第28話 唇 -run-
パシーン!!
あたしは反射的に、その頬へ平手打ちを入れた。
「それじゃ行こうか」
「うん」
どちらからともなく、恋人つなぎをして歩き出す。
これまでと違う喜びが手から伝わってくる。
(ほんとに、本気で付き合ってるんだ)
思わず顔が緩んでしまう。
付き合い始めて二日目の午前。
昨日は本当に色々あった。
偽カノから本カノになって、
何であんなこと言ったんだろう?
将来、あたしが苦しむって…。
もしかして陵の家柄を姉が知って、周囲から反対されることを予想してる?
いや、それなら事情を説明できるはず。
「どうした彩?」
「え?ううん、何でもない」
気になることは多いけど、考えても結論は出ない。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
アルバイト先に着いて、挨拶を済ませる。
お店の中では手をつながないことにしたあたしたちだけど、一緒に来たから
「おはよう」
「…お、おはようございます」
制服を着た見知らぬ顔がそこにあって、戸惑う。
「
オープン前の朝礼で、新人の紹介となった。
「それじゃ研修は…
店長は才田くんに陵を付けるらしい。
「わかりました」
開店まで残り10分程度。
この僅かな時間で端末の操作を覚えられるのは陵くらいのものだろう。
床にモップをかけながら、あたしはオーダー端末の操作を教えている陵の姿を横目で眺めていた。
少し前。
出勤してすぐ、その時は見知らぬ制服を来た才田くんと店長が話をしていた。
「気になるか?」
「新人が入るなんて聞いてないわよ」
「昨日の午後急遽決まったのかもな」
陵はお手洗いに足を向けた。
話を終えたのか、周囲を見回す才田くん。
あたしを見咎めて、近づいてくる。
「初めまして。俺は才田ってもんだ」
「初めまして。蝶名林です」
最低限、挨拶は済ませる。
「蝶名林さんか。あの彼氏とはここで知り合ったのかい?」
いきなり土足で踏み入ってくるような失礼さは、この際脇に置くとして
「違うわ」
詳しく教える義理は無いから、否定だけした。
「ふーん」
端的に否定だけして詳しく教えないことは大して気に留めていないらしい。
陵は開店と同時に店長へ話しかけていた。
♪♪♪
入店メロディが鳴り、あたしは案内に向かった。
「いらっしゃいませ。2名様でしょうか?」
才田くんは動いていない。
いきなり案内させるわけにもいかないし、あたしがお手本を見せなきゃ。
チラッと目線を陵に送ると、まだ店長と話をしている。
席に案内を終えたものの、次から次へとお客様が入店してきていた。
見ると陵の隣に才田くんが着いている。
そういうことか。
しばらく陵とマンツーマンで動くということね。
「ふー、やっとひと息つけるわね」
開店ラッシュが終わり、休憩室でお昼にしている。
「開店直後っていつもこんな忙しいの?」
同じ時間に才田くんが休憩に入ってきていた。
陵はいつ休憩に入るんだろう?
「夏休みと暑さが原因と思うわ」
「そうなのか」
「立ちっぱなしの仕事だから、夕方くらいには足…主に膝が痛くなるわよ」
「なかなかハードなのか。明日出てこられるかな」
「一週間もすれば慣れるわ」
そういえばあたしは履き慣れない靴で足を痛めたことがあったっけ。
「どうしてここを選んだの?」
「他によさげな求人が無くてな」
廃業騒ぎがあったあの段階で、求人は確かに壊滅的な状態だった。
あれから求人はほぼ目を通してないから、現状については知らない。
「彼氏との馴れ初め話でも聞かせてくれよ」
「なんでそんなことを話さなきゃならないのよ」
「ひゅう、強気だねぇ。一緒に働く仲だろ。親睦を深めようぜ」
「悪いけどプライベートなことを教えるつもりなんてないわよ」
付き合っている陵には甘々でも、それ以外に甘さを出すつもりなんてない。
「じゃあこの仕事で一番困ったこと教えてくれよ」
考えるまでもなく、一番困ったのは陵目当ての女子だった。
けどそれを話すとプライベートなことにズカズカ踏み込まれてしまうかもしれない。
「そうね、隣のビルで工事してるけど、ここの土地オーナーが間違えてこのレストランにやってきて閉業を迫ってきたことかしら。次のアルバイト探しをしたけど、壊滅的だったわね」
