第31話 タイムリミット
仮眠から目覚めた時には午前八時だった。
洗濯機を回しながら雨戸を開けると、拓人さんの自転車は置いたままだった。
まだ伊藤先輩の案が通るかどうかは分からないし、あやのさんとの仕事もはっきりと何かが決まったわけではない。
だが、両親を失った後長い間停滞していた私の時間が
この流れの先に、拓人さんと並んでコロッケを作ったり、二人きりのレストランでビールサーバーの手入れなどをして過ごす時間があるのかも分からない。
私は自分が何をしたいのか、どう生きていきたいのかも分からない。
それでも、拓人さんとコロッケを二人で食べたあの時間を失う事は怖かった。
『陽さんって素敵な人ですよね。俺は子供だからあの人には叶いっこない』
二人で入った私の部屋のこたつで拓人さんが顔を覆った私に掛けた言葉が重い。
あの子も私の事を少なからず意識してくれているのだろうか。
そう思うとどくんと胸の中心が跳ね上がるが、あの子はまだ十九歳なのだ。
本気で愛していい相手ではない。
これからやってくる新しい人たちとの出会いの中で、私の心からあの子の姿は風化していくのだろうか。
互いの未来のために、あの子への思いは風化させなければならないのだろう。
長くても私たちが一緒にいられるのは後一年三か月なのだから――。
私はもやもやを吹き飛ばすように頭からシャワーを浴びた。
「いいねいいねゆいさん最高。目線こっち向けて」
まるですももちゃんこと鶴間つくしさんのようだと思いながら、私は言われるがままにカメラマンの要求に応じた。
「そう、それで上半身だけ振り返って。OK」
カメラマンはふうっと息を吐くと、カメラチェックを伊藤先輩に頼んでいた。
「いいね。さすが俺が見込んだゆいにゃんだけあるわ。最高!」
「はいじゃあもうちょっと頑張ろうね。後はバストトップショットを撮るだけで終わるよ」
フラッシュと照明に汗が抑えきれなくなった辺りで、撮影は終わった。
「お疲れさまでした!」
バストアップの写真を確認した伊藤先輩から声が飛ぶと、私はぐったりとパイプ椅子に崩れ落ちた。
「さすがだねゆいにゃん。予定なら十五年前にこうなるはずだったんだけど。また連絡するからさ。俺はこの後プレゼンの資料作りするからお疲れっ」
伊藤先輩が嵐のようにスタジオを去ると、私と陽さんとスタッフたちが取り残された。
「お疲れさまでした。有難うございました」
陽さんと共にスタッフに挨拶をすると、私たちはスタジオを後にした。
「本格的だったね。良いプロフィール写真が出来て助かったね」
「そうですけど」
「どうしたのよ浮かない顔でさ」
「機材どうしようと思って。何にも分からないから」
「じゃ、僕の家に来なよ。色々参考になると思うから」
「お礼にご飯作りましょうか?」
「コロッケ作ってよ。上手いんだって?」
私の問いに、陽さんがにやりと笑った。
「だって実家からじゃがいもが大量に送られてきて食べきれないって、あの子が言うから」
「らしいね。僕にまでじゃがいもをくれたからさ。そうだ、彼氏も呼ぶ?」
「今日はバイトの日だから無理ですよ」
「ゆいっぺと二人きりで僕の家にいたって知ったら、妬かれちゃうかもなあ」
にやにやと笑う陽さんに、私はあきれたようにため息をついて見せた。
「彼氏じゃないんですけど。それにあの子はまだ十九歳です。おかしな事を言って焚きつけないでくださいよ」
私は語気を強めた。
「本当にその気がないなら、もう少し付き合い方を考えな。ゆいっぺって時々無自覚に残酷だよ」
ため息交じりの陽さんに何も言えず、私は十二月の夕暮れを車窓越しに見ていた。
「あの子は三年次から都心のキャンパスに移るんです。だから」
「それまで後腐れなく遊ぼうって性格じゃないもんね」
ずらりと続くテールランプが流体のように動き出してから、私たちは会話を再開した。
「陽さん、あの子から何を聞いたんですか」
「僕がゆいっぺの昔の男なのか、僕がゆいっぺの事が好きなのかとは聞かれたよ。それでさ、僕たちはただの腐れ縁だって言ったんだ」
「そうしたら」
「若葉さんの部屋で手作りのコロッケを食べてる時に、幸せだって思っちゃったんですよね、だってさ」
私の問いに、陽さんが笑って答えた。
「そうですか」
生返事を一言すると、私はそれきり黙って前を向いた。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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