第20話 午前二時のカフェバルで

「階段気を付けてね」

 路地裏の古い雑居ビルに設えられた急で狭い階段の突き当りに、その店はあった。

 いかにも場末の古い個人店のような趣きだった。


「いらっしゃい」

 店主はすらっとした長身にジョン・レノンのような丸眼鏡で、白髪交じりの長髪をバンダナで束ねている。

 大学時代に聞かされた覚えのあるジャジーなメロディーが流れていたが、思い出すのは伊藤先輩の鼻歌とコーヒーの香りだけだった。


「この曲何でしたっけ」

「伊藤さんがコーヒー豆をゴリゴリきながら鼻歌で歌う曲だよね。ビル・エヴァンスだったと思うんだけど」

 二人で笑っていると、店主がアイスコーヒーを運んできたので曲の名前をたずねてみた。


「『ワルツ・フォー・デビー』。おっしゃる通りビル・エヴァンストリオの演奏ですよ。ビル・エヴァンスはもちろん、ベースのスコット・ラファロが素晴らしくて」

 このまま店主の独演会が始まりそうな雰囲気だったが、他のテーブルから呼ばれた店主は名残惜しそうに私たちのテーブルを去った。


「で、話って何よ」

 声を潜めて陽さんが聞いてくる。

「知り合いの知り合いの事なんですが、その子にそっくりな女の子が変な感じの撮影現場に居るの見ちゃって。でも本人かどうか確証が得られないし、もし本人だったとしても何か直接言える程の間柄じゃないし」


「明らかにアダルト系な感じのやつとか」

「そんな気がして。だけど一応女性のスタッフもいて、何人かで公園で撮影してて。監督さんっぽい人が胡散臭すぎて。でもカットが掛かってけろっとはしてた感じ」

 私は一気に胸のつかえを吐き出すと、お冷をごくりと飲んだ。


「じゃあ大丈夫でしょ。あの手のギョーカイは結構胡散うさん臭く見える人多いじゃない。伊藤さんだって、明らかに何かの売人にしか見えないし」


 大学中退後にPVなどを手掛ける映像作家になった伊藤先輩は、鼻ピアスに薄い色のサングラスのいで立ちで、潮焼けした茶髪をなびかせながらエレクトロニカイベントを主催していた。

 そんな彼が何故私たちのいた歴史サークルにも入り浸ってはコーヒー豆をいていたのかはサークル七不思議の一つだった。

 何はともあれ、私が入学した際には既に二留三年だった伊藤先輩は、悪目立ちする存在ではあった。


「直接その子に監督さんの事とか聞けたら、伊藤さんに確認取ってもらう事も出来なくはないけど。あの人あれで仕事熱心だし顔も広いし」

「その子と直接連絡取れる訳じゃないから。その子と目が合ったんだけどスルーされたから、本当にその子か今一自信がないんですよね。それにその悲鳴のセリフがいかにもすぎて、ちょっと気まず過ぎるから」

「その子の知り合いには探り入れてみたの」

 私は一瞬拓人さんの名前を出しかけてぐっと飲みこんだ。


「エキストラと読者モデルのバイトを始めたらしいとは言っていました」

「別人じゃないの」

「だったら良いんですけど気になっちゃって」

 私の返答に、陽さんはくしゃりと笑った。


「ゆいっぺは昔からそう言う所あるよね。世話焼きと言うか心配性と言うか。でさ、その子可愛いの」

「その子は大学一年生ですよ。犯罪ですよ犯罪」

「何だよ、ゆいっぺの彼氏だって大学一年だろうに」

「だから彼氏なんていませんって」

 げらげらと笑っていた陽さんがふと真顔になった。



「拓人君さ、ゆいっぺの事好きなんじゃないのかな。冗談抜きで」

「変な事言わないでくださいよ。仕事しにくくなるじゃないですか」

 私は脈拍が急に早まったのを押し隠すように、軽い口調で応じた。

「本当にその気がないなら、ちゃんと線引いてやったほうが良いよ」

 陽さんはスマホをちらりと見やった。

「彼氏が心配してるみたいだからそろそろ帰るか」

 私のスマホにも拓人さんからのメッセージが入っていた。



「ゆいっぺが帰り一人で心配だから、良かったら店に顔を出してもらえませんかなんて言われて、ゆいっぺ愛されてるわって思ったんだけど。まさか隣に住んでるとは」

「偶然ですよ偶然」

「ふーん、偶然ねえ」

 にやつきながらハンドルを握る陽さんのすねを蹴り飛ばしたくなるのを抑えながら、私は車窓をながめた。


「ねえゆいっぺ。もし拓人君がアラサーだったとしたら、拓人君と付き合いたいの」

「仮定の話に答えるほど不毛な事もないでしょう」

「ふーん。付き合いたいんだ」

「いや私の答え聞いてましたか」

「うん、聞いてた。本心を言いたくない時にその逃げ使うよね」


 手の内を知られている相手に嘘をつくのは難しい。

 とは言えあの子に恋をしているかと問われれば、否と言わざるを得ないのも事実で。


「付き合いたいとか恋人になりたいとか独り占めしたいとか言う感じじゃないけど」

 私は胸の中に住み着くこの感情をどう言語化すべきか分からないまま、二月近くを過ごしてしまっていた。

「あの子のことは嫌いじゃない」

「出たよゆいっぺ最大の愛情表現。懐かしいなあ」

 私の一言に、陽さんはぶはっと声をたてて笑った。


 昔から陽さんは嫌いじゃないなら好きなんじゃないのなどと軽率に言う。

 そのたびに、嫌いと好きの感情スケールの間にもっと多彩で幅のある感情が含まれているのだと反論していた。

 ただ、それだって陽さんに言わせれば。


「もうちょっと自分の心の中をちゃんと見なよ。バツイチの俺が言えた義理でもないけどさ」

 車窓が見慣れた景色に代われば、アパートまでもうすぐだ。


「彼氏によろしく」

「だから違いますって」

 苦笑しながら車を降りると、陽さんはウィンカーをちかちかさせて大通りへと走り去った。

 

※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。



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