第31話 戻 -denial-
「ふざけんなよ」
あたしの目の前は、険悪な空気に包まれた。
どうしよう…陵にバレちゃった!
「はぁ…」
今日は
返してほしければ、あたし一人で才田くんと一緒に過ごすしかない。
この状況を憂鬱の一言以外で表現する方法を、あたしは知らない。
稜とのデートなら服も気合い入れて選ぶところだけど、相手があの人では全くおしゃれする気が削がれてしまう。
「これでいいか…」
近所の買い物で着ていくTシャツとデニムパンツを組み合わせた姿にした。
「はぁ…」
気が進まないながらも、準備を整えて外に出る。
「おはよう、彩」
無視。
呼び捨てにされた時は返事しない。
「かわいい格好だね」
明らかにお世辞だってことがよくわかる。
こんな手抜きファッションで褒められても嬉しくない。
「何よ、こんなのどこにでもあるシャツとパンツじゃない」
「そうなのか。彩は何を着ても似合うんだね」
無視。
どこへともなく歩き出すと、後ろから才田くんがついてきた。
「どこへ行くんだ?彩」
変わらず無視。
全く学習しない彼には、ほとほと呆れ果てている。
「おい彩!?」
返事はしない。
呼び捨てされた時は返事をしないことに決めているから。
スタスタと足を進める。
「お望みどおり今日一日一緒にいてあげるから、必ずバレッタを返しなさいよ?」
嫌悪とやり場のない憤りを秘めた顔で、才田くんに言い放った。
「それは彩の態度次第だ」
無視すると決めている呼び捨てを、懲りずにまたしてくる才田くん。
卑怯者。
その言葉を口にせず、飲み込んだ。
「なあ彩、せめて返事くらいしてくれよ」
なぜ返事しないのか、まったく理解してない才田くんが発する雑音を無視する。
チェーン店のカフェに入って、自分の分は自分で注文して支払いしたから、気後れしなければ後腐れもない。
「スムージーが好きなのか?」
「暑いからね」
「やっと返事してくれたな」
「あたしが返事するかしないかは…」
「彩」
呼び捨てされたその瞬間、口を閉ざす。
不快。
彼氏でもない、家族でもない男に呼び捨てされることがこんなにも心地悪いとは思わなかった。
「なあ彩、聞いてくれよ」
ほんと、返事する気を無くすわ。
自分でオーダーしたスムージーを少しずつ吸い上げる。
「これじゃ会話にならないだろ?彩」
会話を成り立たせたくないって意思表示をしてるのは誰よ。
こうして呼び捨てし続ければ、いずれは返事するとでも思っているのだろうか。
呼び捨てされたら絶対に返事しない。
今日こうして二人きりで会うのだって、取り返したいバレッタを取り返すまでの関係だし。
「彩はどうすれば返事してくれるんだ?」
呼び捨てをやめれば返事してあげるわよ。
「バイト先ではよく喋るのに、なんでだんまりなんだ?彩」
あくまでも呼び捨てをやめない才田くん。
返事する代わりにジト目を送る。
あたしは席を立ち、お店の奥へ足を進めた。
やはりというか、後ろからついてくる。
「どこに行くんだ?彩」
無視して、奥にあるお手洗いのドアを開けた。
才田くんが足を止めたことを確認してドアを閉める。
「あー、もう!どうしてこう懲りないの!」
ドアを閉めた後、苛立ちを込めた不満を小さく漏らす。
呼び捨てしたら無視すると言ってあるから、それは理解しているはず。にも関わらず呼び捨てして無視されても構わず呼び捨てしてくる。
今日一日、ずっとこうして呼び捨てしてくるつもりかしら。
「おまたせ」
席に戻って椅子に座る。
「それで彩、いつ返事してくれるんだい?」
あくまでも呼び捨てしてくる彼に辟易しながらため息をつく。
当然返事はしない。
呼び捨てしてくる限り、返事は求めていないという意思表示と解釈している。
呼び捨てしないで、と伝えたからわかっているはず。
イライラしている顔を隠しもせず、ひたすら呼び捨てしてくる彼には返事しないままカフェを後にする。
「彩はどこか行きたいところあるか?」
フン、と顔をそむけて口を閉ざす。
「彼と会うのはいつぶりだったかな」
車の後部座席に腰を下ろした陵は、運転席にいるドライバーに声をかける。
「最後にお会いしたのは昨シーズンの冬頃だったはずです」
「そうか、そんなになるのか」
「出発します」
ドライバーがアクセルを踏むと、黒塗りの大きな車体は道路を滑り出す。
実家のタワーマンションが次第に遠ざかり、やがて窓から最上階が見えるほどに遠ざかっていく。
「
「そのようです。その中でお会いする時間を割いていただいたのですから、しっかりと話をするとよいでしょう」
「ああ、わかっている。そういえば父は?」
「
「ん?」
陵は車窓に流れる景色で、あることに気づく。
「彩!?」
才田と並んで歩く彩の姿を見つけた。
「あいつ!何やってるんだ!?おい、止めろ!!」
「時間に余裕がございません。ここで止まるわけにはまいりません。順調に行って2分前の到着予定です」
「くっ!!」
(今すぐ降りて殴りかかりたい!)
