第33話 プレクリスマスディナー
「遠慮するなって。僕こう見えてそこそこ稼ぎあるのよ」
アパートへの帰り道にあるビストロで、エビとブロッコリーのペンネだけを頼もうとした私に陽さんがうめいた。
「そういうつもりじゃなくて、もう午後八時回ってるから」
「食事の量と時間にも気を使わなきゃならないなんて、ヨガの先生稼業は僕には出来そうにもないね」
ぶつぶつ言いつつプチコースを頼んだ陽さんは、アミューズをつまんだ。
白を基調とした皿にこじんまりと盛り付けられた品々は、私の勤務先ではお目にかからないような高級感に溢れている。
とは言え価格帯と食材にスタッフの人数を見れば、おおよその原価が分かってしまうあたりが同業者の悲しい性だ。
すっかりキッチン稼業が板についてきたものだと思いながら、私はちらりと店内を見回した。
「度がずれてきたかな。老眼だ老眼」
陽さんは細いシルバーフレームの眼鏡を外すと、首を軽くひねってから掛け直した。
「さすがに早すぎますよ」
「そうだよな。ゆいっぺと僕は一つしか年が変わらないのにね。白髪も増えちゃってもう嫌になるよ」
ため息をつきながら伸びかけのクルーカットを左手でわしゃわしゃと掻くと、陽さんはクリスマスのイルミネーションに照らされた窓の外に目を向けた。
締めくくりのキイチゴのクレープを食べ終えた頃には、ほぼ客席は空席になっていた。
「ごちそうさまでした、おいしかった」
「どういたしまして」
陽さんは満足げに笑うと、冷気に耐えるクリスマスツリーを見ながら歩き出した。
「寒っ。さっきより明らかに冷えてるな」
「明日は
駐車場に向かって並んで歩いていると聞き覚えのある声がした。
「すももはここに来たことある?」
「いえ、初めてです。素敵なお店ですね」
ファー付きのクレープ色のポンチョにふわふわのニット帽を被った鶴間つくしさんは、まるで雪の妖精のようだった。
隣の男は私たちよりもかなり年上のようで、シガーとレザーにサンダルウッドの混じった香りが冷気に乗って届いてくる。
「そう。『初めて』なんだ」
男が『初めて』に強勢を置いて満足げに念押しした。
キイチゴ色のハンドバッグを手にしたつくしさんは、ゆっくりとした仕草で時代がかった香水の匂いを振りまく中年男を見上げた。
私はつくしさんに気取られないようにショールを口元まで引き上げ、うつむきがちに陽さんの後ろを歩いた。
「陽さん?」
ふと陽さんの足が止まった。
「すももちゃん?!」
聞き取れるかとれないかぐらいの陽さんのつぶやきを、私はしっかりと拾ってしまった。
典型的な郊外近辺の幹線道路の風景が見慣れたものに変わるまで、私はぼんやりと助手席から車窓を眺めた。
すももと言う名前で陽さんが彼女を認識しているから、あのいかがわしい撮影物は彼女の希望に反して顔も分かる状態で商品化して流通しているのだろう。
そうでなければ陽さんが彼女を『すもも』として認識する
昔から陽さんはつくしさんタイプの女性にめっぽう弱い。
つくしさんは、陽さんが入れあげるタイプを絵にかいたような存在だった。
前世紀的な香水を着けた中年男と連れだってビストロに入っていくつくしさん。
その背中を見送った後から、極端に口数の少なくなった陽さんをバックミラー越しにちらりと見た。
「忘年会やる?」
見慣れた通りに入った辺りで陽さんが聞いてきた。
「いつですか」
「まだ決めてないけど出来るだけゆいっぺに合せるよ。伊藤さんだけじゃなくて他の人脈も必要でしょ」
大学時代の交友関係もすべて断ち切る勢いでインドに飛んだまま音信不通状態になっていたので、今更どの面下げて知り合いに合うのだろうと罪悪感が
そんな私の空気を察したのか、陽さんは三日後までに連絡してよと言うと私のアパート前に車を停めた。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
(2023/7/2 改稿)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます