第21話 毒蛇

 私は音を立てぬように自室の玄関ドアを開け、暗がりの中で座り込んだ。

『もうちょっと自分の心の中をちゃんと見なよ。バツイチの俺が言えた義理でもないけどさ』

 陽さんの言葉は残酷ざんこくだ。

 心から目を背けていないと生きていけなかった。

 それが癖になったまま、この年まで至ってしまった。


『光の道を生きなさい』

 それが祖母の口癖だった。

 母をゴミ袋に入れ、とりもちの付いた髪をむしりながら、祖母は同じことを母に説いていたのだろうか。

 祖母曰く『罪の子』であるらしい私を産み落とした母は、その命の最果てで光の道に戻れたのだろうか――。




『光の道を生きなさい』

 名古屋からさらわれるように小平へ移った小学四年生の私を真っすぐに見据えて、祖母はいつも陶酔気味とうすいぎみに説いた。

『人は罪の子として生まれ、節制と忍耐を学んで光の道を行く修行をするのが仕事なの。それなのに、光の道の導きを拒んだからあなたの母親――美佐子――はあんな事になったの』

 脳内にまた祖母の声がフラッシュバックして、私は吐き気をもよおした。


『美佐子は光の道の導き手になる覚悟もなく、欲望のままに生きた。そして欲望に負けて罪の子を産み、野放図なままに放っておいた。最初から最後まで欲望のままに人様に迷惑ばかり掛けて、人様から尊敬される生き方をする事も無く、闇と手を切れぬまま、光の道を拒んで罪の子のまま生きて死んだ』

 祖母の声が、私を激しくさいなんだ。


『美佐子は欲望に負けて罪の子であるあなたを身ごもった。そんな生まれだからこそ、美佐子の分まで罪を背負った子供だからこそ、光の道を生きなさい。あなたの子供にまで罪を負わせずに済むように、一点の恥も曇りも無く、誰からも尊敬される生き方をなさい。光の道を象の歩みの如く生きるのですよ。それが、あなたの罪を少しでも軽くする唯一の道ですから』


 柔らかく吸収力の高い思春期直前の頭と心は、『光の道を生きなさい』との決め言葉の元に掛けられた数々の呪いを、スポンジのように吸い込んだ。

 そしてその呪いは、同意する価値が無いと頭では理解した今となっても、私を毒蛇のように縛りむしばみ続けている。


 祖母は父と名古屋の親族を『罪を誇り、光を拒む』者だと事あるごとに誹謗した。

 私を名古屋に置いたままにしておくと母の二の舞になってしまうと危機感を抱いた祖母は、母の骨壺を強奪し、父方と揉めにもめた挙句私を名古屋から切り離した。

 それ以来私と付き合いのある親族は祖母と母の兄夫婦のみである。




 小平に来てから私の生活は一転した。

 放課後には祖母がつきっきりで宿題に予習復習をチェックし、休日はお茶にお花の稽古に美術館巡りなどに引っ張り出され、友人も祖母のお眼鏡に叶った人物以外は容赦なく罵声を浴びせられて引き離された。

 そんな祖母と私を見て、お眼鏡に何とか叶った友人たちも私に距離を置くようになった。

 思春期に足を踏み入れ始めた私は、恋人はおろか友人すら無縁の存在となった。


『悪い虫はつけないに限ります』

 孤立する私に、祖母は満足げだった。

『堕落を堕落とも思わぬ家と付き合えば、あなたも汚れるの。あなたは気高く屹立きつりつして、罪人つみびとを天から照らす存在でありなさい。光の道を生きる事だけが、罪の子が出来る贖いなの。良いですか。光の道を生きて尊敬される人になりなさい」


 祖母は私を『光の道を生きて尊敬される』女性に育てようと心血を注いだ。

 それは祖母の思い通りの振る舞いをし、思い通りの進路を選択する事に他ならなかった。


『あなたは私が見立てた服を着ていなさい。そうでないと下品でみっともない体つきが目立つから』

 特に体つきについて口うるさく言い始めたのは、中学二年生の夏あたりからだろうか。

『うちの家系にはこんな体形の女など一人もいなかったのに。名古屋の血のせいね。猥雑で下品なあの家らしいわ』

 祖母は日増しに大きくなる胸に肉のついてきた腰回りを、忌まわしいもののように眉を潜めながら見てはため息をついていた。


『髪を垂らすなんて不潔、厭らしい。卑しい。あなたの母親が光の道を拒んであんな男を選んだばっかりに』


 髪が伸びれば父の血を引いた私をののしり眉をひそめ、罵詈雑言ばりぞうごんを聞くのが嫌で髪を切れば、髪の長いあなたは若い頃の私に似て素敵だったのにどうして勝手に髪を切るのと怒り出す。


 そして切った髪がまた伸びれば、嫌がる私に構うことなく、唾を手に吹きかけてぴっちりと髪が顔に張り付くようにきつく結い直してしまうのだ。




 思うに、祖母は自分以外の全ての存在に価値を見出せなかったのではあるまいか。

 あるいは、自分の価値すら本当は認められないから、常に何かを見下しておかないと不安で、弱い存在である私に自分のやり方を強いたのか。


 いずれにせよ、名古屋にいた頃は快活だった私の心は、日に日に衰弱すいじゃくしていった。


『どうして私を置いて死んだの。私は要らない子だったから?』

『生まれてきたくなかった。要らない子なら、どうして産んだの?』

 唾をつけられた髪を洗面所の水で清めながら、私は泣いていた。


 子供として引き取ったはずの存在が女になり自身の意思を持つ事が、祖母にとっては耐えられないほど汚らわしく感じるようだった。


 大人に成長していく事が汚らわしく恥ずかしいものだと言葉で態度で示され続けても、自分の生まれ方と父の血筋をそしられ続けても、私には言い返す言葉も無かった。


 相手が親ならば反抗も出来ただろうが、両親が亡くなるまで全く接点の無かった他人同然の祖母に対して、何を言えば良いのかも分からなかった。


 私はいつしか泣く事を止めた。

 私は一人ぼっちだった。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

(2023/7/2 改題および改稿)

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