第32話 ドッグタグ

 陽さんのマンションの玄関からは埃を被ったベビーカーが消えていた。

 私にわだかまっていた思いをぶちまけた事で、幾分心の整理がついたらしい。

「あれから模様替えしたんですか」

 リビングのカップボードは跡形もなく消え去り、オフィスで良く見るパーテーションでリビングが区切られていた。


「まあね。簡単だけどスタジオを作ってみたんだよ。今までは外撮りばかりだったけど、登録者数も増えてきてもう少し手数を掛けてみたくなってね」

 パーテーション内は防音コルクが敷き詰められており、広さは私の家のリビングより一回り大きいぐらいだった。


「ここでゆいっぺの映像も撮ったらどう。自室で撮るのもどんなきっかけで家を特定されるかも分からないし」

「ああ、そういうリスクはありますよね。そう言えば更新頻度ってやっぱり毎日が良いのかな」

 さすがに毎日更新は苦しいが、固定客がつくまでは毎日更新がおすすめとは聞いたことがある。


「そうね。撮りだめしておいて配信だけ日をずらせば済むから、思っているほど負担じゃないよ。あとはしゃべりかな。これは一番初めに慣れておいたほうがいい」

 陽さんはそうだ、と言いながらいかにもハイスペックなパソコンの電源を入れた。


「これさ、ざっくりしたトークスクリプトの時間配分とチャプター分けのタイミング。ゆいっぺはヨガ動画だから、登録者数の多い配信者さんを徹底的に研究して、

僕のは使える所だけ使って」

 陽さんはプリンターから吐き出された紙にペンで書き込みを入れると、私に差し出した。


「後、必ず英語の副題も入れて、本編にも英語を交えて。日本語だけの配信よりお客さんの数がぐっと増える。そうすれば登録者数の増加も早いし収益化も楽に達成できるから」

 矢継ぎ早に飛んでくる提案の形をとった指示の嵐に、私はペンを走らせるのが精一杯だった。


「じゃ、さっそく試しに一本撮ろう。着替えて」

 脱衣所に案内された私が脱いだパーカーから五百円玉が転がり落ちる鈍い音がして、洗濯機の防水パンへと吸い込まれていった。


「あれ、もうちょっと。痛い痛いっ」

 こんな格好を陽さんには絶対に見られたくないと思いながら、私は防水パンと洗濯機の底面の間に鎮座している五百円硬貨を救出するべく身を低くした。

「ちょっと待って!」

 陽さんの足音に私は慌てて体勢を整えると、私は脱衣所のドアを開けた。


「五百円玉が変な所に転がって行っちゃった」

「取れそうなの」

 私が洗濯機の下を指すと、陽さんはよいしょと一声掛けて洗濯機を浮かせた。

「あっ、いけそう」

 私の指が金属を触った。

 尺取り虫のように引き寄せると、五百円玉の他にドッグタグが出てきた。


「これ陽さんの?」

〈0721SOEL1012TT〉と刻印されたそれをしげしげと見て、陽さんは首をひねった。

「僕はこういう趣味じゃないし、元嫁とその現旦那の誕生日でもイニシャルでもないし何だろうな。それとも彼氏の?」

 聞き流しかけて私はある事に引っ掛かりを覚えた。

「あの子、ここに来てるの」

「この前一緒に小机城址こづくえじょうしに行った帰りにね」

 思った以上に二人は急接近しているらしかった。


「彼氏のじゃないなら、ロケのバイトさんの持ち物が紛れ込んじゃったのかな」

 困ったようにドッグタグをもてあそびながら簡易スタジオに戻る陽さんの後ろで、私はぶつぶつと数字とアルファベットをつぶやいた。



「腹減ったー」

 初回のテスト収録とそのチェックに編集を終えると、陽さんは子供のように大きく伸びをした。

「全然簡単じゃないじゃないですか」

 ぐったりと机に突っ伏す私とは対照的だ。


「それでも前に比べたら、動画編集も楽になったんだよ」

「この手の事って苦手なんです」

 私は疲れ顔もあらわに、陽さんを恨めしげに見た。


「じゃあ編集は彼氏にやってもらえばいいじゃない」

「駄目ですよバイト代出せないし」

「食事でも作ってやれば良いじゃないの。そうだ晩飯食べに出よう。帰りにそのまま家に送るよ。帰り道で良さそうな所に適当に入ろう」

 陽さんは再度大きな伸びをして、パソコン脇にぶら下げた拾い物のドッグタグを指ではじいた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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