第14話 十七年前の朝の事
「お疲れ様でした。気をつけて帰ってね」
ベーカリー手前の側道で拓人さんと別れて先にアパートにたどり着いた私は、油でべたついた髪をほどいてペールピンクの丸首ニットを脱いだ。
陽さんに久々に会った日につけていたブラジャーが、あの日と同じく白いブラジャーだったのは何の因果だろうか。
※※※
『乳、すげえ』
『乳の人ってあの子のこと?』
はじけ飛んだボタンのせいであらわになった、無駄に人目を引く呪わしい胸。
本川越方面に向かう電車の乗降口を占拠している中学生の遠慮ない声が耳をつき、腕で開け放たれたカッターシャツを隠そうともがけばもがく。
ペーパーバックやスポーツ新聞のすき間からのぞく通勤客の目が、白いブラジャーに覆われた両の胸を射抜く。
頼みの綱のはずの女性たちは、ある者は目を背け、またある者はクラスの女子達のような妬みと蔑視の入り混じった目線をちらちら寄こすのみ。
『これ、新しいから良かったらどうぞ』
そんな中、新品のジャージを差し出して私を助けてくれたのが陽さんだった。
※※※
あの忘れようのない出会いから十七年が経った、雨の止まない夜の事だった。
「若葉さん、例のお友達がお見えです」
時刻は日付をまたいで十五分過ぎ、ラストオーダーが近い。
キッチンの締め仕事をほぼ終えていた私は、コックコートのままフロアに出向いた。
「わざわざ出て来てもらっちゃって悪いね。今日は車で来たから送ってくよ。雨だしさ」
「ああ、そんなに気を使わなくてもいいですよ。近所だし」
「ゆいっぺ僕の事
「今更ですよ」
私はメニューを片手に苦笑いした。
オーダーされた冷やしうどんを運ぶと、陽さんは動画編集の最中だった。
「おっ、シェフゆいっぺのスペシャルメニュー到着」
お互い年を取ったなと改めて思う。
十七年前、新品のジャージを貸してくれた頃の彼なら、こんな物言いはしなかっただろう。
「陽さん限定でスマイル三倍盛りにしておきましたから」
あの頃の私も、貼り付けた笑顔でこんな安っぽい発言はしなかったはずだ。
笑う陽さんの目元にはうっすらと
「明日仕事じゃないんですか」
「テレワークの日だから十時にパソコンの前にいれば大丈夫。ゆいっぺはこの後空いてるの」
陽さんに送ってもらいたいのは山々だが、拓人さんと同じアパートに住んでいることが知られてしまいそうで、私はためらった。
「明日仕事なんですよね」
私があいまいに言葉を濁すと、陽さんはちょっと間を置いて口を開いた。
「あの子も良ければ送っていくよ」
それは困る、とたじろぐ間もなく陽さんは拓人さんを呼び止めた。
「良かったら僕の車でゆいっぺと一緒に送っていくよ」
拓人さんは一瞬ぎょっとした顔で私をちらりと見た後、いつものひょうひょうとした空気を身にまとった。
「うちは近いんで大丈夫です。若葉さんを送ってあげてください」
「いやいや遠慮しないでよ。車のほうが濡れないでしょ」
拓人さんはモーニングメニューを抱えたまましばし立ち止まると、私をちらと見た。
「ではお言葉に甘えます。十三丁目のスーパー近くのコンビニで下ろして頂ければ助かります」
「任せて。ところでお名前は。僕は
「
「そうか建築か。僕は
「良いですねえ。日本のですか、それとも海外の」
拓人さんの顔がぱあっと輝いた。
今まで見たこともないような拓人さんの表情を引き出した陽さんに、私はちりりと胸を焼いた。
閉店作業を急いで済ませると、陽さんはファミリー用のボックスワゴンを通用口につけた。
「拓人君は本当にコンビニの所でいいの」
「大丈夫です。買い物もしたいし」
「ゆいっぺの家は、コンビニの所から渋谷方面でいいんだっけ」
「はい。ナビします」
ミラー越しに映る働きづめの私の顔はひどくむくみ、再会相手が陽さんで良かったなどと
「城や
「そういえば友人が去年
「僕は所沢が実家だから、あの辺は遠足やらキャンプやらでしょっちゅう行ったよ」
「
二人の話が弾む間にも、ワゴン車はゆるい上り坂を何事もないかのように進んでいく。
「所沢は東京にも出やすいしアウトドアにも行きやすい良い所だよ。たいていの物は出かけなくたっ揃うし、通学中にゆいっぺみたいな美少女にも出会えるし」
「若葉さんも実家があの辺りなんですね」
「そう。ゆいっぺは小平が実家で、中高の時同じ電車で
ノーガードで自分の恥ずかしい過去を持ち出され、私はかああっと顔を赤らめた。
「そんな嘘つかないでくださいよ」
「全く照れちゃってまあ」
けらけらと笑いながら、陽さんはコンビニの駐車場へと左折した。
「勘弁してくださいよ。トラウマなんですから」
二人きりになった車内で、私は陽さんに抗議した。
「ああ、あれね。ごめんごめん」
陽さんは全く悪いと思っていない風で、駐車場から車を出すと渋谷方面に向かった。
陽さんのワゴンは明らかにファミリー向けの大きさなのに、ダッシュボードにも後部座席にも生活感じみたものが感じられなかった。
「ファミリー向けの車って、一人で使うの大変じゃないですか」
私が何の気なく発した言葉は、彼にとってのトラウマだったらしい。
「僕にもさ、一年前までファミリーってものがあったのよ」
今度は陽さんが深いため息をつく番だった。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
(2023/7/2 および2024/4/25改稿)
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