第36話 直 -namecard-

 高級ホテルの最上階。

 いかにも場違いな空気に居心地の悪さを感じながら、あたしはりょうパパに促されるままレストランのテーブルに着く。

「あの、こんな服装で入ってもよかったのでしょうか?」

 アルバイト先の往復でいつも使っている服だったけど、入り口でワインレッドのカーディガンを手渡されて羽織るようスタッフに言われた。

「周りを見たまえ。遜色ない服装だよ」

 見ると、女性はドレス姿が多い。

 普段着で来てしまった分、やはり気後れしてしまう。

「それでは料理をお持ち致します」

「ああ、頼むよ」

 すでに注文が済んでいるのか、何を出されるかすら聞かれず話が進んでしまう。

 思わず見惚れてしまうほどの所作で置いてあったグラスに水が注がれる。

「ときに蝶名林ちょうなばやし嬢」

「何ですか?」

「このまま陵と仲を深めていった場合、我が財閥を次ぐ陵の伴侶となるわけだが、そうなれば財閥のリーダーと肩を並べるパートナーだ。君は将来を想像できていないとは思っていない。その覚悟はできているのかな?」

 あたしはハッとなる。

「儂は今、財界どころか政界にすら伝手つてが及んでいる。陵に会社を継がせるにあたってその伝手も少しずつ引き継いでいく。世界を動かすお偉方に恥じない財閥を代表する伴侶たる振る舞いができるか?」

 その言葉で、あたしの頭は一瞬で真っ白になった。

「………そう…そうだった…って、財閥!?何よそれ。そこまで大きい会社だったなんて…というより、これまで陵の境遇について詳しいことを知らずにいたわ」

 言われてみれば、あたしは陵の家族についてほとんど知らないことを思い知らされる。

「失礼ですが、陵くんが何の財閥を擁する家族か、詳しく存じ上げません。噂程度で知っていることとして、とても有名なグループの会社というだけです」

「ほう、ならば教えよう。月都美を三文字スリーレターにしたTDMホールディングスグループ、と言えば分かるかな?」

「えっ、まさかあのTDMですか!?」

「そのTDMだ」

 TDMホールディングスグループ。

 国内最大級の明先みょうせんグループと肩を並べる先進的な巨大複合企業コングロマリット

 噂では昔、急発達したくぬぎ託送便たくそうびんを取り込もうと決断した矢先に、明先へグループ入りしたことで見送りとなったらしい。

 明先とTDMは方向性が異なっていて、自社で部署を立ち上げてから分社化がメインの明先に対して、M&A(買収)で新事業を拡大するTDMという特色がある。

 まさか、TDM代表の家族だったなんて…。

 顎に軽く手を当てて考えを巡らす。

「…もし、もしこのまま添い遂げることになった時の話ですが…陵くんを、蝶名林家の婿養子に貰うことは…可能ですか?」

 表情を変えないで聞いている陵の父。

「親としては子に継いでほしいから、ここまで手塩にかけて育ててきたと考えられます。それでもあたしとしては…」

「嫁にくれば、明先と肩を並べるほどの地位とすら言える我が複合企業コングロマリットという莫大な財産を手にできるわけだが、それを捨てようと?」

「そんなの要りません!誰に何と言われても心は変わりません。むしろあたしには過ぎたものです。けど婿養子は認めない。どうしても嫁に来い、とおっしゃるなら…」

「どうする気だ?」

「陵くんと話をする必要はありますが、覚悟を決めて嫁に行くか、誰にも行く先を告げずにどこか遠くへ行くか、選びます!」

「嫁に来るか、駆け落ちの二択ということか」

「はい。多分、駆け落ちを選ぶことになると思いますが…多分、長くても数ヶ月程度で見つかってしまい、逃げ切れないこともわかってはいます。けどせめて覚悟を示さなければ、あたし自身が納得できません」