「他は交通整理やら引っ越し手伝いの短期募集やら、熱中症でぶっ倒れそうな求人ばかりだったよ」
「やっぱり今もそうなのね」
「この夏場じゃクーラー効いてる場所での仕事以外やる気ねえな」
確かに外を歩いてるだけで倒れてしまいそうな暑さだから、その気持ちはわかる。
「彩は何でバイト始めたんだ?」
「名前で呼ばないで」
「呼び方くらいどうでもいいだろ」
「よくないわ。名前呼びや呼び捨てを許してるのは彼氏だけよ」
「それで彩は」
「だから名前で呼ばないでって言ってるでしょ」
「細かいやつだな。それで彩はどうしてバイト始めたんだ?」
無視。
「なぁ彩?」
さらに無視。
「チッ…彩さん」
「何よ?」
舌打ちされたのは頭にきたけど、呼び捨てをやめてくれる限りは邪険にするつもりはない。
馴れ馴れしいのはよく思っていないけど。
「どうしてバイトしてるんだ?」
「単なる自分の小遣いよ」
「小遣いくらい親に貰えばいいじゃないか」
「それが許されるのは中学生までよ。高校生にもなれば自分の小遣いくらいは自分でなんとかするわ」
実際には両親が他界していて、祖父母のお世話になっている自分が嫌だからアルバイトをしていることなんて、陵にすら教えていない。
「へー、偉いな。彩」
無視。
返事しないでいると
チッ
と再び舌打ちされる。
陵以外の誰に何を思われても気にならないから、これでいい。
あたしは席を立ち、休憩室を出ていく。
「どこへ行くんだ?彩」
呼び捨てられたから無視。
「彩さん!」
「休憩時間は終わりよ。時計見て」
「あ」
なんか疲れる。この人の相手は。
「陵、これから休憩?」
「ああ。休憩時間、ズレちゃったな」
「仕方ないわよ。それじゃあたしはフロア出るから」
「これからラッシュが来そうな気がするから、しっかりな」
「うん」
陵の見立てどおり、フロアに戻ってすぐ来店ラッシュがきた。
「才田くん、それ18番へ運んで!その後21番の片付けを!」
何も考える時間すら持てず、慌ただしい時間が過ぎていく。
あたしはフロア全体を見て先を読んだ指示を出すことになってしまい、忙しさが倍増している。
才田くんが即戦力になってくれるとありがたいけど、入った初日だから勝手がわからないでいる姿を見て、具体的かつ簡単な仕事を見繕って指示する。
ピンッポンッ♪
さっきからオーダー呼び出しが鳴り止まない。
「そこのおにーさん、ちょっといい?」
呼び出しベルを鳴らしても来ないフロアスタッフにしびれを切らしたお客さんが、フロアを歩いてる才田くんを呼び止めているのを発見してしまう。
「あっちで席案内お願い。こっちは対応するわ」
お店の出入口で待っている新規客の案内を彼に任せて、あたしはオーダーを取る役目を引き受ける。
「お待たせ致しました。どのようなご用件でしょうか?」
「さっきの人は何かあるの?」
さすがに気にさせてしまったらしく、オーダーとは別の質問が飛んできた。
「先程のスタッフは不慣れなものですので、わたくしが対応致します」
「そう?それじゃこれ一つください」
グランドメニューを指さしている。
「はい、追加でございますね。承ります。ミックスフライバスケットお一つ、以上でよろしいでしょうか?」
オーダー内容を復唱して、注文端末で確定ボタンを押す。
「ふう、やっと落ち着いてきたわね」
「ものすごいラッシュだったな。キッチンもすっかり疲弊してるようだ」
客室フロアにいるお客さんがすっかり掃けて、3組程度まで減った。
テーブルを拭く布巾を取りに行く道すがら、陵と会話をしている。
「そうなんだね。向こうは火を扱ってて暑いのもありそう」
「こっちはこっちで走り回ってるから、体が温まってしまうけどな」
「ほんとよ。すっかり汗かいちゃったわ」
スタッフ用スペースで布巾を手にして、フロアに出る。
「よ」
才田くんがそこにいた。
「あなたの教育係は陵よ。仕事の質問なら彼にして」
「さっきまで一緒にいたあいつか。あんたらは付き合ってる割にあんまりベタベタしないだな?」
「甘く見ないで。仕事は仕事よ。タイムカードを打ち終わるまでは仕事仲間として接している。それだけよ」
