第66話 1DKの王子様

 私以上にパーティーの席が苦痛そうな飛島さんをロンダとダニーに任せ、私は一旦会場を退出した。


 ほんの少し前まで、家賃三万八千円のアパートとグリースまみれのファミレスキッチンとヨガ教室で小さなトライアングルを描いていた私にとって、あの空間はきらきらとした異世界に過ぎた。


 継母と義理の姉にいびられながら家事に明け暮れ屋根裏部屋で眠るシンデレラは、果たして本当に王宮の舞踏会を楽しめたのかしらんといぶかしく思う。


 こんな夜は、拓人さんをぎゅっと抱きしめながら泥のように眠りに落ちるのが一番の特効薬だ――。

 そんな事を思いながら拓人さんにラインを送ると、本郷さんからラインが入った。


〈メイク直しを終えたらすぐに戻ります〉

 私は浮かない心持のまま、スマホをパーティーバックに戻して立ち上がった。




「ゆい、もうギブアップ?」

 シャンパングラス片手に五十代後半の男性と歓談していた本郷さんが、会場に戻ってきた私を見るなり肩をすくめた。

「ああ、こちらが社長夫人のご友人でモデルの?」

 男性はいかにもパーティー慣れした仕草で私にほほえんだ。


「若葉ゆいと申します」

 どことなくぎこちないあいさつだと我ながら思いつつ、私は男性に頭を下げた。

柏葉雄一かしわばゆういちと申します。ヴィンテージ楽器のマネジメント会社を経営しております」

 耳慣れない職業に、私は思わずオウム返しに問いかけた。


「珍しいでしょ?」

 笑いながら柏葉さんが目で指した先に、チェリストの飛島純とびしまじゅんさんを含めた五人の若者が楽器を手に現れた。


「彼ら彼女らの使っている楽器も、僕の会社を通じて暁星芸術振興財団ぎょうせいげいじゅつしんこうざいだんから貸与たいよされているのですよ」

 世の中色々な仕事があるものだと感心しつつ、スポットライトに浮かび上がる五人の若者の姿に私は焦点を定めた。




 レセプションは約二時間でお開きとなり、事務所が入居する不夜城ふやじょうのようなオフィスビルのエレベーターに乗ると、本郷さんのスマホが鳴った。


「何でそんな大切な事を言わないの! 分かった何とかする」

 冷静な本郷さんらしからぬ声に、私は一体何だと思わず彼女の横顔を盗み見た。


「ああ、早く帰らなくっちゃ。水中眼鏡ってどこで売ってるかしら?」

「水中眼鏡?!」

「そうなの。明日が体験学習だって言うのに持ち物チェックもしないままで。旦那だんなに任せるとこれだもの嫌になっちゃう」


 声を聞かない限り男性にしか見えない本郷さんは服装も男性的なので、まさか既婚者で子供までいるとは思えなかった。

 私は内心の驚きを隠してあいづちを打った。




 着古したスプリングコートとセットアップに着替えて家賃三万八千円のアパートに戻った私を、歌舞伎揚かぶきあげ片手に拓人さんが出迎えた。

「ゆいさん、GW中は留守にするから」

 拓人さんの言葉に、カレンダーを見た私はあっと声を上げた。


「あっ、拓人さんの誕生日!」

 一週間以上も過ぎた彼の誕生日を忘れて駆けずり回っていた私はとんだ薄情者だ。

「どうせそんな事だろうと思った。ゆいさんももうすぐ誕生日だね」

 誕生日のお祝いを忘れられた事に構う風もなく、拓人さんはぱりぱりと歌舞伎揚げを食べながらのんびりとしたものだった。


「拓人さんが成人したら大野君の店に陽さんと三人で行こうって言ったの覚えてる?」

「覚えてる。でも、大野辞めちゃったから」

「バイト辞めたんだ」

「いや、学校自体を辞めちゃった」


「はい?! 元気なの?」

「今どうしているかも分からない。電話番号も変えたみたいだし、ラインもつながらない」

「生真面目な子みたいだから、ちゃんと立ち直ってくれると良いんだけど」

「問題の元凶はいけしゃあしゃあと復学してるって言うのに」

「つくしさん? つくしさんこそ辞めたんじゃないの。私、仕事先で出会ったの」

 私は拓人さんにならって歌舞伎揚かぶきあげに手を伸ばした。


「そう言えば開き直って学校名も出して、バンバンメディアに出始めてるんだよ。うちの学校の名前出してあの仕事すれば、そりゃメディアは食いつくよ」

「でも良くそんな状態で復学できたよね」

 私はまじまじと拓人さんの顔を見た。


「そりゃこの三月に、中学の件はつくしさん側の完全勝訴に終わったし。同じ論法で来られたら勝ち筋が無いと判断したんじゃない?」

「それなら、処分を取り消した後はやりたい放題を黙認せざるを得なくなるね。あのぐらいたくましくなれたら良いんだけど」

「止めてよ」

 拓人さんはほうじ茶をずずっと飲んだ。


「でもあれぐらい強かったら、気疲れなんて無縁だろうな」

「大丈夫だよ。そのままのゆいさんでいてよ」

 拓人さんはぎゅうっと私を抱きしめて、背中をとんとんと叩いた。


 私は幸せ者だ。

 だが、この幸せを受け取るにあたいする人間なのだろうか――。 


 私は黙って拓人さんの心音に耳を傾けた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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