第29話 呟 -eavesdropping-
「
ドア越しで心配してくる姉に、あたしは返事もせずベッドに臥せっていた。
「休みではない。出勤の予定だ」
「開けるよ」
ガチャ
同意なく部屋に入ってくる姉と陵。
「らしくないな。いつもの彩じゃない」
「うるさい…放っておいてよ」
あたしはベッドでケットを被って全身を覆っている。
「やっぱり
ギクッ!
いきなりバレた!?
「いつもなら彩と一緒に帰ってるところが、泣き顔で店を出ていった。妙だなと思って彩の出てきた先を見たら才田がいた。簡単な状況証拠だ」
ああ…察せられてる…。
「今日バイト先であいつを締め上げて吐かせれば済むことだが、おおかた無理やりキスされたというところか」
そんなところまで見透かされてるって…。
「俺がそんなことで怒るとでも思ったか?」
ガバっとケットを剥ぎ取られて、あたしの姿が晒される。
「彩」
大きな手でうつ伏せしてるあたしは抱き起こされて
「んむっ…」
唇に柔らかい感触。
「上書き」
じわ…
無理やりとはいえ、唇を奪われてしまった自分に嫌悪して、目に涙が浮かんでくる。
「う…うわああああん!!悔しい!!あんな奴に唇を奪われるなんて!!」
陵の胸に飛び込んで、思いっきり泣いてしまう。
「やはりか」
「ファーストキスが陵とだったのはせめてもの救いだけど…許せないわよ!」
いつの間にか、姉は部屋から出て行っていた。
姉の
「ファーストキスは彼氏と…か。今の彩にとっては、まだそうかもしれないわね」
と小さく呟いた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
アルバイト先にはギリギリ間に合った。
結局、陵に説得されてアルバイト先へは顔を出すことにした。
「おや。蝶名林さんは風邪かい?」
「予防です。身内に風邪ひいた人が出てしまって」
「そうなのか。お大事に」
軽く朝礼を済ませて、それぞれ配置につく。
「蝶名林さん」
嫌な声がかかり、あたしは眉間にしわを寄せて冷たい視線を送る。
「何よ、セクハラ魔」
「セクハラとは心外だな。あんなの軽い挨拶だろ」
「…本当なら店長に言って叩き出してもらうところだけど、二度目は無いわよ」
「おー、怖。そのマスクは昨日の…」
「大概にしないと引っ叩くわよ」
プイッと相手をやめて仕事に戻る。
「それじゃ才田くん、二日目だけど今日もビシバシ行くよ」
額にかすかな青筋を立てて、コワい笑顔で陵が後ろについた。
見ていると、少しやりすぎなくらい陵は才田くんを扱き使っている。
あれはあれで可哀想だけど、昨日されたことを考えるといい気味ね。
お昼休みに入るものの、才田くんは来ていない。
「蝶名林さん、体調はどうですか?」
「ご心配ありがとう。これは予防だから心配いらないわ」
「そうですか。お大事に」
今日の昼休みは平和に終わり、フロアに戻る。
「さ、昼休みだ。さっさと入るぞ」
「ひでぇ…休み無く散々扱き使いやがって…」
すっかり疲れた様子の才田くんと、まだまだ元気な陵がそこにいた。
「何のことかな?別に昨日のことを根に持ってるわけじゃないぞ」
「しっかり根に持ってるじゃねぇか…」
まるで長い逃亡劇を繰り広げて、追い詰められて逮捕された犯人と刑事みたいな後ろ姿で休憩室のあるバックヤードに消えていく二人。
休憩室に入った二人は、向かい合うように座る。
「別に休憩は外へ出ても構わないことになっている。ただし休憩終了時点でしっかりフロアに出ていることが条件だ」
「ずいぶん過保護にしてるようだな。そんなに不安か?」
陵の言ったことに答えず、話題を逸らす才田。
「…なぜあんなことをした?」
ギロリと鋭い目線をぶつける陵。
「彼氏持ちの方が燃えるんでね」
「言っておくが、お前をツブす方法なんていくらでもある。これ以上ちょっかいを出すなら容赦しない」
お店で準備された昼食を食べ始める二人。
「どうツブしてくれるのやら。脅しなら無駄だぜ。久々に落とし甲斐のありそうな女を見つけてワクワクしている」
「ならば後悔させてやる。今回は警告だけだ」
「扱き使って八つ当たりしたくせに」
「これはあくまでも仕事だ。嫌ならやめてくれていいんだが。早いところ使い物になってくれないと困るんだよ。ナンパや遊びで来ているならつまみ出すぞ」