「ということは仕事が終わったらべったりか」
「仕事中よ。プライベートな質問に答える気は無いわ」
「つれないこと言うなよ。少しは親睦を深めようぜ」
「店長に叩き出されたいなら止めないけど、まだ続けるつもり?」
陵はチャラいと勝手に思い込んでいたけど、この才田くんは実際にチャラい人らしい。
「初日にクビってのも乙なものだろうな」
「陵、才田くんが仕事で聞きたいことあるんだって」
おどける才田くんをスルーして、陵に任せたほうがいいと判断したあたしは陵を手招きして任せることにした。
「さ、これから仕事のいろはを叩き込んであげよう。夜のラッシュまでに覚えるさせてあげるから集中すること」
さわやかな笑顔がどことなくコワい陵は、才田くんの肩に腕を回して圧をかけつつ連行していった。
ほんと、あの馴れ馴れしさがほんと無理。
もし陵と付き合ってなかったら、あの人を自分で相手しなきゃならなかったかもしれないんだ…。
そう考えると寒気がするわね。
ピンッポンッ♪
オーダー呼び出しのメロディが響き渡った。
「はい、今行きます」
数少ない残っているお客さんの元へ小走りで向かう。
「お待たせ致しました。ご注文でしょうか?」
「はい。これをお願いします」
「スペシャルパフェお一つですね」
落ち着いてきたとはいえ、オーダーの確認ついでにキッチンの様子でも見てみようかしら。
「それとお手洗いはどちらですか?」
「あちらの壁側左手にございます。他にご用件はございますか?」
「いえ、ありません」
「ではごゆっくりどうぞ」
深くお辞儀して、席を離れる。
そのままキッチンへ足を運ぶと、中はすっかり疲れてしまったような空気に包まれていた。
「すごいラッシュでしたね。お疲れ様です」
「フロアはどうですか?」
「入っているオーダーの数で分かると思いますが、ほとんどが空席の状態です。少し休めそうですよ」
「それはよかった。夜にまたラッシュが来そうだから、交代で休みを取ったほうがいいかもしれない」
「そうですね。今のうちかもしれないです」
あたしの見立てどおり、夕方から再びラッシュが始まった。
「ふう、今日は特に忙しかったわね」
着替えをしつつ、思わずこぼしてしまう。
この時間で上がる他の女性従業員はいないから、一人だけで身支度を整える。
パタン、とロッカーの扉を閉めて更衣室を出る。
出てすぐに才田くんがいた。
「お疲れ様。明日も来るんですか?」
「来るよ。シフト入ってるからね」
「そう。それじゃあたしは彼氏と帰るわ。お先に失礼します」
横を通り過ぎてフロアに出ようとした瞬間、才田くんは通路を塞ぐように立ちはだかった。
「通るからどいて」
端的に言い放つも、ニヤリとして返事せず、道を空けてくれない。
「実は俺、前から君を狙ってたんだ」
「お生憎様。あたしは彼氏一筋だから」
無理やり才田くんの横を通り過ぎようとした瞬間
ダンッ!
壁を背にして、片足を反対側の壁を蹴るようにしてそのまま足を上げている。
「逃さねぇよ」
顔だけこちらに向けて、不敵な笑みを浮かべる。
「これ以上邪魔するなら大声出すわよ」
愛想笑いもせず、冷たい目で言い放つ。
「いいねぇ、その強気なところ。俺は彼氏いる方が燃えるんだよ。略奪愛というシチュエーションがな」
足を下げてこっちを向く。
この人、危険だ。
言って分かるようなタイプじゃない!
「来ないで…!」
ジリ、とにじり寄る才田くん。
「大声出すわよ!」
「おっとさせねえよ」
そう言って、両肩を掴まれ…
「んむっ!」
荒々しく顔を近づけてきて、無理やりキスされた。
さらに舌を差し込まれ、口の中を舐め回されてしまう。
「んぐっ!」
パシーン!!
「最低っ!!」
力いっぱい振りほどいて、その頬を叩いた。
プッ!
口を潤す唾液をティシュに吐き捨てて、素早く休憩室を出た。
「彩、一緒に…」
顔を伏せたまま、呼び止める陵の横を通り過ぎてお店を駆け抜けて外に出た。
これじゃもう、陵に合わせる顔がない!
目に涙を浮かべながら、じわっと纏わりつくような夏夜の中を走って家路についた。
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