第29話 計画された偶発性(上)
あやのさんから話を聞いた時点では、チャンスだと思った。
しかし改めて話してみると、余りにあやふやな要素が多すぎる。
すぐに独立できる訳でもなし、次の仕事につながるかも分からない時点で何を舞い上がっていたのかと、話しながら段々しょげてきた。
「で、ゆいっぺはそれをやりたいの」
「分からなくなっちゃっいました」
「ゆいっぺ電話口だと凄い乗り気だったじゃない。何が気に掛かるのよ」
「やっぱりお金とか、生活とか。独立ってそんなに甘いものじゃないとか。話しているうちに色々出てきちゃって」
「で、やりたいの。お金とか生活とか見通しがつくとしたら、ゆいっぺはヨガインストラクターとして独立したいの。それがゆいっぺのやりたいことなの」
私は何も言えなくなってうつむいた。
そもそも、自分がやりたい事が何なのか、自分が何者なのかが分からないまま恐怖と不安に急き立てられるように逃げに逃げる日々だった。
その結果東京と横浜の境界線上に流れ着いて今に至るのだから、心底やりたいことは何かと言われると答えは出ない。
「何かチャンスがあった時には、その瞬間に真っ先に感じた気持ちを頼るといい。真っ先に感じた気持ちを貫こうとすれば『でも』とか『だって』とかが一杯出てくる。それはただのノイズだ」
私はじっと陽さんの目を見つめた。
「人は変わりたくない生き物だから、こうなるんだって決意しても次の瞬間にはもっともらしい理屈と共に不安や恐怖が湧き上がる。それは人間の自動反応だから避けようがない。けれどもそれに負けたら人は変わらない。変わらない方が楽だからね」
思い当たる節がいくつもあった。
私は祖母の機嫌を損ねて面倒を起こすのが嫌で、祖母の顔色ばかり
小学四年生で連れ去り同然に小平の家に住むようになってから、私にとってシェルターになるはずの家こそが戦場で
その中で自分の希望を貫けるほど私は強くなかったし、顔色をうかがってルーティンに従った方が楽だった。
「恐怖と不安なんてノイズに振り回されてばかりじゃ人生が台無しだ」
陽さんの言葉で、祖母の声を自動再生させて恐怖と不安を感じ続けているのは外ならぬ私自身だと気づいた。
私は、私自身が作り出したノイズに振り回されているだけだった。
仕事も何もかも投げ出してインドに行ったのも、消えてしまいたいと思った事もきっかけは祖母の
結局のところ、私を苦しめたのは私だった。
「私、ヨガインストラクターが天職かどうかなんて分からないです。けれどこの話はチャンスだと思ったのは事実で」
私の言葉は決意とは程遠かった。
「だったら乗ってみれば。まずは単発で正月あたりにやるんでしょう」
その言葉と共に陽さんがアイスコーヒーを飲み干すと、店主がスパニッシュオムレツを運んできた。
写真よりもずいぶんと大きなそれは二人掛けのテーブルを圧倒した。
「独立する気があるなら、ユーチューブとインスタとツイッターは必須ね。やり方分からなけりゃ教えるし、ゆいっぺなら収益化も早いんじゃないかな。ほかにもプラットフォームはあるけどまずはこの三つ」
目立ってはいけないと口を酸っぱくして言われ続けてきたからか、顔を出してヨガ動画を投稿する事に強い抵抗があった。
だが独立して仕事を取るなら、確かに動画は必要だろう。
人物像も教え方も分からない相手に金を払う人などいない。
「始めなきゃ」
私は浮かぬ顔のままスパニッシュオムレツをつついた。
「独立に向けて動くのね。そう来なくっちゃ。とりあえず伊藤さんに連絡入れるわ」
陽さんはスマホをすいすいとフリックし始めた。
「伊藤さんって伊藤先輩?!」
「だって腕利きの映像作家じゃない。声かけなきゃ」
「いやいや、伊藤さんってアーティストのPVとか撮ってるんですよね。私みたいな人間ごときが」
「ダメダメ、そんな甘い考えじゃ。一旦それで独立するって決めたら最初が肝心なんだって。最初にお客さんをつかまなけりゃ」
陽さんのスマホが震えた。
「伊藤さんお久しぶりです」
私の制止も聞かず、陽さんは席を立って入り口で小声で話した。
「十五分ちょっとぐらいで来るって。あの人町田に住んでるから」
「えええっ」
私は思わず壁掛け時計を見た。
明日が休みなのを陽さんは知っているから、仕事を理由に逃げ出すこともできない。
「町田って意外」
伊藤先輩の事だから、六本木や麻布あたりの高級マンションにでも住んでいるのかと思ったが。
「あの人世渡り上手っていうか何て言うか、大学中退したはずなのに今じゃこの辺の大学の
伊藤先輩が大学の特任教授だなんて何かの冗談かと思った。
「ほら、これ大学のホームページ」
大学の活動報告ページに、ばさっばさの長髪をなびかせながら海辺でメガホンを取っている写真が大きく乗せられていた。
「変わらないですね。いや、余計
「でしょ。この時間に歩いてるとしょっちゅう職質されるらしい」
「じゃ今呼び出したら不味いじゃないですか」
「大丈夫大丈夫。腐っても大学の特任教授様なんだから、名刺一発で何とでも」
陽さんは追加オーダーのホットココアをスプーンでかきまぜた。
「ねえ、人は何にだってなれるんだよ。伊藤さんに至っては
「そんなの伊藤先輩に才能があったから」
「僕も、仕切り直しができるんだよね」
私の言葉にかぶせるように陽さんがつぶやいた言葉で、私は否定の二の句が継げなくなった。
「そもそも何になりたかったんだろう。私」
私はうつむいてスパニッシュオムレツをつついた。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
※2024/4/27「チャンス」より改題
タイトルの「計画された偶発性」とは、スタンフォード大学のクランボルツ教授らが提唱する『計画的偶発性理論(Planned Happenstance Theory)』―個人のキャリアの八割は予想しない偶発的なことによって形成される―から採っています。
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