バチバチと目線の火花を散らす二人。
「ところで姓は
「家のことを話すつもりなんてない」
「やはりそうか。しかしそうだとしたら、確かに軽く捻り潰されかねないな」
言いたいことを言い終えて、黙々と食べ進める二人。
「しかし、そうなるとなぜこんなバイトしてるのかわからなくなる。彼女のためか?少なくともバイト代のためじゃないことは明らかだ」
「最初はそうだった。しかし今は違う」
「社会見学とでも言うつもりか?」
「それもある。けど言うつもりはない」
「そうかい。けどやることは変わらない。せいぜい指くわえて見てるがいいさ」
「そうはさせない」
手こそ出さないものの、口と目線は激しくぶつかり合っていた。
テーブルを拭いている時に、陵と才田くんがフロアに戻ってきた。
今はランチ需要が落ち着いて、カフェ利用目的がメインになっているから、それほど慌ただしくない。
それでも陵は才田くんに仕事を叩き込んでいるのか、ワタワタしてる様子が見えている。
そうこうしている内に、才田くんはフロアの奥に消えた。
陵が近づいてきて
「あいつは危険だ。できるだけ俺と一緒にいてくれ。俺がいない時でも、関わらないように避けた方が安心できる」
「わかってるわ。初対面でいきなりあんなことしてくるんだもの」
「仕事中は徹底してマークしておくけど、人目のないバックヤードで二人きりになるのは避けてくれ」
「仕方ない時もあると思うけど、そのつもりよ」
お互いに短い意識合わせをして、陵はフロアの奥へ足を進めた。
ほどなく才田くんもフロアの奥から姿を現す。
それから数日。
陵は警戒心を最大にして、あたしと接触させないようついて回っていた。
「おまたせ、陵」
今日はアルバイトがお休み。
夏休み最後の追い込みということで、残った宿題を全部片付ける勉強会をするため陵の住んでるタワーマンションへ。
エントランスで呼びだすと、陵の顔がそこに映った。
「今開けるね」
ムイーンと自動ドアが開き、中に入る。
エレベータで上がっていくと、エレベータを降りてすぐのところに陵が待っていた。
「どうぞ」
「おじゃまします」
ドアを開けてすぐ、あたしは違和感を覚えた。
なんだろ…静かだ。
前来た時はすぐに家族がワラワラと出てきたのに、今回は誰も出迎えが来ない。
「あの…陵、もしかして今日、この家って…」
「ああ、俺たち以外誰もいないよ」
………ええっ!?
ということは、ナニか起きても邪魔が入らなくて、最後まで止まらないってこと!?
「彩、どうした?」
「えっ!?ううん、何でもないの!」
焦りを必至で抑えつつ、平然を装う。
「どうぞ」
スリッパを出して促す陵。
「うん…」
どうしよう…履いて上がっちゃったら、もう引き返せない…。
そりゃ、そういうことがあることはわかってる。
わかってるけど、心の準備ができてない。
どうしても、スリッパを履こうとする足が進まない。
ふと才田くんの顔が思い浮かんで、無理やり迫られている様子を思い浮かべたら、足は自然に先へ進んでいた。
そうよ。あたしは偽カノのつもりで、陵は本気の交際をしてるつもりだったというすれ違いはあったけど、才田くんに唇を奪われたのは幸い初めてではなかったのがせめてもの救い。
だったら、その先もいっそ陵を初めての相手にしてしまえば、万一の時もショックはいくらか軽くなる。
一歩進むたびに、ドキドキと胸が高鳴る。
「それじゃ、先に座ってて」
「うん」
陵の部屋に入って、置かれている低いテーブルのところに腰を下ろす。
宿題が終わったら…やっぱりしちゃうのかな…。
まだ早い気がするけど、どのみちするなら…。
「お待たせ。飲み物持ってきたよ」
「ありがとう」
涼しげな青白いガラスコップに入った薄茶色のアイスコーヒーがテーブルに置かれる。
手に取ると、ひんやりして気持ちいい。
コップのアイスコーヒーを口に含むと、ミルクと砂糖が入っているのをしっかり感じられる。
その甘さと味の深さが絶妙で、ぴったりとあたし好み。
「それじゃ、始めるか」
「はっ、はいっ!」
飲みかけのアイスコーヒーをテーブルに置いて、ついその場で身を縮こまらせて固まってしまう。
陵の顔を見ることができず、テーブルに視線を落としていると、目の前に横置きで宿題が広げられた。
えっ?
