二
気持ちにいい面が出れば、楽観的に考える。逆に、悪い面が出てくると不安に慄き落ち込む。そうなると何時の間にか、胸の奥に棲むトラウマがもぞもぞと蠢いてくる。それが情緒不安を招き、真奈美を苦しめるのだった。それの繰り返しが起きる度に、喜怒哀楽が顔に出た。仕事中でも、つい態度に現われる。同僚に悟られまいと振舞うが、心配そうに尋ねられた。
「真奈美さん、どうかなさったの。顔色が悪いわよ。何かあったの、それとも身体の具合でも悪いの?」
「いいえ、何でもないわ……。ちょっと、考えごとしていただけよ」
言い訳し仕事に向かうが、それで気持ちが晴れるわけではない。昼が過ぎても純一からの着信メールも電話もなかった。
当然食欲もわかず、昼食もコーヒーだけですます。真奈美は焦っていた。
午後三時を回り追い詰められ、どうにもならなくなり、止む無く席を立ち化粧室に入り、純一の携帯に電話を入れた。しかし、昨夜聞いた辛い言葉が流れるばかりで、彼の声を聞くことは出来なかった。真奈美はどうすることも出来ず、進展のないまま仕事を終え、家路へと就かなければならなかった。純一から連絡がなければデートもできないのだ。肩を落とし意気消沈していた。自宅に着いても、何もする気力が湧いてこなかった。
部屋に入るなり座り込み食事も取らず、じっと携帯電話の着信音を待っていた。午後十時を過ぎても電話はなかった。気疲れしたのか座ったままうつ伏せ、夢の世界へ誘われていた。
どう言うわけか、純一が見知らぬ女性と親しく話をする場面が映し出される。私が近くにいることすら無視し、電話を掛けても夢中で話をしていた。
真奈美が叫ぶ。
「純一さん、あなたに電話を掛けているのに、どうして出ようとしないの。どうして無視し、見知らぬ女性と楽しそうに語り合っているの。
携帯電話だけじゃないわ、さらにこうして、私が大きな声であなたを呼んでいるのに、何故振り向いてくれないの。どうして気がつかない振りをしているの。
もしかして、私を嫌いになってしまったの。でも……、そんなの嫌、嫌よ!」
泣き叫んでいた。さらに泣きながら、ばたばたと近くの何かを叩いていた。
その叩く音で跳ね起きる。額や胸元が寝汗でびっしょりと濡れていた。固く握った拳で拭う。
ああ、夢だったのか……。
見ると時計の針は午前三時を差していた。
ふたたび床に入るが、眠れぬまま夜明けを迎えていた。むっくり起きると、頭が割れるほど痛かった。
身体が鉛を飲んだように重く、動くことさえ億劫だった。そろりと床を離れ、何も食べずにのろのろと出勤する。気力が失せ、職場に着いてもやる気が起きず、椅子に腰掛けているのが精一杯だった。
始業のベルが鳴る。と同時に、携帯電話が着信音を奏でていた。その着信音は、彼女の部屋に置き忘れている携帯電話だった。
暫く鳴っていたが、プツンと切れて止んだ。時間を置き、再び携帯電話に着信を告げる曲が流れた。どこの誰からか、どのよな内容のメールなのか分からぬが、しっかりと携帯電話に届いていた。
今朝以来真奈美は、携帯電話をハンドバックから取り出し見ることさえ怖くなっていたし、電話することも臆病になっていた。さらに、携帯電話を自宅に置き忘れていることすら、気づかずにいたのだ。それ故、彼女に電話が掛かってきたことも、そしてメールが届いていることも知らずにいた。
ただ、ただ手元のハンドバックにあると思い込んでいる携帯電話の着信音が鳴ることだけを待っていた。連絡のないまま長い一日が過ぎた。
終業タイムが鳴ると、心配そうに見守る同僚に、気分転換にと無理矢理誘われ、仕事帰りに居酒屋へと連れ出された。仲間が楽しげに語り合うなか、重い気分で時の過ぎるのを待つ。望みはハンドバックの携帯電話が鳴ることだけだ。だが、それすら無常にも真奈美を見放していた。空腹が度を超し、失われた食欲の中で、勧められるままにビールを飲む。
受け入れられることはなかった。すぐに気分が悪くなりトイレで吐いた。
皆と共に座っていられないほど目が回っていた。結局、同僚に断り、やっとの思いで自宅へと帰った。そして、苦渋に満ちた気持ち悪さに苛まれながら、崩れるようにベッドに潜り込んでいた。そうしたところで気分が落ち着くわけではない。割れるような頭の痛さに、一晩中苦しみのた打ち回った。
あまりにも苦しかった。
あまりにも悲しかった。
真奈美はベッドで泣いた。次々と涙が溢れていた。一向に頭の痛みは治まらず、苦しみもがき何度も寝返りを打った。泣き疲れたのか明け方近くに浅い眠りについていた。
目が覚めると朝が来ていた。
