすれ違いも、これで乗り越えたと確信していたのに。
だが、今思えば、束の間だった。気がつくと、喜びも水疱のごとく消えていた。それからまた、すれ違いの日々を複雑な思いで過ごしていた。思い悩む日々が続く。
そんなある日の就業中、真奈美はエレベーター前で由紀子とすれ違った時、立ち話に及んでいた。
挨拶を交わした後、ついと真奈美が愚痴をこぼす。
「あれから彼と上手くいってないの。どうも私、駄目なのよね。あれから何度か波風が立って、その都度縁りを戻してきたんだけど、また上手く行かなくなっちゃって。でも私、彼のことを愛しているわ。だからどうしたらいいのか悩んでいるの」
聞く由紀子が、平然と応える。
「それだったら仕方ないんじゃない。でも、そんなことで上手くいかないのなら、本物とは言えないわね。お互いにもっと努力が必要なんじゃないの。だって知り合ってまだ短いんでしょ。一年や二年付き合えば、互いのことがはっきりと見えてくるけれど、それくらいじゃ、分からないことが多いんじゃないかしら。それなのに二人とも知ったかぶりし、気を使い過ぎてぎこちなくなっているだけじゃないの」
論じ諭された。
「ええ、そうね。由紀子さんの言う通りかもしれないわ。私たち知り合って半年も経っていない……」
「ところで真奈美さん。彼とは毎日会っているの。それとも周一ペースぐらいかしら?」
「ええ、週に一回。それも水曜日の夜だけ。後は携帯でお話しするか、メール交換をしているの。本当は毎日会いたいけれど、彼のお仕事の関係で無理なのよね。理解し合えていると思っていたんだけれどな……」
俯く彼女に、きっぱりと告げる。
「そうでしょ、真奈美さん。それであなた、彼の家に行ったり泊まったことがあるの?」
「いいえ、ないです……」
「それだったら、どこに住んでいて、どんな生活をしているか見てないし、知らないわけね」
「ええ、まったく……。私、彼がどんな暮らしをしているのか、まったく知らないの。これじゃ彼の本当の姿だって分からないと言うことになるわね。……私って、分かっているようで、また繰り返している。一度目もそのことで失敗し、今回教訓にしているつもりなのに、また同じ過ちを犯すなんて、駄目ね」
「そんなことないわ。これしきのことで諦めてどうするの。だって真奈美さん、あなた心から彼を愛しているんでしょ。だったら複雑に考えず、もっと大胆にぶつかっていかなければ。遠慮して引っ込み思案になっていては駄目。一度や二度のすれ違いで諦めていては、本当に彼の心を捉まえられないわ」
「でも……、そう言われても、彼の考えもあるし……」
「ほら、それだから駄目なのよ。気を遣い過ぎて、逆に彼から敬遠されてしまうわよ」
「私って、やっぱり駄目なのかしら……」
「何言っているの、そんなこと決してないわ。だって真奈美さんは、女の私から見ても魅力的よ。だからといって、遠慮し待っていてはいけなの。もっと積極的にいかなければ。貝のように自らを閉じていては、何も新しいことが生まれないわ」
すると真奈美の目が、すがる眼差しになる。
「どうすればいいの、由紀子さん。どうしたいいのか教えて欲しいの。だって、本当に彼が好きなんですもの……。諦めることなど、とても出来ない!」
心情を汲み説く。
「そうね、それだったら、簡単なことよ。彼の住む家に行ってみればいいのよ」
大胆な勧めに驚く。
「ええっ、そんなこと……」
「難色示したら、『どうしても行きたい』と言うの。それでもぐずるようなら、強引にでも行ってしまうの。そのくらいの勇気を持たなけりゃね。彼のことが好きなんでしょ。彼のことをもっと知りたいんでしょ」
「ええ、私、彼のすべてを知りたいの。どんなことでもいいから解りたい!」
真奈美が悲壮なほど高揚すると、さらに由紀子が導く。
「まずは、そうね。たしか彼の勤め先の『た喜ち』は水曜日が定休日だわよね。それじゃ水曜日に彼の家へ行くことね。それも昼過ぎがいいわ。多分、寝ているか、起きたばかりの時よ」
「でも、私お休みでないから……」
躊躇うと、強く諭す。
