第33話 手 -leave-

「これはコー以外、誰にも話したことはない。それを前提に聞いてほしい」 

 思わずドキッと胸が高鳴る。


 俺は生後すぐ、過保護なくらい両親に愛されていた。

 しかし、それは単なる疑似餌のようなものにしか過ぎなかったと、今になって思い至っている。

 物心がついた頃のある日、親が顔を見せてくれるのは条件付きにされた。

「はい、よくできました」

「それじゃ…」

「今日の課題はまだあります。全部の課題を終えてと小テストが合格点なら両親が来ますよ」

 課題と称したシゴキと言えよう。

 一日の課題をすべて終えた場合だけ、両親と会えるという仕組みだ。これは俺が五歳の頃から始まった。

 出された課題はそれこそ膨大で、チャイルドシッターのような家庭教師が日替わりで俺の部屋にやってきて、ひたすら勉強の日々を過ごす。

 日曜日に限り、課題は無く無条件に親と一緒に過ごすことができる。

「残り時間はあと30分です」

 家庭教師は感情のこもっていない声色で残り時間を宣言する。

 幼稚園や小学校が休みの日曜を除く日は、朝の9時から夕方4時まで、昼休憩を含まず6時間の勉強を強制された。

 幼稚園や小学校の授業がある日は、まっすぐ帰ってきてから2時間の課題と決まっている。

 誰かと遊んできて遅くなった場合、午後の5時から開始することもあって、終わるのは夜7時。

 この場合は課題をクリアしたとしても親と過ごせる時間はわずか。

 だから親と会いたければ早く帰る必要があった。

 たくさんの愛情を注いでくれた親は、俺にとってオアシスにも等しい。

 その愛情が欲しくて、日曜以外は必死に課題をこなす原動力となった。

 そんな日々を迎える前に幼稚園で出会ったのが光畑こうはただ。

「では採点します」

 家庭教師がやってきた場合、必ず最後に課題をしっかりクリアしたか確認する試験がある。

「残念ね、陵くん。もう少しだったんだけど」

 そう言ってバツが付いた採点結果を見せる。

 やっと終わって、親と会える楽しみを失った俺は、ガックリと肩を落とした。

 8割を超えていないとクリアとはならず、その日は両親が顔を見せることもない。

 俺はこんな生活を、当たり前と思っていた。光畑こうはたもこんな生活を送っているに違いないと思い込んだまま育っていった。

 当時の光畑は黒髪で、ツンツン頭でもない。

 外から見ても見た目や大きさは普通の家だから、特に家のことが話題になることもなかった。

 しかしそれが普通ではなくなる日が、やがてやってくることを知らずにいた。


 小学校6年の秋、とある土曜の日。

 下校して家に帰ると、父がリビングにいた。

「陵、突然だが引っ越しするぞ。引っ越しが終わるまではこれまでやってきた課題は無しにする。荷造りに集中するんだ」

「え?それじゃ」

「ああ、課題をやらなくても一緒に過ごす。引っ越しに必要なダンボールは部屋に置いてある。再来週末までにダンボールに詰められるものは全部詰めておくんだ。足りなくなりそうなら早めに言ってくれ」

「うん」

 唐突だった。

 当時の家は一戸建てで、二階に俺の部屋があった。

 決して広いわけではないが、それでも不自由するほどではない。

 物心がつく前に注がれた愛情は、たしかな記憶がある。

 こうして課題をクリアせずとも親に会えることに喜びを覚えた。


 その日の夕食。

「引っ越しって、どこに住むの?」

「つい最近完成したタワーマンションがあったろ?あの最上階だ」

 前は印刷工場のあった敷地が、半年くらいかけて解体されて更地になった。

 跡地はしばらく放置された後に囲いが立てられて建築が始まる。

 何ができるんだろうと思ったら、みるみる高くなっていき、完成したのがタワーマンションだった。

 子供でも、文字どおりに高嶺の花だと感じていた。

 幼い頃からずっと取り組んできた課題で、不動産の相場というのもおよそわかっている。

 しかし親の収入が不明なため、収入に対してどれほどの割合で賃貸契約または購入できるかはわからない。


 小学校を卒業する頃には、すでに高校の教育課程をすべて終えていた。

 ついでに言うと、小学校に入った頃はもう小学三年の勉強に取り掛かっていて、わかりきってる内容の授業はただただ退屈そのもの。

 そこからも一年経つ頃には、さらに二年先の課程を終えているため、授業どころか中学に上がってからの試験すら退屈に思えて仕方なかった。

 周りからは完璧超人と人から呼ばれているが、実際には幼少の頃から叩き込まれた英才教育スパルタの賜物に過ぎない。最も、当時はこれが英才教育という自覚すらなく、どの家庭でも行われていることだと思いこんでいた。