ふと見ると、テーブルの上に携帯電話があることに気づく。だが、着信状況を見ることを躊躇った。あれほど待ち望み、一晩中苦しみ泣いて待った彼からの連絡。もしや来ているのでは。否、来ているはずがない。昨日あれだけ待ったのに来なかったではないか。そう思うと怖かった。それでも恐る恐る手に取り着信履歴を調べた。
真奈美が目を見張る。
考えてもいなかった文字が、目に飛び込んできたのだ。打ちのめされている時に、思いもよらぬ活字が画面にあった。
「ああ……」
失いかけた期待が、大きく膨らんでいた。悦びの文字が画面の上で踊っていたのである。胸が震え激しく高鳴っていた。
間違いなく純一からのものだった。食い入るように見つめ、画面の文字を追った。
目が潤んでいた。
溢れる涙に着信メールの文字がぼやけていた。その内容は簡単なものだったが、それでもやっと読み終えた。
「電話できなくて、ご免な。でないので、また電話するからね」
それだけの内容だったが、真奈美にとっては、それで十分だった。
「純一さん……」
詰まり呟いた。
後は言葉にならなかった。嬉しくて止めどもなく涙が溢れ、頬を伝い落ちていた。拭おうともせず笑顔のまま泣き続ける。
「純一さんの馬鹿、こんなに心配かけさせて……」
奈落の淵に落ちる寸前で踏み止まった。真奈美にとっては、劇的な幕切れである。溢れる涙で洗い流されるように、覆っていた暗雲が一瞬にして飛散していた。頭の痛みなど消えていたし、胸の内が爽快に晴れ渡っていた。
そしてまた、彼とのデートを再開していた。今までのすれ違いが嘘のように消えていた。それ以来、蜜月の月日が経っていた。その後、愛を重ねる日々が続き、気がつくとまたすれ違うことが多くなっていた。
あれほど互いに熱く燃え、幾重にも愛を育んできたのに、どうしてこうなってしまうの……。
真奈美にも分からなかった。純一とて同様だ。結局互いに遠慮がちになり、周一のデートをしていてもどことなくぎこちなくなっていた。焦る気持ちとは裏腹に、またもや隙間風が吹いていったのである。
どうして、こんな風になってしうのだろうか……?また同じことを繰り返しているなんて。私たちすれ違うばかりで、もう駄目なのかも知れない。
彼女の焦る気持ちの中に、苛立ちさえ生じていた。
そうなると、消えたはずのトラウマがまたぞろ蘇ってくる。すると、会えない時の唯一の連絡手段である携帯電話での会話や、メールの交換すら遠のいていた。
気持ちの上では今すぐにでも、自分の想いを伝えたいと思う。電話をかけ、自分の気持ちを素直に話すことは、心で思っていても、彼の声を聞けば多くは話せないだろう。それ故、手元にある携帯電話に、ほんの少しの勇気を出して、その気持ちを入力すればそれですむ。それがどうしても出来ない。もしメールを入れて、彼が私のことを想っていなければ、嫌われることになりはしないか。
そう思うと、メールを入れることさえ躊躇った。勿論、直接電話することなど到底出来ない。
こうなってしまったのも、やはり私のせいなんだわ。気づかぬままに私の我侭が、純一さんには不愉快なものとなり、それで嫌いになってしまったのね……。
確かに一度や二度の挫折はあったけれど、その都度乗り越えてきたじゃない。
そう、そうよ。一週間に一度しか会えないの。デートの時は、互いの愛をたしかめ合うため激しいキスを交わし、一つになって何度も上り詰めていたわ。それで互いが、愛し合っていることを確認できていたのに。
それが今は、彼に連絡することさえ迷う。どうしてこんなことになってしまったの。でも会いたい。会って彼の胸に飛び込みたい。そして、愛していると言って欲しいのに……。
考え出すと悲しくなり、止めどなく涙が溢れた。
だが、そんなことになっているとも知らず、真奈美が知らぬまま同じく鬱ろぐ者がいた。そう、純一にしても深く悩んでいたのだ。 悔い涙する。
真奈美は俺のことを、嫌いになってしまったのか。あれだけ愛し合っていたのに、それが今では他人のようなぎこちない関係になっている。
確かに毎日会うことが出来ない。それは仕方のないことだ。仕事でのすれ違いは、互いに最初から分かっていたはずだ。俺もそうだし、彼女だって承知で付き合い始めたではないか。週間に一度しか会えないが、そりゃ、毎日会って愛を確かめ合いたい。けれど一週間に一度でも充実していれば、理解し合えるはずだ。今までだって、そうやってきたではないか……。
それで上手くいっていたのに。彼女に心変わりでも?いや、そんなことはないはずだ。現に俺だって、微塵にもそんなことを考えてはいない。
純一にしても、半年前に彼女を悲しませてしまった負い目があった。
つい、仕事の忙しさにかまけてデートをすっぽかした。その時の真奈美の悲しみが痛いほど俺は解ったはずだ。だから、それなりに仕事も生活も無理をして合わせてきたつもりでいる。それが今では気まずい関係になっている。