「何言っているの、会社は休むのよ。そう、ずる休みするの。それくらいのことは覚悟しなけりゃ。その前に、彼の住所を確認しておくことね。ついでに、どこの駅で降りるかまで聞けたら、なお結構だわ。本当に縁りを戻したいなら、まずやらなければならないこと。彼の住所と下車駅さえ分かれば、どこに住んでいるか調べられるでしょ」
説教気味に言い含められた。
「ええ、調べることは出来るわ。……勇気出して、調べてみせる」
少し勇気が湧いてきた。
「そう、それでいいのよ。そしたら後は、計画通り決行すればいい。そうね、食事するつもりで食材を買って行くことね。真奈美さん、多少なりとも料理は出来るんでしょ?」
「ええ、大丈夫。でも、上手くいくかしら……」
「さあ、それは実行してみなければ、何とも言えないわ。もし私だったらそうする。どうなるかなんて、やる前から考えたりはしない。当たって砕けろとしか考えないわよ」
「そうね、確かに由紀子さんの言う通りかもしれない。分かったわ、やってみる。でも、もし訪ねていって、喜んでもらえなかったらどうしよう。余計嫌われてしまうんじゃないかしら……」
弱気の虫が這い出すが、尻を叩く。
「ほら、すぐあなたは後ろ向きに考える。それじゃ駄目なの。もっと気楽に、彼が驚くかもしれないけれど、強引に押しかけてやるほうがいい。それくらい積極的にいかなくっちゃ。そうね、気持ちは彼のところに転がり込むくらいの方がいいわ。そう、その日から同棲するんだくらいにね」
「ええっ、そんなこと……」
由紀子の積極的な勧めに、また後ろ向きな思いが芽生える。すると、即座に叱咤される。
「ほらほら、すぐにそれだから。それじゃ上手くいかないわよ!」
「ううん、由紀子さん有り難う。そう言われると、なんとなく勇気が湧いてきたみたいだわ」
「勇気が出てきた?」
「ええ、何とか……」
「そう、それなら、実行しなさい。分かったわね、真奈美さん!」
彼女にとって、ひと時の立ち話ではあったが、由紀子に励まされ、これで諦めたらいけないことに気づく。
そうよ。もう一度、純一さんと話し合ってみよう。彼の気持ちを取り戻せないわけがない。彼だけの責任とはいえない。私にだって原因があるんだわ。由紀子さんに励まされたように、そう、ほんの一握りの勇気を持てばいいんだ。自分で決めたことを実行する勇気を持つことね。後は結果がついてくるのみ。決してくじけてはいけないんだ。
そう決心すると、胸の中が明るくなってきた。すると思い出すように、彼と愛し合った日々が蘇り、身体が熱くなっていた。
くすんと頷く。
駄目ね、私って。どんな時でも彼を求めているんだから。そうよ、彼って私を夢中にさせてくれる。だから何時の間にか、それが当たり前のようになってしまい、つい我侭になっていたんだわ。私の休日に会いたいとか、彼の困ることばかり強請っていた。彼のことを考えず、私自身が気づかぬうちに。そうだ、純一さんが悪いんじゃない。私がいけなかったんだわ。もう一度会って、素直な気持ちで謝ろう。
とにかく、彼の住んでいるところに行ってみよう。びっくりするかもしれないけど、でもいいの。それくらいの強引さがなければ、新しい展開なんて生まれてこないものね。でも、純一さんは許してくれるだろうか……。
不安の芽が少し頭をもたげてきたが、自ら封印し胸の奥に押し込む。そして勇気を出し携帯電話を取り、彼に電話をしようと登録番号を押しかける。が、途中で止めた。
それよりも直接会い、住所を聞こう。寄りを戻してもらえるように誠意を尽くし話してみよう。
そう決めた。
そうだ、今日仕事が終わったら、ルピナスへ行ってみよう。いや……、どうだろうか。連絡もせずに行けば、驚き気分を損ねて、余計私を避けるかもしれない。
ああ、どうだろう。前もって電話してから会いに行くべきか。それともメールで連絡し確認しようか。
真奈美は迷う。
ああ、どうすれば純一さんと、また深く愛し合えるのか。そのきっかけを、どう掴めばいいんだろうか……。