「どうした彩。今日終わらせるんだろ?宿題」
「えっ…?あ、うん。もちろん」
頭の中がすっかり陵と仲良くすることでいっぱいになっていたあたしは、狐につままれたような気分で自分のバッグに手を伸ばす。
あ~…恥ずかしい…。
勘違いして、そっちのことばかり考えてしまっていた。
黙々と、粛々と宿題に手を付ける。
どの宿題も残りページはごくわずか。
陵もそれは同じらしく、あたしと同じくらいの残りページだった。
いつもはアルバイトで一緒にいるから気づかなかったけど、こうして落ち着いて近くで見てみると、体はがっしりとしている。
大きいし、手は筋張っているし、体の造りがまるで違う。
知識としてわかっているものの、実際こうして観察すると違いがよくわかる。
こんなところに住めるくらいだから、かなり裕福な家柄だろうし、整った顔立ちはいくら見ていても飽きない。万能超人と呼ばれる優秀さなんかまである。
正直、あたしには釣り合わないことはわかっている。
それなのに、陵はあたしを選んでくれた。
だから心配なのは、陵の家族。
場合によっては家族からあたしの身上調査が入ったとして、結果を見て反対されるかもしれない。
成績は陵より確実に下だし、家だって両親を亡くして祖父母のお世話になっている身だし、決して裕福なわけでもない。
もし反対されたら、陵はどうするんだろう?
どれだけ反対されても、あたしは陵と離れたくない。
「彩」
「え?」
ふと声をかけられて、我に返る。
「手が止まってるぞ。どうしたんだ?」
言われて気づく。
考え事をしていて、宿題が全然進んでいなかった。
「才田のことが心配か?」
「それもあるかな…」
「他に何を考えていたんだ?」
ボッ!
言えない!二人きりで陵と仲良くすることを考えていたなんて!
自分でも顔が赤くなっているのを自覚する。
「晩ごはんを何にしようか、とかねっ」
つい嘘をついてしまったけど、こんなの陵に知られたら変に思われちゃう。
「ああ、お姉さんに作らせるわけにはいかないからか」
陵にとっても、姉の料理はかなり思うところがあるらしい。
見た目だけはキレイにまとまってるから、余計タチが悪い。
「あの時は心臓が止まるかと思ったわよ」
「この世のものとは思えない味だったな、あれは」
「確実に味見してないのがわかるわ。隠し味が隠れないで主役になってるから、ひどい仕上がりになるのよ」
「まあ、そんな感じだったな。それより早く宿題を進めてしまおう」
「うん」
それからしばらく、カリカリとペンが走る音だけが部屋を支配している。
チラチラと目に入ってくる筋張った手が気になって仕方ないけど、さっきのやりとりがあったから、さっきまでよりは頭を切り替えて宿題に集中できている。
それにしても…きれいな手だよね。
はっ、いけない!集中集中!
意識を持っていかれかけた自分を引き戻して、目の前にあるテキストへ目線を落とした。
勉強はしっかりやってるから解けない問題はないものの、ひたすら面倒に思えて仕方ない。
途中で休憩と昼食を挟みつつ、残り1ページまでたどり着いた。
陵の分を見ると、同じページを開いていた。
それがどこか嬉しく思ってしまう。
「ふー、終わったわ。宿題全部」
「そうか。俺もちょうど終わったよ」
時間をみると、午後4時を回っていた。
「それじゃトイレ行ってくる。戻ってきたら家まで送るよ」
陵は席を立って部屋を出ていった。
「なんだ…今日はこれでおわりなんだ…」
才田くんが結構危険な人だってわかった今、無理やり迫られるより前に、せめて初めてのことは陵がいい。
「エッチ、してみたかったな…今日ずっとこんなこと考えてたなんて知られたら…呆れられちゃうかな」
言い忘れていたことを伝えに、トレイへ行かず戻ってきてドアのハンドルに手をかけた陵は部屋から聞こえた声に驚き、息を止め静かにドアから離れて引き返した。
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