二人の間に立ち込める重苦しい空気に悩んでいた。
それでも俺は、彼女を愛している。誰よりも深く愛している。真奈美を失いたくない。
焦る気持ちは日に日に強くなるばかりだった。
だから、何としても寄りを戻したい。前のように気兼ねなく愛し合えるようになりたいんだ。
悩み苦しみの中で切望していた。
でも、電話もくれずメールもない。もしかしたら、俺を避けているのではなかろうか?こんな俺を嫌い、他に好きな男でも出来たのか。
いいや、そんなことは嫌だ。あってはならない。それほど俺は真奈美を愛している。だがしかし……。もし、そうであるならば、俺は知りたくない。分かることが恐ろしい。
そう思うと、今迄のように気軽に携帯電話にメールを入れたり、電話をすることが出来なくなっていた。仕事の忙しさと生活パターンの違いにこじつけ、彼女への連絡を躊躇うのだった。
気づかぬうちに、彼自身もトラウマに覆い包まれていた。
互いが意識するあまり、余計なことを考え連絡をしそびれる。忘れたように、たまに逢えば会ったで、どこかぎこちなくなり、会話の花もしおれていた。ただ、成り行きだけで互いの身体を弄りあった。ことが終わるとその後はまた、ぎこちない関係へと戻る。そして、暫く連絡が途絶える。その繰り返しが続いたが、やがて会うことさえなくなった。
本心を打ち明けたかったが、焦るほど気兼ねし出来ずにいた。それが二人の間に距離を置く状態にしていたのである。お互いにほんの少しの勇気さえ出していれば、分かり合えたはずなのにそれが出来ずにいた。
どうしてあの時、もっと打ち解けるよう努力をしなかったのか。自分がもっと積極的に真奈美を導いてやれないのか。何故その勇気が出ないんだ。情けないではないか。
己の不甲斐なさを純一は責めた。そして、益々互いが気持ちの上ですれ違っていった。
そんな迷える二人は、苦悩に満ちる道をさ迷うが、さりとてそんな状態を誰かが修復してくれるわけではない。
純一は毎日彼女のことを考え、一時として忘れることなどなかった。思い悩む日々の中で、何としてもよりを戻したいと願った。何のわだかまりもない姿で愛せるような、そんな関係に戻したかった。
このまま終わるなど、俺には考えられない。いや、絶対にあってはならんのだ。それが始めて彼女と出会った時に、心に刻み込んだではないか。単なる通りすがりの恋愛ではない。心の芯から、俺は彼女のことを愛している。それを分かって欲しい。
好きだ、真奈美!今すぐにでも会って、心から愛していると伝えたい。
そんな気持ちが益々募るのだった。気持ちにゆとりがなくなると、常にそのことばかりが頭の中を支配してゆく。他のことが手に付かなくなり、やるせない想いばかりが心を蝕んでいた。
熟々たる思いで日々が過ぎてゆく。
だが、やるせない想いは真奈美とて同じだった。心では激しく慕い、伝えたいと願う。
愛するあなたに、一刻も早くこの熱き胸の内を打ち明けたい。
だが、すぐに躊躇う。
そうしたいが、思うように素直な気持ちになり、彼に会うことが出来ない。もう純一さんは私のことなど、嫌いになってしまったのではないか。それとも他にいい人でも出来たのか……。
余計なことを、つい考えてしまう。
だとすれば、私はどうすればいい。彼の気持ちが変わってしまったとすれば、私は、純一さんとの恋を諦めなければならないの。好きで好きで、どうしようもない気持ちを無理矢理断って、お別れしなければならないの……。
そんなこと、私……。そんなこと出来ないわ。だって、私は彼を心から愛しているんだもの。諦めることなんて、とても絶対に出来ない。ああ、純一さん。お願い。私を強引にさらって、しっかりと抱き締めて欲しい。ああ、私はもうへとへと、立っていられないほど疲れたわ。
距離を置くほど、真奈美の想いは激しく募り、さらに切なくなるばかりだった。すれ違う二人は、幾日も苦しみ悩み、時には己を卑下し罵倒する。そして、互いが邪推し余計な方向へと相手を追いやる。そんな愚かなことを焦りの中で繰り返していた。
だがしかし、苦しみもがく二人に、神様は辛い試練を課していたのだが、放って置くことはなかった。
辛い冬も時が過ぎると、春の到来とともに暖かな陽射しが戻ってくる。すると凍てついた地面が緩みだし、そこから小さな新芽が顔を覗かせてくるものだ。
まさに二人の関係は、そのようになった。悩み苦しんだ分だけ、春の訪れは二人にとって、待ちに待ったものだった。ようやく雪解けが始まる。
悩み抜いた末、純一は強く決意する。
俺が真奈美さんを導いてやる。迷って慄いている今、そうしなければならないのだ。それが俺には欠けていたし、せねばならぬ小rとだ。やっと気がついたぞ!
