第65話 女王

 化粧台の前で自らの顔をされるがままにするのにも慣れてきた私は、熊野筆くまのふでのブラシが肌を滑るのを感じながら自分の目を見つめていた。


 あと二時間弱で、招待客と奨学生しょうがくせいの名前と顔に、来歴らいれきと代表的な作品を頭に叩き込まねばならない。

 メークが始まる前にざっと目を通しただけで、八十人近い人数だ。

 音楽に美術関連の相手ならば少しは話が出来そうだが、学術的な研究についてはまるで頭に入らない。

 それでも、谷崎さんがチャンスをくれたのならばやるしかない――。


「ゆいさん。表情筋がこわばっちゃってるよー」

 メークさんの苦笑で私は我に返った。

「本郷さんに何言われたのか知らないけど、パーティー要員は笑ってりゃ何とかなるって。笑顔がアルファでありオメガなんだわ」

 眉にマスカラをさっとひと塗りすると、メークさんは私の肩をぽんっと叩いた。


「アタシもこの道四十年になるから色んな子を見てきたけどさ、男だろうが女だろうが最後に勝つのは笑顔よ。どんなに知識があろうとマナーが完璧だろうと、はたまた絶世の美男美女だろうと、まーるい笑みに勝るものは無い。これ、老若男女問わず不変の真理だと思ってる」

 よいしょっと声を掛けて、メークさんはケープを私の肩から外した。


「ゆいさんは本当に綺麗きれい聡明そうめいなんだから、自信を持って。人って話したがりよ。増して表現者ならなおの事、自分の話をにっこり聞いてくれる相手に心開くものよ。私は四十年、ゆいさんのような立場の子を見てきたの。保証するわ」

「はい。ありがとうございます」

 にっこりと笑った私に、メークさんは私をちょいちょいと手招きで呼び寄せた。


「ゆいさん、あなたは駆け出しモデルなんかじゃない。威厳いげん慈愛じあいに満ちた女王様なの。絶対にそれを忘れないでね」

 私は彼女の言葉を何回も脳裏に巡らせてメーク室を出た。





「ゆい、良く来たわね。本郷さん、突然無茶を言ってごめんなさいね」

 本郷さんを伴って指定の場所におもむいた私を、谷崎さんは相変わらずの巨体を揺らしながら出迎えた。

「お声がけ下さいましてありがとうございます」

 二人で頭を下げると、谷崎さんはあははと豪快に笑った。

「本郷さんもレセプションに顔を出してよ。旦那も喜ぶから」


 本郷さんと一緒に高級ホテルのスイートルームに連れられると、くだん御曹司おんぞうし様がドアを開けた。

「済みませんね急な誘いで」

 イケメン御曹司おんぞうしと週刊誌で大騒ぎされたの人は雑誌で見る以上に洗練された男性で、レセプションに華を添えるモデル各氏をかすませるほどに美しかった。


「どうぞこちらへ」

 勧められるがままにソファに腰掛けると、暁星財閥ぎょうせいざいばつの次期当主は、一冊のパンフレットとペラ一枚を私たちに渡した。


「あまりに急な話で申し訳ないのだけれど、このパンフとペラには目を通しておいてください。通訳も何人か用意しておりますが、通訳無しで会話が出来る人が多い方がお客様のストレスにもなりませんからね。もちろんお二方とも我々のお客様ですからご自由に楽しんでください。その上で余裕があれば、の話ですよ」


不埒ふらちな男はいないと思うけど、もし変な誘いがあったらきっぱり断るのよ」

 谷崎さんがぐびぐびとミネラルウォーターを飲みつつ口をはさんだ。


「それから、本郷さん。今日の催しには数多あまたの若手芸術家や研究者も参加致します。御社でのサポートに適した人物がいましたらぜひご検討を」

「それは、弊社へいしゃ資金提供パトロネージュをすると言う意味合いでしょうか」


「その線もお願い出来れば願ったり叶ったりではありますが。ひとまず本郷さんにはその審美眼を活かして、スカウトしたい人物がいればピックアップして欲しいのです。モデル活動をしながら本業の活動費を捻出ねんしゅつできれば本人にとっても心強いでしょう」

「その子がモデル活動をしたいかどうかはともかくとして、本郷さんの目にはどんな子が売れっ子と映るのかも見てみたいのよね」


※※※



 レセプション会場には、多くの若者たちがいた。

 彼らはどこか緊張した面持ちで、探るような笑顔を浮かべて国内外の来賓らいひんと言葉を交わしている。

 屋久杉やくすぎの如き本郷さんは、壁の花に徹して若者たちを見るつもりのようだが、余りの威圧感で異様な空気を醸しだしていた。


「初めまして」

 華やかな席が苦手な私が、仕事仕事と自分に言い聞かせながらシャンパングラスを手に取った時だった。

 ソフトな語り口で声を掛けてきた彼女は、オニキスのように輝く肌に映えるエメラルドグリーンのロングドレスを着こなした、はっとするほど美しい女性だった。


「私はロンダ・マクスウェル。日本美術のキュレーターなの。今日はパートナーに誘われてこちらに来たのよ、ねえダニー」

 ダニーと呼ばれた男性が、ロンダに振り向いた。


 ダニー・マクスウェル――ボストンを拠点に活動するチェリストで、自らの名を冠した弦楽カルテットの主宰者しゅさいしゃ暁星芸術振興財団ぎょうせいげいじゅつしんこうざいだんの理事――。

 私は付け焼刃で叩き込んだ来賓らいひんファイルを頭の中でめくった。


「初めまして、マクスウェルさん。若葉ゆいです。お会いできて光栄です」

「そんな堅苦しいあいさつは嫌いだよ」

 ダニーは人懐っこい笑みではははと笑った。

「僕の事はダニーと呼んでくれよ。君の事もゆいと呼んでいいかな」

「もちろん。ありがとうダニー」

 私たちはディルが添えられたカナッペを手に取った。



「それにしても、我々の商売もいよいよ先細りだ。若いお客さんも地元の奏者も減る一方だよ」

 もうすぐ還暦かんれきを向かえるダニーにとって、後継者も客もいなくなるのではとやるせなくて仕方が無いのだろう。

 ダニーの緑色の瞳がどこか寂し気に揺れていた。


「こんなおめでたい席で落ち込んでどうするのよダニー。ほら、あなたの希望がいるわ。ねえ、ジュン。一人でそんな所にいないでこっちにいらっしゃいな」

 ロンダの声に、壁際に隠れるようにたたずんでいた中肉中背の男性が顔を上げた。


「いつもこの子ったら人見知りでシャイなのよ。日本の子はシャイな子が多いけど、この子は中でもとびっきりのシャイボーイね」

 ジュンと呼ばれた男性の顔を、私は頭の中のファイルで検索した。


 飛島純とびしまじゅん――名古屋出身。8歳よりボストンに移住。パン・アメリカ音楽コンクールチェロ部門第一位。ニュー・イングランド大学芸術学部音楽科主席。第21期暁星芸術振興財団音楽奨学生ぎょうせいげいじゅつしんこうざいだんおんがくしょうがくせい――


「どうも、飛島です」

 うつむいたまま私に軽く礼をすると、飛島さんは所在なさげにウーロン茶のグラスを小刻みに揺らした。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。


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