踏ん切りをつけたつもりでいたが、いざとなると迷った挙句、発信ボタンを押す勇気が湧かず、迷い実行に移せずにいた。考え過ぎだと言われれば、そうかもしれない。どうしても募る想いが強く成るほど、負の結果ばかりを考えてしまう。
ああ、以前のように何故できないの……。あの頃は、互いに迷いなく愛し合えたし、気軽に話も出来た。それがどうしてこんな風になってしまったの。
ふたたび己を責めてしまう自分が情けなかった。結局、先送りになる。
そうだ……、今日連絡しないのなら、明日必ず連絡しよう。
後ずさりし心に決める。悶々とした気持ちで翌日を迎え、それが当日になると深く悩み出す。夕方近くになり焦り出し、仕事も手がつかなくなって単純なミスを犯す。上司に怒られ意気消沈し、次の日に繰り越す。
そんなことを繰り返しているうち、一ヶ月の月日が経っていた。
結局、うじうじと後ろ向きな考えに落ちてゆく。そうなると真奈美自身が、勝手に結論を出す。
やっぱり私って、駄目な女なのね。好きな相手に電話も出来きず、後退りしている。せっかく由紀子さんに勇気をいただいたのに、いまだ調べられずにいる。そんなことだから純一さんに嫌われ、愛されなくなるんだわ。ああ、どうして私は意気地がないの……。
後悔の念に駆られるのだった。
浅い付き合いであったなら、これで幕を閉じていただろう。だが、今の真奈美にとり、純一と過ごした日々は、その遊び心の領域をはるかに超え、忘れ得ぬ人となっていた。
男にしても女にしても、初めのうちは興味本位から始まり、徐々に熱を上げてゆく。一定のラインを超えると、それは本物の愛へと変わる。そのような関係になると、すんなりと諦められないのが男女関係ではなかろうか。
恋に落された女性心とは、強くもあり弱くもある。今の彼女にとって、まさに失いたくないという一念から、弱い面が大きく道を塞いでいた。
真奈美にとり純一という男性を知ってから、心の奥にしっかりと根を下ろし、もはや拭い去れぬものとなっていた。上辺だけの理屈をもって、無理矢理結論を出し諦めるような思いでいても、現実はそうではない。何をやっていても、何時の間にか彼が頭の中を支配していた。
諦められぬジレンマは、次第に真奈美自身を蝕んでゆく。臆病の小悪魔は悩む彼女を、さらに絶望への淵に落とそうとする。
真奈美は益々窮地へと追い込まれていった。
夜も眠れなくなり、食欲は極端に落ちた。げっそりとした顔から生気が失われてゆき、周りの同僚すら始めのうちは心配顔で見守ってくれたが、そのうちうとんじられ、今では係わりを持ちたがらないのか、真奈美から遠ざかるようになっていた。
異様な顔つきとやせ細った身体は、みなを怖がらせた。誰もが薄気味悪いと近寄らなくなる。どうにもならなくなった真奈美は、この苦しみから逃れようと、辛い現実からの逃避を考えるようになった。
諦め呻く。
「ああ、こんなに苦しい思いをするなら、いっそ死んで楽になりたい。そうすれば何もかも忘れられるし、もう彼のことでこんなに辛い思いをせずにすむわ」
だが思い止まったのか、はたまた決断する勇気がないのか。結局、愚図ぐずと悩める日々が続いた。またうじうじと悩む。
私さえ少しの勇気を持っていれば、由紀子さんが後押ししてくれた打開策を進めることが出来たのに……
真奈美に取り付いたトラウマが、彼女を弱気にしていた。ところがそんな彼女が、意外にも追い詰められてか、究極の道を選択したのだ。
ある日思い余って、自ら手首を切って自殺を図った。しかし死に切れなかった。神様は永遠の眠りに就かせてくれず、意識を取り戻した時、病院のベッドに横たわっていた。その現実に屈辱と絶望が覆い一人泣き崩れていた。
しかし、愛の神様は悩める人をそう簡単に見放すものではない。
そんな悩む彼女の携帯電話に二、三のメールが寄せられていた。日付は三日前のものである。一週間ほど意識のない状態でベッドにいた真奈美は、意識を取り戻し数日過ぎた日に、看護士から告げられた。
