第8話 五限終わりに彼が来て

 私の提案を真剣に検討した拓人さんは、アパートを見たいと言い出した。

 待ち合わせ場所は幹線道路脇のベーカリーカフェ。

 スポーツクラブの更衣室で手早くメイクを直すと、私はフレアロングスカートを翻してビルの階段を駆け下り、自転車に飛び乗った。

 拓人さんは五限を終えて、とっくにベーカリーカフェに着いているはずだ。

 

 果たして、ベーカリーの袋と小さなロイヤルブルーの紙袋を下げた拓人さんは、店先の駐輪場に立っていた。

「待たせてごめん」

「中で課題をやっていたので大丈夫です」

 私は自転車を押して、交通量の多い夕方の幹線道路脇の歩道を拓人さんと歩き始める。

「あれだよ。何の特徴もないのが特徴の二階建て」

「へえ、築三十年越えには見えませんね」

 幹線道路から伸びる路地沿いのアパートは、申し訳程度の生垣が目隠しになっている。


「お邪魔します。エスニックが好きなんですね」

「バンガロールに留学していた頃に、ホストマザーからもらったの」

 拓人さんは、魔除けの札を興味深そうにのぞき込んでいた。


「お口に合えば良いのですが」

 拓人さんが差し出した小さなロイヤルブルーの紙袋の中には、有名なホテルの焼き菓子セットが入っていた。

「ありがとう。おいしそう」

 私は電気ポットのスイッチを入れ、ティーバッグとマグカップに菓子皿を出した。

「この家って広いですね」

「使い勝手は良いと思う。ご両親には引っ越しの話したの」

「六万円までなら、交通費と食費が浮くと思って仕送りしてくれるって」

「バイト代と合わせれば行けそうだね」

 話しているうちに電気ケトルから湯気が吹き出した。


 紅茶を拓人さんに差し出すと、彼はふうとマグカップに息を吹きかけた。

「牛乳いる?」

 まだ電源を入れるには早いこたつからもぞもぞと足を出すと、私は冷蔵庫に牛乳を取りに行った。

 拓人さんは牛乳をマグカップぎりぎりまで入れると、子供のようにマグカップを両手で抱えてこくこくと飲みだした。

 本当に不思議な子だ。大人びた雰囲気と言動に、幼子のような仕草が時折見え隠れする。


「美味しい」

 拓人さんのくれたフロランタンは、私の知る中で群を抜いて美味だった。

「ここは俺のお気に入りなんですよ」

「拓人さんってお坊ちゃんなんだ。こんなホテルのお菓子を知っててお気に入りだなんて」

「どこのお坊ちゃんの家が、片道二時間の距離の下宿代を渋るとでも」

 拓人さんが苦笑しながらフロランタンの袋を開けた。


「たしかに中高一貫の学校に通わせるのは大変だったろうし、大学も理系だから負担を掛けているのは事実ですが」

 中受トップ層の猛者たちに地方のトップ私立公立高の成績優秀者たちが入り乱れた、一大スペクタクル合戦絵巻が繰り広げられる地獄絵図。

 それが拓人さんが通う、つまりは私が受験に失敗した大学だ。

 近年では、国内での不毛な争いに見切りをつけた層は、初めから海外の大学受験に戦略を切り替えている。


「留学は興味ある」

「出来れば転勤すら少ないと良いと思ってる位ですから、しないでしょうね」

 私は人生に行き詰ってインドに数年逃げ出した口なので、拓人さんが余り海外に興味を示していない感じなのを少し寂しく思った。

「インドは。私はバンガロールに留学していたからどうかなと思って」

「へえ。英会話は得意じゃないから、若葉さんに教えてもらおうかな」

「スラングだらけになるよ」

 くすくすと拓人さんが笑った。




「セミダブルを入れても結構スペースありますね。やっぱりここ良いな。ここにしよう」

 通販で購入したセミダブルベッドと無機質なからし色のシーツに覆われた羽毛布団だけが置いてある殺風景な寝室を見て、拓人さんの心は決まったようだった。

 私はちらりと目覚まし時計を見た。


「もうそろそろ帰らないと」

「送ろうか?」

「いえ、すぐそこの停留所からバスに乗るので大丈夫です」

 玄関先で拓人さんは軽く頭を下げた拓人さん。

 私は大切な事を伝えるのを忘れていたことに気が付いた。


「私の隣に住むことは誰にも言わないで。住所変更で店長には分かるだろうけど、何か言われたら、『隣に住んでいたのを引っ越しの時点では知らなかった』って押し通して」

「そのつもりです」

 拓人さんは私の目をまっすぐに見つめてうなずくと、今度こそまた明日と言ってドアを閉めた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです

(2024/7/12 一部加筆)

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