第9話 女は嘘を見抜く生き物

 拓人さんが引っ越してきたのは、家に彼が来て二週間ほど経った日の事だった。

 白いカシュクールフレアワンピースの上からがっちりとしたサージの丸首ジャケットを着こむと、自分のかすかに上気した顔がガラス張りのビルに映っているのが見えた。


 コブサラダとローストビーフにカツサンドを買い込んで自転車の前かごに入れ、慎重にハンドルを操ってアパートの駐輪場にたどり着くと、見知った顔が後ろから声を掛けてきた。

「あれ、そう言うことなのたっくん」

 鶴間つくしさんだ。

「何だよそれなら先に言えって」

 大野君は秋だというのにTシャツにハーフパンツ姿だ。

 三人はペットボトルが入った袋にスーパーの総菜や生活用品が入った袋などを、両手一杯に下げていた。


「ええっ、若葉さんここに住んでるんですか」

 拓人さんはちょっと大げさに驚いて見せた。

「もしかしてうちの隣に引っ越してくる人って拓人さんなの」

 私は芝居がからぬ程度に少し首を反らして、驚きの表情を作って見せた。

「俺102号室です」

「えええっ。隣じゃない」

「マジか」

 拓人さんは若い男性にしては嘘が上手そうだ。

 私の頼み通り、『私が隣に住んでいることを知らずに』物件を決めた設定で押し通している。


 大野君はすっかり拓人さんの嘘に騙されたようで、うなずきながら102号室に向かった。

 つくしさんは何も言わない代わりに、ちらりと私の自転車の前カゴを見て会釈した。

 女は嘘を見抜く生き物だ。

 私はつくしさんが拓人さんの嘘にだまされた振りを貫いてくれる事を、切に願った。


 私は買って来たデリ類を綺麗に盛り付け直してから、時間を見計らって拓人さんの家のインターホンを押した。

「これ、引っ越し祝いだから皆で食べて」

 引き留める拓人さんに構わず自室に戻って掃除をしていると、ドアホンが鳴った。

「私たちもう帰るんで。ごちそうさまでした」

 大野君とつくしさんを見送ってしばらくすると、拓人さんから102号室へのお誘いメッセージが届いた。


「折角頂いたのに食べきれなくて」

 拓人さんは紙皿に取り分けられた惣菜類を冷蔵庫から出した。

「これ拓人さんが盛り付け直したの? 器用ね」

「いや、大野です。彼は洋風居酒屋のキッチンでバイトをしているんです。箸をつける前に取り分けておいたので、安心してくださいだそうですよ」

 くすっと笑った拓人さんは紙皿をリビングテーブルに置いた。

「こっちに座った方が食べやすいと思います」

 床に座って背中をソファーベッドの足場にもたれさせる様にして、拓人さんは紙コップに緑茶を注いだ。

「じゃ、改めてよろしくお願いします」

 拓人さんは紙コップを掲げていたずらっぽく笑うと、私の紙コップに乾杯をするように触れ合わせた。


 こげ茶色のニットに黒のスキニージーンズを履いた拓人さんは、長い指でフライドポテトを摘まんだ。

 その指先に私は知らず見とれていたようだ。

「食べますか」

 フライドポテトを摘まんだまま、拓人さんが私をちらりと見た。

「いや、ぼうっとしてただけ」

 私は気まずさを誤魔化すように、ローストビーフに箸を伸ばした。


「最近若葉さん疲れてませんか」

 コブサラダに手を伸ばしながら拓人さんが尋ねた。

「この前だってビールサーバーメンテの時にビール被ってびしょびしょになったじゃないですか」

 四日前のラストオーダー直前に、いつもならあり得ないミスでコックコートをビールまみれにしてしまったのだ。


 替えのコックコートがクリーニングから戻っていなかったためフロア用の制服に着替えてみたものの、ブラジャーのデザインがはっきりと浮いた上に胸元のボタンがちぎれそうになってしまった。

 拓人さんを誘惑する意図は無かったが、彼がちらりとボタンの隙間から覗く双丘に目を向けたのに気が付かぬほど鈍感でもなかった。

 あの瞬間の拓人さんの熱を帯びた視線を思い起こして、私の体の芯が不意に痺れた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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