「なら今日の会談はキャンセルしろ!」
「陵様、父上の面目をどうお考えですか?」
「ぐっ!!」
今日の面会は父の手配でやっと取れた予定だ。
腹わたが煮えくり返る思いを抱えたまま、遠ざかっていく二人の姿を見届けていた。
唯一の救いは、彩がとても不機嫌な顔をしていたこと。
望んで一緒にいるのではないことが明白だった。
「お会いできて光栄です」
「こちらこそ」
陵は明先の若代表と応接室で対面する。
「本日は本社ではないのですね」
「そうなのです。支社の視察に来ていまして、視察が始まるまでの僅かな時間ながら面会の機会を設けさせていただきました。あなたの父には大変お世話になっておりますことをお礼申し上げます」
「恐縮です」
「茜くん、頼む」
明先の若代表は目で合図を送る。
「かしこまりました」
応接室を出ていくスーツ姿の女性。
「相変わらずお美しい秘書ですね」
「ありがとう。彼女を秘書からお役御免にするなら、取締役会で満場一致または彼女が辞意を示すのが条件でしてね。僕も賛成しない限り降ろされることはありません」
「それは鉄壁の条件ですね」
陵の脳裏に、才田と二人で歩いていた彩の姿がよぎる。
「ところで、何か気になることがあるようですね」
一瞬驚いた顔をして、真顔に戻る。
「さすがの観察力ですね。感服致します」
コンコンコン
「どうぞ」
「失礼します」
秘書の女性が入ってきて、ソファに座っている二人にお茶が出された。
「ありがとう」
お茶を置いたスーツ姿の女性はドア近くに移動して佇んでいる。
「実はここに来る途中、交際中の女性が他の男と一緒にいるのを見かけてしまったんです」
「それは…落ち着かないでしょう?」
「はい。明らかに嫌な顔をしていたので、望んで一緒にいるわけではないことはわかっていますが、状況が分からず正直焦りがあります」
「青春ですね。僕も今は秘書となっている彼女と一緒になるまで、様々な邪魔や障害が立ちはだかりました」
若代表はドア脇に佇む秘書に目線を送る。
「ふふっ、いきなり黒服に連れて行かれて、屋敷で着替えさせられたのはメイド服でしたね」
わずかに微笑みながら続ける秘書。
「ぇっ?」
目が点になる陵。
「詳細は省略しますが、彼はあたしに嫌われようと、思いつく限りの嫌がらせをしてきたのです。メイド服を着せたのも嫌がらせでした」
「そうだったんですか。しかしなぜ嫌がらせを?」
「彼女の一家に不幸な事故をもたらしてしまった原因を作ったのが僕でね。そんな僕が幸せになってはいけないと自分を戒めていた。だから彼女に嫌われて不幸にしてもらうくらいしか思いつかなかった」
「それでも一緒になったのが気になります」
「その話はもういいでしょう。それより君は恋人のことを信じられるか?信じられないか?」
陵の顔が引き締まった。
「信じられます」
「なら信じればいい。間違いなど起きない、と」
「そう…ですね」
「はは、陵くんはまるで学生時代の自分を見ているようだ。それで陵くん」
「何ですか?」
「君は、父の跡を継ぐつもりかい?」
若代表は、ひたと陵の目を見る。
「継ぎます」
「それは、継ぐように言われたからかな?」
「違います。アルバイトをしてみて、人に使われるよりも使うほうが肌に合うと感じたからです」
わずかに顔を緩める若代表。
「もし君の父が雇われる立場だったら、どういう選択をしたのだろうな」
「おそらく違う答えになっていたでしょう」
しばらく、話が盛り上がり、時間が過ぎていった。
「
ドア横に佇む女性秘書が口を開いた。
「おお、もうそんな時間か」
隆紫は手で襟を正して