「逃げ切れないとわかっていつつも逃げるとは、全く不毛なことだ」

「結果が問題ではありません。あたしは陵くんと一緒に、抗う意思を示します!抗うこと無く力に屈するなんて、とても自分を納得させられません!」

 まっすぐと陵くんの父に目線を注ぐ。

 圧倒的な眼光に怯むことなく見つめる。

「では、例えば今日限りで陵を海外に留学させて、行き先を教えず陵の連絡手段を断ってしまえば、君はそうそう息子と会うことも適わなくなるが、それでもいいかな?」

「それがあなたのやり方なら、あたしはあたしのやり方でそれをひっくり返してみせます。何としても陵くんと合流して、そのまま行方をくらませます。見つける手段は今のところ思いつきませんし、晦ました後の生活をどうするかは思いつきませんが、できることは全部やります!もしそうなったら、あたしたちを見つけるのも苦労するでしょう。あたしが陵くんを見つけるのに苦労するのと同じくらい、探すのに苦労するでしょうね」

「月都美家に喧嘩を売るつもりか?」

「不当な扱いに対しては断固抗います!陵くんとの仲を引き裂こうするなら、例えすべてを捨ててでも!それが無駄な結果になると分かっていたとしても!」

 言い終えた後、さらに強くなる眼光。

 あたしは負けじと睨み返す。

「フッ!」

 ふと、その眼光が和らいで、ピンと伸ばしていた背が丸まって笑い顔に変わった。

「ハハハハハハハハハハハハハハハッもうダメだ!こりゃたまらん!!」

 突如高笑いを始めて、いたずら好きな子供のように冗談めかした顔へ変わる。

「…え…どういうこと?」

 状況が分からず、呆気にとられてしまう。

「すまない、君を試させてもらったんだ。まさか財閥の社長夫人という立場を捨てて駆け落ちまで考えるなんて思わなかった!息子りょうはどうやらとんでもなくい女と知り合ったようだな」

「ひどいわ!あたしを何だと思ったわけっ!?」

「まあまあ抑えて。我々に近づいてくる者たちは少なからず我々という人柄ではなく月都美の財産バックグラウンドを目当てにされてきていてね、少々辟易しょうしょうへきえきしていたんだ。その点、君なら後顧の憂いなく息子を任せられそうだ。騙していたことについては詫びておこう。もし月都美という財産バックグラウンドに目を輝かせてきたら、問答無用で手段を選ばずに別れさせるつもりだったが、その必要は無かったようだな」

 言い終わると、冗談めかした顔から真顔に変わった。

蝶名林彩ちょうなばやしあや殿、我が愚息をどうか末永く、よろしくお願いする。さあ遠慮なく食べてくれたまえ。お代は今さっき君から十分にもらった。決意や気持ちという形でね」

 頭を下げながら言われたことは少し重たいけど、認めてくれたことには嬉しさを隠せなかった。

「ところで蝶名林殿、トリュフは苦手だったりするかい?」

「えっと、きのこ類でしたっけ?」

 一度だけ、祖父母から誕生日祝いということで少しだけ食べた気がするけど、美味しいと思った記憶がある。

「いえ。好きです」

「そうか」

 月都美父はスッと手を挙げてウェイターを呼ぶ。

「彼女のメインはトリュフがけにしてくれるか」

「かしこまりました」

「ちょ…」

「気にするな。儂からのささやかなプレゼントだ。ドリンクも好きなだけ頼んでいいぞ。未成年だからアルコールは論外だが、ここのノンアルコールカクテルはどれも絶品だ。なに、気にせんでも蝶名林殿は一円たりとも出させん。こんな晴れやかな気分になれたのはいつぶりか」

 スッと差し出されたドリンクメニューを見ると、3桁のものが一切ない。

 ギョッとしつつ、数字を目で追っていた。

「…ガス入り水で」

「ウェイター、もう一つのドリンクメニューを持ってきれくれるか」

「かしこまりました。今のオーダーは取り下げと判断しました」

「それでいい」

 月都美父はあたしの意思を無視して話を進めていた。

「こちらをどうぞ」

 差し出されたメニューを見ると…

 あっ!値段が書いてない!

 手にしたメニューは、品名と特徴だけが書かれている。

「ガス入り水は口直しにすればいい。甘い飲み物は飲めるかい?」

 しばらく悩んでいると、月都美父が問いかけてくる。

「はい。好きです」

「彼女にはノンアルコールカクテルのペアリングBパターンで。儂はワインペアリングCパターンで」

「かしこまりました」

 勝手に決められてしまった。

 月都美父、結構強引な人なのかも。

「今の明先若代表と話をしたことがあってな。当時学生だった現代表は、今の妻と一緒になろうとした時、父…当時の代表から大反対されたそうだ」

「もしかして…」

「そう。その父は子の財産目当てで今の妻が近づいたと思われていたそうだ。勘違いと分かったらとたんに手のひらを返して歓迎されたということだ。勘違いとわかった後は、むしろ今の妻と別れたら一生独身を覚悟しろと凄まれる始末だったらしい。それを聞いていたから、こうして蝶名林殿と話をしてみたかったのだ。頭ごなしに関係を否定してすれ違いを起こした明先家のてつは踏みたくないからな」