純一は奮い立っていた。
これしきのことで、彼女との関係を終わりにしてはならない。そんなことをすれば、一生後悔する。俺が迷い導けずにいたことがいけなかったんだ。もう、迷っていてはならぬ。それこそ彼女を幸せにすることが出来ないじゃないか。躊躇せず突き進み、俺の真の愛を伝えよう。
真奈美にしても同じだった。
今まで余計なことに気を使い、迷い道に踏み込んでしまった。自分だけがもがき苦しんでいるかのような錯覚に陥り、自ら目隠しし周りを見えなくしていたんだわ。馬鹿ね、私って。それに気づかなかったなんて……。
そう、素直な気持になればいいのに。正直な気持ちになって純一さんについていけばいいんだわ。そして、迷ったら甘えて彼の熱い胸に飛び込めばいいのにね。
足元を踏みしめ、互いに携帯電話を握り締める。どちらともなく発信ボタンを押していた。
二人が同時に受信し応えていた。
「もしもし、純一さん……」
「はい、そうですが。あっ、もしかして、真奈美さん?」
「ええ、真奈美です……」
「よかった、電話に出てくれて。有り難う。もし出てくれなかったら、どうしようかと思っていたんだ」
「私だって。思い切って、勇気を出し掛けたの」
「僕だって……」
二人とも切なる思いに駆られ、胸が詰まっていた。一瞬、会話が止まる。
「……」
「……」
言葉が出なかった。
否、今、二人にとって言葉などいらない。携帯電話を耳に当て、何時までも黙っていた。
真奈美は泣いていた。純一の息遣いが耳元に響いてくる。あまりの嬉しさに言葉が嗚咽に変っていた。話したいことが山ほどあるというのに、涙がそれを邪魔した。
純一とて、言葉を失っていた。愛しい真奈美の嗚咽が胸に沁み込んできた。胸の内で叫ぶ。
真奈美、愛している。お前を二度と離さない!
どちらの発信が先だったか分からぬが、ともかく互いがほんの少しの勇気を発揮したことで、相互のわだかまりが氷解し、気持ちが一つに成り得たのだ。それは、絡み合った赤い糸を、愛の神様がほぐしてくれたようだが、二人には悩み苦しんだ分へのご褒美となるのだろうか。
純一が、つと思う。
今までのことは、いったいなんだったんだ。いや、そんなことはどうでもいい。
純一が、嗚咽する真奈美に優しく語り掛ける。
「今まで、ご免ね。俺がいけなかったんだ。俺はやっとわかった。君以外に愛する者はいない。真奈美が俺のすべてだ。こんなことをいま話すと、君は怒るかも知れないが本当だ。心から愛している。だから許してくれ」
「私だって……」
やっとそれだけ返す。もっともっと自分の気持ちを伝えようとしたが、溢れる涙が止まらなかった。純一の耳に届いた一言。それで充分である。己の本心を解って貰えたことで胸が詰まっていた。ぐっと堪えていると、二の矢が飛んできた。
「私だって、もう絶対にあなたから離れないわ」
嗚咽を繰り返すなか、やっとの思いで真奈美が己の本心を伝えた。それは、純一とまったく同じ気持ちでいたからだ。
恋の神様が永遠の愛を二人に授けてくれたのだと、何時までも携帯電話を耳に押し当て、互いの息遣いを愛の証として確認し合っていた。
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