 だからそのことを誰にも言うはずもなく、話題にもしない。


 小学校の卒業式が終わってすぐ、校門前で迎えの車に乗り込んで空港へ直行する。

 春休みを使って中学に上がる前の春休み初日に、俺は春休みの間だけ渡米した。

 父の仕事が急速に成長してきたため、事業拡大の仕込みをする必要が出たからだ。

 俺はそこである女性の成功者と会っていた。

 その仕事ぶりを見せてもらい、仕事の何たるかを学ぶことができた。

 物心がつく前から海外の言語を流し聞きさせられたことが作用して、俺はマルチリンガルになっているから、英会話も全く不自由しない。

 子供から大人になる過程で言葉を覚える仕組みというのも、小学校2年に父から教えられた。

 人の脳には言語マップという概念があり、生後から4歳にかけて言語マップが確立するという。

 各国の言葉で重要なのは母音であり、母音を聞き分けられるかがその言語を耳で理解する近道だと。

 もちろん記憶にはないが、生まれてからすぐ、親は洋楽や洋画を延々と育児部屋に流し続けていたらしい。

 家庭教師の持ってきた外国語音源を初めて聞いた時、何を言ってるか分からないものの、何を発音しているかがハッキリとわかった。

 何を言ってるかわからないのは当然だ。

 発音しているその単語を勉強していないから。

 けど発音していることがわかることで、外国語の習得速度は常識を逸脱していると家庭教師に驚かれた。

 小学校卒業時点で英語、仏語、独語、中国語、韓国語、ロシア語の日常会話はマスターしている。

 カラオケがうまいのも、音楽の家庭教師がいたから。

 音を取る耳が鍛えられていて、一度聴いただけでほぼコピーすることができるようになっている。

 小学校に入ってすぐ、疑問に思ったことがあった。

 何ですでに知ってることをわざわざ学校という場所で復習しているのかという。

 けど世間ずれしていない頃だったから、そういうものだと自分で納得して通い続けた。

 しかし学年が進むにつれてその疑問は消化不良なモヤモヤに発展していく。

 6年へ上がる頃には、学校の授業という時間がバカバカしいとさえ思っていた。

 なぜすでに勉強が済んでいることを復習しなければならないのかと。

 


「えっ、毎日両親と過ごしてる!?」

「おー、そんなの当たり前だろー」

 絶句した。

 中学に上がり、自分が置かれた家庭環境はいかに他の家庭と比べて、初めてはるかに歪んでいるかを思い知った。

 誰に聞いても、俺が置かれていた家庭環境は異常と指摘を受けて、俺の心は急激に荒み始める。

 中学への進学を機に、家庭教師は取りやめとなったものの、親との接点はそれほど増えていかなった。両親が朝早く出て夜遅く帰る生活に変わったからだ。

 渡米して帰ってきてから、俺は完全な鍵っ子になってしまう。

 親の愛情を受けられない俺はますます心が荒んでいって、光畑はその荒れ具合を肌で感じていた。

 ついに我慢の限界を感じた俺は、親が呼び出されて俺に構わざるを得なくさせてやろうと、警察沙汰を起こす行動を起こそうと決意したその日…。


 とある日曜日の昼下がり。

 バッグを取り出して、無駄に思えるほど広いタワーマンションの部屋からかき集めた道具を詰めていく。

 ハンマー、のこぎり、包丁、ロープ等々。

 最後に生徒手帳を胸に忍ばせる。

 あくまでも親が構わざるを得ないよう追い込むのが目的だから、身分証を持っていたほうが都合は良い。

 タワーマンションを後にして、どんな事件を起こしてやろうかと考えながらあてもなく歩き回る。

 道行く人を刺すか。

 その辺にある建物や車のガラスを割りまくるか。

 事件を起こして捕まること自体が目的だから、人通りの少ないところは避けて賑わう場所へ足を進める。

 目立つヘアスタイルの通行人が目に留まった。

 金髪でツンツンしている、いかにもヤンキーっぽい姿だ。

 同じ方向に向かって歩いているから、今なら後ろから刺せる。

 決めた。傷害事件を起こす!

