第16話 腐れ縁
陽さんの車でアパートに着いた時には午前四時を回っていた。
拓人さんの部屋の雨戸からは、うっすらと明かりが漏れ出ている。
雨あがりの水たまりを踏まぬように気を付けながら、私は玄関のドアを音を立てぬように開けた。
セミダブルベッドに横たわりながら、陽さんと結婚した自分を想像してみた。
あまりの違和感に、思わず笑いがこみ上げる。
彼とは兄妹みたいな距離感に落ち着いてしまって、性的な興奮や恋愛感情を呼び覚ます相手としてはどうしても
陽さんは一貫して誰にだって優しかったし、あんな仕打ちを受けていい人ではない。
とは言え、私に出来る事など何もありはしなかった。
陽さんは息子が写っているから写真を消せないと言っていたけれど、
いくらマッチングサイトだからと言って、全くの利害だけで結婚まで至る事はないし、子供が出来ればそれなりの情は
考えても仕方のない事をつらつらと考えているうちに、晩秋の夜が明けてきた。
結局一睡もできぬままぼうっと朝風呂に入っているうちに、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
風呂を出て雨戸を開けると、雨上がりの空はどこを切っても
頬を撫でる風も、雨が降る前より鋭さを増している。
私はぶるっと身震いすると、サッシ戸とレースカーテンをしっかりと閉めた。
キッチンのデジタル時計は七時五十二分を指していた。
十七年前の私と陽さんは、いつも七時五十二分本川越着の黄色い電車に乗っていた。
※※※
「おっ乳の人発見」
「相変わらず無駄にデケーな」
こそこそと話している男子中学生の声をシャットアウトするように、私はジャージの貸主を目で探していた。
どの駅から乗車しているかは知らないが、時々同じ車両で見かける顔だったからきっとこの電車に乗ってくるだろうとあいまいな期待をしていた。
私服にスポーツバッグの出で立ちだったから大学生だろうかと思いながら、減速しつつある電車の乗降口に目をやる。
「あれだよ乳の人」
「乳もいいけど顔もめっちゃタイプ。ちょっと気が強そうなのが最高じゃねえ?」
彼はまだ乗車していないようだった。
中高生のひそひそ声に呼応するかのように、スポーツ新聞やハードカバー本の間から盗み見るような男性たちの目が光る。
身の置き場もなくうつむいているうちに、電車は所沢駅に滑り込んだ。
慌てて乗降口に目をやる。
硬めの髪質でスポーツ刈りにシルバーフレームの眼鏡――。彼だ。
彼は私の目線に気づいたようで、互いに軽く会釈をした。
ドア近くにもたれて立っている彼と私の間の五メートルをもどかしく思ううちに電車は新所沢駅に到着し、下車の人波に押されながらドアに近づいた。
彼はまだ降りないらしい。
私の胸を名残惜しそうに見つめながら改札へと向かっていく男子中高生を横目に、私は彼の隣に立った。
電車が動き出すと同時に、彼の横に立った私はそっと声を掛けた。
「先日はありがとうございました」
私は目立たぬように紙袋を渡した。
「いえいえ、お気になさらず」
彼は私の手から紙袋を受け取ると、再びドア近くの手すりにもたれた。
それきり私たちの会話は途切れ、ドアの両端に狛犬のように陣取っているうちに電車は新狭山に着いた。
「やべえよ俺この間の模試で第一志望D判定だったんだけど。俺の代わりに受験してまじで」
「何言ってるんですか立川さん」
「ようちゃんなら受かるって。来年受けるんだろここ」
「そのつもりですけど」
私服姿に紺のメッセンジャーバッグの高校生風の若者が、乗車するなり私が第一志望にしている大学の赤本片手に彼に声をかけた。
私と同じ大学を受けるんだ。来年と言う事は今もしかして高校二年生?
聞くともなく彼らの立ち話を聞いているうちに、電車は午前七時五十二分に本川越に着いた。
彼の通う学校も判明し、第一志望に受かれば大学で彼と一緒になるかもしれないと思いながら私は改札に向かった。
※※※
あれからもう十七年。
私の人生は、停滞したままだ。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
(2023/7/2 改稿)
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