第30話 計画された偶発性(下)

「よう」

 伊藤先輩は絶滅危惧種の丘サーファーのようないでたちで片手を上げてあいさつをした。

「ゆいにゃん遂にモデルデビュー決意しちゃった訳?」

 私は三十代中盤になろうかと言う己に全く似つかわしくない呼称にぎょっとした。

「ゆいっぺは今ヨガインストラクターをやってて、独立する予定なんですよ」

「いやいやまだ流動的な話ですから」

 私はあわててかぶりを振った。

 この二人が揃うと、どんな方向に話が進むか分かったものではない。


「ピンクソーダ一つ。マスター、あったらクラフトワーク適当に掛けて」

 伊藤先輩のリクエストに応じて、鼓動のリズムで電子音が流れ始めた。 

 落ち着かない事この上ないが、伊藤先輩はご満悦の様子だ。

「ヨガか。ティックトッカーになれば良いんじゃない。あれなら短いし編集も楽だし、英語動画で出せば海外からのアクセスも増えるしさ」

「ティックトッカーってティックトックの事ですか。あの若い女の子がよく踊ってる」

「そうそうそれそれ、良く知ってるね」

「いやいや、私いくつだと思ってるんですか」

「年なんか言わなきゃいいんだよ」

 私は伊藤先輩に話がきちんと伝わっていないと思い、改めてあやのさんからの話を伝えた。


「それはそれで大木が言ったやり方でやれば固いとは思うけど。金の入口は広げておいて損はないし、自撮りに慣れるにはティックトッカーになるのが早いって」

 運ばれてきたピンクソーダのストローをもてあそびながら、伊藤先輩が身を乗り出した。

「これってすごいチャンスよゆいにゃん」

「だから私も独立するチャンスだと」

「いやそっちじゃなくて。『た・ま・の・こ・し』」

 伊藤先輩が『お・も・て・な・し』のリズムで『たまのこし』の五文字を紡いだ。


「ちょっと待ってくださいよそんなつもりは」

「いいから人の話は最後まで聞きなさいって。今超急ぎの案件で、某スポーツチームの新シーズンのPVの仕事が来てるわけ。撮影隊の監督がワッパかけられてお蔵になってこっちに振られてさ」

 伊藤先輩は生えかけのひげをさすりながらにやあっと笑った。

「ゆいにゃんPVに出よう。それだ。それが良い!」


 ああ俺ってやっぱり天才などとぶつくさ言い出すと、伊藤先輩はピザの下に敷かれた紙に、カット割りを書き始めた。

「ちょっと待って」

 慌てる私の声も聞こえないようで、鬼神の如く伊藤先輩は一心にカット割りを書いていく。

 止めようとする私を陽さんが制した。

「これが運命が動く瞬間だよ、ゆいっぺ」

 私は茫然と伊藤先輩のほとばしるペン先を見やった。


「助かった。企画書の締め切りが月曜日の午後二時だったんだよね。ゆいにゃんの宣材写真だけ撮ったら、今日はお開きにしようじゃないか」

「宣材写真?!」

 グリースまみれになった私は、とてもではないが写真に撮られるような状態ではない。

「さすがに写真は昼間じゃダメですか。僕もゆいっぺも寝てないし」

 時計は午前四時前を指していた。


「それもそうね。とりあえずヨガインストラクターとしての写真と今回の宣材としての写真の両方が欲しいから、ヨガウェアの良いのがあったら持ってきてよ。宣材はチームユニを着てもらうからさ」

「伊藤さんの家に行くんですか」

「スタジオ併設してるからそこで。大木も来るだろ、土曜だし」

「運転手やります」

 困惑する私をよそに、二人の間でどんどん話が進んでいった。


「俺が払うよ。十五年の時を経て遂にゆいにゃんをスカウト成功」

 伊藤先輩の勢いに押されっぱなしの私は、レジに立つ彼の背中を見たまま席から立ち上がれずにいた。

「じゃあこれから寝るとして十一時に俺のスタジオな」

 職質されても不思議ではないほどのハイテンションになった伊藤先輩と駐車場で別れると、私たちは一路家路を目指した。


「とんでもない事になっちゃった」

 助手席でうなだれる私を見て陽さんが笑った。

「このまま勢いに乗っちゃいなよ。物事が一気に動く時ってこんな感じよ」

「その他大勢で後ろでチアとかやってる感じだったらまだしも」

 私は伊藤先輩が一心不乱に書いていたカット割りを思い起こして、深いため息をついた。

「伊藤さんの案が通れば、ゆいっぺは完全に新シーズンのあのチームの顔になるね。楽しみだな、ゆいっぺのドアップポスターが駅に貼られまくるの」

 私はげっそりとしてうつむいた。


「本当にどうしても嫌なら今ならまだ止められる。でもそれが本当にゆいっぺの望みなの。怖いからとか、目立つのが嫌だからとかじゃなくて、ゆいっぺはどうしたいの。これからゆいっぺはどう生きていきたいの」

「分からないんです。でもこの流れを断ち切ったら今までと変わらないとは思う。それも怖いんです」

「じゃ、九時五十分に家に迎えに行くよ。それからはもう嫌だとか言いっこなしね」

「はい」

 私はうつむいたまま返事をした。

 冬至を前にした空は四時半だというのに真っ暗闇だった。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。


※「伊藤先輩」からタイトル変更。

変更後タイトルの「計画された偶発性」とは、スタンフォード大学のクランボルツ教授らが提唱する『計画的偶発性理論(Planned Happenstance Theory)』―個人のキャリアの八割は予想しない偶発的なことによって形成される―から採っています。

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