第6話 |ヒト《ホモ・サピエンス》って本当にメンドクサイ。

「若葉さん。結局アパートは大丈夫だったの。水に浸かったりしなかった」

 拓人さんと避難所ひなんじょで一夜を過ごした二日後に私が出勤すると、店長が不安げに問いかけてきた。

「おかげさまで大丈夫でした」

 避難所で拓人さんにみっともない姿をさらす羽目になってしまったけれど。だが、そんな事を店長に言っても始まらない。

「あの豪雨の中で若葉さんが一晩一緒にいてくれて、土地勘の無い拓人君も安心したでしょう」

 あっまずいと思う間もなく、店長は邪気のない笑顔でとんでもない事を口走った。


「ええっ、拓人君はゆいさんの家に泊まったの。旦那なんて追い出して、拓人君の一人や二人泊めてあげたのにい」

「何それちょっとゆいさんズルいっ。あたしも深夜帯に変わろうかなあ」

 店長の発言に、キッチン担当の成瀬なるせさんとフロア担当の中山緑なかやまみどりさんが、休憩室で茶をすすりつつ悲鳴のような声を上げる。


「違いますって。店長が店を閉めに来て、私たちを避難所に送ってくれたんです」

 勝手な噂を立てられては困る。私は語気を強めて他のメンバーにも聞こえるように伝えた。


「でも一晩一緒にいたんでしょ。良いなーっ。あーもうあたしもゆいさんみたいなクールビューティー系爆乳美脚だったら。ワンチャンあったよねワンチャン」

「緑ちゃんの性格じゃ無理だわさ」

「何でですか成瀬さん。あたしはこの世で一番可愛くって超性格良くって、イケメン限定でモテまくりって決めてるんですよお」

「緑ちゃんは私の次に可愛いけど、色気と乳とデリカシーってものがないじゃない」

 中学高校と、『乳』の一言で他校生にまで私の存在が通じる――。

 あの屈辱の日々がフラッシュバックした私は、無言で更衣室に逃げ込んだ。


「えーっ嘘ーっ。若葉さんって拓人さんと出来てたのっ」

「タクさんマジかっこかわいい系で背が高くて超絶頭良いとか、チート物件だったのに」

 私と入れ違いに更衣室を出た高校生バイト二人の悲鳴が、休憩室中に響き渡った。


「だーかーら違いますって。おかしな噂立てたら私だけじゃなくて、拓人さんにも迷惑です。第一彼はまだ十九歳ですよ。ありえないじゃないですか」

 私は更衣室から顔だけ出して彼女達にくぎを刺した。


 ああ、ヒトホモ・サピエンスって本当にメンドクサイ。

 必要な時に必要な相手とだけ発情生殖すれば済む事を、年がら年中発情期に奪い合い。人類はいつ石器時代以前の種の保存システムから解放されるのか――。

 いつまでも小うるさい彼女たちに、私は苛立ちを抑えきれなかった。


 店長がセクハラ事案にあたるからとこんこんとお説教をしてくれなければ、彼女たちは退勤まで騒ぎ続けた事だろう。

 店長からのお叱りの意味を理解しているかは分からない彼女たちに続けて、店長を午後十時に見送る。

 店にはいつもの三人―私と拓人さんと田奈さん―が残った。


 田奈さんはハンプティ・ダンプティのような体を揺すりながら、空いた席のソファを乾拭きしている。拓人さんは普段通りひょうひょうとオーダーを取って、配膳の準備をしていた。


 キッチンカウンターの橙色のライトに照らされた彼の表情は、いつもと変わらない。それなのに、どうしても午前四時前に拓人さんのスマホを覗き込んだ時の顔を思い浮かべてしまう。

 あの、かすかに赤らめた頬。反らした目――。


「ポテトフライとイカ唐揚げワンオーダーアップ」

 ああ、ヒトって本当にメンドクサイ――。

 あの夜の記憶を振り払うように、私はアップ済みのオーダー用紙を伝票差しに差し込んだ。

 

※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

(2024/7/12 改稿)

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