「あなたの携帯電話の着メロが、数日前に何度か鳴っていたわよ。開くわけにもいかず、気になっていたの。落ち着いたら教えてあげようと思って、こうして話しているの。気分がよくなったら、開いてみるといいわ。
そう言えば、昨日も病院の方に電話があったそうよ。多分、会社の方ではないかしら。安静中ですと伝えたらしいの。心配して連絡してきたんでしょ」
気落ちしている真奈美には、どうでもよかった。素っ気ない返事となる。
「そうですか、それはご迷惑をおかけ致しました」
それでも看護師が優しく気遣う。
「いいのよ、それよりも早く元気になってね。それに落ち着いたら、着信内容を確認しておくのね」
「はい、お気遣い有り難うございます。気分がよくなったら開けてみます」
真奈美が礼を言う。
「いいえ、どう致しまして。それでどうかしら、ご気分は?」
「ええ、まあ……」
事情を知ってか、辛そうな返事に優しく諭す。
「そうね。いいわけないわよね。でも無理しちゃ駄目よ。何時までも、くよくよしていないで、とにかく早く元気になることね。それが今、あなたがしなければならないこと。他のことはその後で考えればいいの。分かった」
「ええ……、すみません。ご迷惑をおかけして」
「何を言うの、迷惑だなんて。そんなこと思われたら、私たちこの仕事やってられないわ。気を使うことないの。まずは体力を回復させること。あなたはまだ若いんだし、少々のことでくじけては駄目。それにどんなわけがあるのか分からないけど、諦めてもいけないわ。歯を喰いしばってでも、自分が決めたことは貫き通さないとね」
告げられる言葉が、絶望の淵にいる彼女にとって、力強い励ましだった。黙り頷く真奈美に、さらに励ます。
「おっと、まあ、あまりお説教じみたこと言ってちゃいけないわね。今、意識戻って、ようやく精神的にも安定してきたし、無理できないから。何かあったらすぐに連絡ちょうだいね。何でも相談に乗ってあげるから」
「ええ、有り難うございます。ご迷惑をかけて……」
力ない感謝の返事を遮る。
「また、そんなことを言う、気遣い無用よ、寺田さん。私だってこうみえても、若い頃は悩むことが沢山あったわ。だから多少なりともお役に立てるかもしれないわ」
「……有り難うございます。私みたいなものに、そこまで気を使っていただき感謝しています」
真奈美は懸命に励ます看護師の言葉に涙が溢れてきた。
「あら、馬鹿ね。こんなことで泣いてどうするの」
「ええ、すみません。看護士さんが、あまりにも優しいこと言うんですもの。何だか嬉しくなって涙が出てしまいました」
「そう、それでいいのよ。感謝する気持ちがおありなら、それで充分。人間、素直になることが大切なの。あなたが今、人の親切を有り難いと思うなら、その人がどう思っているか分かるということ」
「……」
なんて礼を言ったらよいか分からなかった。それでも優しく導いてくれる。
「それならば、あなたが悩んでいることを、相手の気持ちになって、考えてあげることが出来るんじゃない。悲しくなることを考える前に、楽しくなるようにするにはどうしたらいいかを考えることね。それが相手にとって、どれ程待ち望んでいることかしら。だから、それを実行して悦びの涙を流しなさい。そうすれば必ず理解してくれるし、道が開けると思うわ。分かったわね、真奈美さん」
「ええ……」
躊躇うように頷くが、意を決したのか、改めて決意する。
「はい、分かりました。そう言われると何だか勇気が湧いてきます。今度こそ、おっしゃられた通りやってみます」
「そう、それはよかったわ。真奈美さん。元気が出てきたみたいね、その調子よ」
真奈美は一筋の光が射し込んできたように思えた。すると身体の奥底から、力が湧いてきた。
「看護士さん、ちょっと疲れました。少し眠ってもいいですか?」
「ええ、いいわよ。ゆっくりお休みなさい。そして、いい夢を見なさい」
「はい、有り難うございます」
明るい夢が待っている予感がした。真奈美はベッドに横たわり、会釈をし目を閉じた。
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