「君が父の跡を継いで代表として采配を振るう日が来ること、楽しみにしているよ」
「恐縮です」
ガシッと固い握手を交わし
「出口まで案内しよう。
「かしこまりました」
秘書の女性が先導して、出口まで案内される。
「それでは、よい一日を」
「本日の視察が充実したものになるよう、陰ながら祈っております」
車の後部座席に座った陵は、隆紫と茜に向かって挨拶を交わす。
「それで、今すぐ心配な恋人の元に向かうのかい?」
見透かされていることに少々驚き
「もちろんです」
真顔で答えた。
陵の乗った車は音もなく進み始める。
「
「はっ」
影で控えていた筋骨隆々な黒服が隆紫の呼びかけに返事した。
「思い出すな。茜が屋敷に来てからのドタバタを」
「ええ、思い出します。そうそう、
「そうか。元気でいるなら何よりだ。さて、しっかり視察して回るぞ。補佐役としてしっかり頼む」
「かしこまりました」
出発した車を見送った三人は、再び事務所の入っているビルに姿を消す。
お昼近くなり、あたしはもう我慢の限界に達した。
会うのはこれで終わりにしたい。
「もういいでしょ!バレッタ返して」
「よほど大切なものらしいな、彩にとっては」
「返して!」
呼び捨てされたものの、義理は果たしたから自分の要求を突きつける。
「これ、見たことあるぜ。ワンコインショップでな」
ポケットから取り出したものは、間違いなく陵からあたしにプレゼントされたバレッタだった。
「そんなの関係ないでしょ!?返してよ!」
「彩にはずっと無視されてきたからなぁ。これじゃまだ不完全燃焼だよ。返すわけにはいかないな」
っ!?
あたしは反射的に手を出して取り返そうとするものの、ひょいっとかわされる。
ダンッ!!
突然現れたその姿は、才田くんを壁に押しやり、壁に足をかけた。
「ふざけんなよ」
壁ドンならぬ壁ダンというところか。
「陵っ!?こ…これは…」
「彩、話は後だ。離れてろ」
目の前は一気に険悪な空気に包まれた。
よりにもよって、陵にバレちゃった…どうしよう!?
「才田、言ったよな?彩に近づくなって」
今にも血走りそうな目で、才田くんを睨みつける。
「へっ、俺はあくまで彩の意志に任せただけだ」
「モノ質を取っておきながら意志に任せた?寝ボケたこと口にしてんじゃねぇ!それを脅迫って言うんだよ!!」
胸ぐらを掴んで声を荒げる陵。
「まずはそれを返してもらうぞ」
言うが早いか、才田くんの手にしていたバレッタをむしり取って、あたしに差し出された。
「あ、ありがとう…陵」
ギロリと才田くんを睨みつけた陵は、再び口を開いた。
「彩に今度ちょっかい出したら、その時は覚悟しておけよ!」
くるりと才田くんに向き直って
「今回は」
ドフッ!
「カハッ!!」
「これで勘弁してやる!」
陵は
「あ…あの、陵…」
痛みでうずくまった才田くんを置いてきて、陵と一緒に歩いている。
「あいつに何もされなかったか?手を握られたり、肌の接触は?」
「…うん、それはなかったよ。けど散々呼び捨てされて、とても不愉快だった」
はあぁぁ…
「何かあったら、俺に相談くらいしてくれ。彩の身に何かあったら、とても冷静でいられる自信がない…」
片手で頭痛を押さえるようにして、疲れたような顔をしている。
「…うん、でも暴力はちょっと」
「言って聞くならいくらでも言うさ。言ってもわからないのが明らかだから、体に思い知らせてやるしかないだろ」
それはわかる。
呼び捨てしてほしくて、態度で示しても全く利かなかった。
もう、二度と彼に関わりたくない。
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