第15話 夢のフラット35へようこそ


 陽さんが住んでいるのは、三路線が交差する駅近くのマンションだった。

「夢のフラット35へようこそ」

 陽さんは自虐的じぎゃくてきに笑いながらダブルロックを外した。

 高級そうなつくりの玄関には、折り畳まれたベビーカーがうっすらとほこりをかぶっていた。


「無駄に広いんだよね。いっそ売っちゃうか貸し出すかして単身用に住み替えたいんだけど。でも、フラット35でローン返済中の身だから」

「いつからここに」

「五年前。仕事の都合でこの辺には六年前から暮らしてたんだけどね」

 陽さんは冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを取り出すと、ビールの景品らしきグラスになみなみと注いだ。


「私がインドから戻ってきた頃じゃないですか」

「そうだったんだ。じゃあゆいっぺともっと早く会えたら良かったかもね」

 陽さんは眼鏡を拭くと、無造作にリビングテーブルに置いた。





「僕ね、三十代前半には子供が欲しかったのよ。でもコンプライアンスのおかげで社内恋愛なんて無理だし、それ以外に出会いの場もないし。だからって安易にマッチングサイトに頼った僕が悪かった。とにかく焦って結婚相手を探したからね」

 アイスコーヒーに大量の牛乳を投入しながら陽さんが話し始めた。


「そんなの、お互い様じゃないですか」


「まあ確かに。嫁さんは二十代で出産するのが絶対条件だったから。そんな訳で僕らはスピード結婚してここに住んで子供が出来て、そこまでは順調だったんだ」

 陽さんの目線の先が、ベビー用のマグカップが置かれたカップボードに向く。


「外資コンサルだった彼氏が嫁さんに相談なく会社を辞めて起業した時に、ばっさり彼氏を振ってマッチングサイトに登録したんだって。元々そいつは幼馴染で、家族ぐるみで仲良くしてたらしいんだ。それが出産準備で嫁さんが実家にもどったのを良い事に……」

「元さや?」

「そりゃマッチングサイトで出会った平々凡々のサラリーマンよりは、気心の知れた幼馴染の起業家の方が良いに決まってるよね。本人だけじゃなくって、互いの両親だってその方が絶対に都合が良いよ」

 陽さんは乾いた笑みをもらしつつうなずく。


「八か月ぶりに嫁さんと息子の顔を見て、何かあるぞと思ったけどうだうだしてるうちにずいぶん時間が経ってね。そのうちに相手の男が、慰謝料いしゃりょうを払うから嫁と別れてくれって嫁さんと息子連れで来たんだよ。その時息子は一歳六か月だった。息子は相手の男の事をパーパーって呼ぶんだ。あれには参ったね」

 陽さんは自嘲的じちょうてきに鼻で笑ったまま顔を膝に埋めた。


「確かにあの二人は家族ぐるみの付き合いだったかもしれないけど、有責ゆうせきなのは嫁さんの側だから親権しんけんは欲しかった。でも僕は子供に会いに行くことも出来ない」

「どうして。陽さんの子供じゃない」


「まだ物心つく前だから、二人父親がいる事を理解できないんじゃないかって。今じゃ、『俺の息子』に弟が出来たらしいよ」

 陽さんが赤くなった顔を上げた。


「人の縁ってのはなかなか一筋縄じゃいかないね。嫁さんが短気を起こさずあの男を信じてやれたら、彼らはそのまま幸せな夫婦になれただろうし。僕だって」

「結局その人の起業は成功したって事」


「ああ。子供の養育費ぐらいは出させてほしいって言ったのも却下きゃっかされたよ。逆に慰謝料を払うってあの男は言ったけど、口止め料のつもりもあったんじゃないのか。今じゃ百億円近くは個人資産があるらしい」

 それは男として一児の父として圧倒的敗北を感じざるを得ないだろう。

 私は心底陽さんに同情した。


「しかもそいつは拓人君の学部の先輩なんだ。女をメモ用紙のように使い捨てそうなスペックの男が、美人でもない上に子持ちの元彼女一筋だなんて、世の中って広いね」

 言いながら陽さんはスマホを私に見せてきた。


「この写真だけは消せそうにないよ。息子が写っているからね」

元嫁これのどこが良いんだ??)。

 次の瞬間には忘れてしまいそうなほど印象に残らない彼女に対する率直な感想は、胸の内にしまっておいた。 


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。


※一部改稿(2024/4/25)




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