 そんなことがあったんだ。

「けど、陵くんとは将来について話をしてみます」

「頼むから駆け落ちだけはやめてくれたまえよ。探すのは心身共に苦労するのでな」

「はい。しっかりと話し合います」

(最も、婿養子に出たとしても儂の跡を継ぐように根回しはしておくがな)

 と心の声を口にだすことはなかった。

「そういえば、競合する二社の代表が話をすることなんてあるんですね?」

「別に明先と戦争をしているわけではない。対立することはあるとしても、争うのはあくまでも業績という数字で相手より抜きん出ることに尽きる。仮にどちらかで事業売却があったとして、益があるなら買い取る。それ以上でもそれ以下でもない。そういう割り切ったものであることは確かだ。会ったときはお互いに腹の探り合いになったのは言うまでもないが」

 あたしは一つ、陵の両親を騙していたことを思い出した。

「一つ、よいでしょうか?」

「何かね?」

「夏休みにお邪魔した時のことです。あたしは一つだけ、月都美家を騙していました」

「何?」

 眉がピクッと動いた。

「あの当時、あたしは陵くんと付き合ってる意識はありませんでした。詳しく話すと長くなるのですが…」

「構わん。続けたまえ」

「では。陵くんは当時、女子に囲まれる毎日でした。けど全部を相手にするのは疲れるという理由で、一年春の連休後からあたしは彼にはめられて偽の彼女として演じていました。あたしを選んだ理由は、あたしが陵くんを嫌っていたから気が楽という理由です。さりげない気遣いされて一目惚れはしましたが、それ以上にチャラ男と思い込みました。以後、散々嫌いつつも偽彼女を演じ続ける内に陵くんを本気で好きになりました。夏休みに入ってすぐ、あたしは本気の告白をしましたが、返事を貰う前に偶然通りかかった友達が声をかけてきたことで返事を貰えずじまいになり、返事を聞きそびれている内に、陵くんはその気はないと判断して、あたしは偽彼女の立場に徹しようと決意しました。けどあたしが一方的に思い違いしていただけで、陵くんは本気の交際をしてるつもりだったんです。そのすれ違っている間に、宿題の勉強会としてお家にお邪魔しました。陵くんに恥をかかせまい、とあたしは本気で付き合ってる素振りを見せて乗り切ったつもりです。あの日はすべて騙していました。月都美家の皆さんも、あたし自身さえも」

 胸につかえていた蟠りを吐き出しきって、静寂が訪れる。

「なぜ、それを今言った?」

「陵くんだけでなく、家族の皆さんと共に過ごす未来がある以上、最後まで騙し続けたくないからです」

「…これまで、ずっと騙され続けたわけだ」

「言い訳はしません。あたしの勘違いとはいえ、騙した事実は事実ですから」

「騙してくる女に、陵を任せるわけにはいかないな」

 やっぱり…そうくるよね。

「そう、ですよね。でも、陵くんを思う気持ちに嘘偽りはありません」

「黙れ」

 端的に言われて、あたしは言葉を失った。

「やはり君には陵を任せられない」

 …まさか、こんな形で終わってしまうなんて…。

 曇った表情でガックリと肩を落とす。

「なんて言われるとでも思ったか?」

「え?」

「こんなの、騙した内に入らんわ。やはり佳い女だ。先程の説明もわかりやすかったし、結果は変わらなかった。それでも隔たりなく向き合う覚悟を持っているところなどワシ好みだ。やはり陵の伴侶は君しかいない」

「それでは…」

「後顧の憂いなく、そのまま真っすぐひたすら突き進むがよい。悩んでることがあるなら相談にも乗ろう」

 認められた…んだ!

「ありがとうございます!」

「だが陵には困ったものだ。そんなことちっとも知らんかったぞ」

「確かに陵くんは、あまり自分のことを話さないです」

「何か新しい発見があったら、教えてほしい。これが儂のDirectアカウントだ」

 その名刺を受け取る。

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