 周囲を見渡して、人目が多いからすぐ騒ぎになることも確認した。

 バッグに手を忍ばせて、包丁を握る。

 ツンツン頭へ足早に距離を詰めて、握りしめた包丁をバッグから取り出そうとしたその瞬間…

「おう、陵じゃねーかー」

 振り向いて、軽い声で呼びかけられた。

「光畑…お前、その頭は…」

 別に会おうと示し合わせたわけじゃない。

 何をするつもりか教えたわけじゃない。

 こうして顔を合わせたのは全くの偶然だった。

「へへっ、おめーの頭ん中を代わりに表現してみたぜー」

 黒髪は金髪に変わり、サラサラなストレートヘアは重力無視のツンツン頭に変貌していた。さながら怒髪天を衝くかのように。

 光畑はニカッといたずらな笑いを浮かべて目の前に立って反応を待っているようだ。

 ここまで、開いた口が塞がらなかった。

「はっ…はははっ!…全く、お前には敵わないな」

 俺の心を見抜いて、先回りしてきたことで、ひとりじゃないと実感した俺は、警察沙汰を起こそうという気が失せた。

 それ以来、光畑はそれが気に入ったのか、ずっとその頭で過ごしている。


「というわけだ」

「…そんなことが…」

 あたしは思わず陵の胸に飛び込んでいた。

「今はあたしが…いるから…ずっと、側にいるから…」

「ああ、ずっと一緒にいてくれ…」

「ところで、なんであたしなの?陵なら選り取りじゃない」

「中学に上がってずっと、女子から注がれる目線が変わってね。色眼鏡で見てくるのがうんざりしたんだ。お金を返しに来てくれた時に見せたあの嫌そうな顔を見てピンときた。この人なら色眼鏡で俺を見ない、と」

「そう…だったの。だから何かとあたしに絡んできたのね?」

「反応がとても新鮮だったよ。今まで寄ってきたひとのどれにも当てはまらないその跳ねっ返りぶりが嬉しくて、つい構いすぎてしまった」

「へっ、この頭も少しは役に立ったようで何よりだぜー」

 コーくんはツンツン金髪を軽く撫でながら言う。

「おかげで俺は冷や汗かいたけどな。コーそっくりの人がこの辺で恐れられてる別人だったんだからな」


 夏休み明け初日。

 始業式が終わってすぐアルバイト先へ向かった。

「え、辞めた?」

「昨日付けで辞めたよ」

 これまで鬱陶しいほどつきまとってきた才田くんの姿が見えないから、聞いてみたら驚きの答えが店長から返ってきた。

「元々その予定で採用したわけだしね」

 最初から夏休みの間だけだったんだ…。


 夕方にアルバイトが終わって、お店を出る。

 お店の外には、見知った顔がそこにあった。

「才田くん、ここ辞めたんだって?」

「ああ、予定どおりにな」

 どこかスッキリしたような顔で、そこに佇んでいる。

には迷惑をかけたな」

「そりゃもう、日付が変わっても言い足りないくらいには」

「はは…キツイなそれは」

「で、何しに来たんだ?」

 陵が割り込んでくる。

「何も心配いらないよ。お礼を言いに来ただけだ」

「お礼?」

「意中の人に告白したよ。見事にフラレたけどな」

 あたしは思わず少し目を見開く。

「そう…」

「あんたら二人に出会わなければ、ずっと勇気を出せずに足踏みしていただろうな。勇気ときっかけをくれた二人に感謝だ。ありがとう」

 深々と頭を下げる才田くん。

「やっと前に進めるな」

「ああ。結果は残念だったし、まだ傷は癒えてないけど、長いことその場でしてた足踏みをやめて、先へ行ける」

 頭を上げた才田くんは、悲しみを滲ませながらも清々しい顔をしていた。

「彼より先に君と出会っていたら、あるいは俺を選んでくれていたのかな…」

「あたしは誰にでもとってもしょっぱい態度だから、嫌になって才田くんから願い下げしてたと思うわよ。実際何人にもそうされてきたわ」

「はは、あれは彼氏がいるからとった冷たい態度じゃなくて、素だったのか」

「そうよ。最初は偽カノから始まったけど、今は本気よ」

 ふわっと微笑み、無言で手を振って背を向けて歩き出す才田くん。

「陵…」

 何も言わず、陵は繋いだあたしの手をキュッと握り直した。

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