第18話 拳 -regret-
「どうぞ」
「お邪魔します」
お昼を済ませたあたしたちは、
「これが
あたしの部屋はあまり物を置いてない。
3年前の事故があって、あたしの部屋と言われた中を見たけど、当然何一つ見覚えのないものばかり。
自分が使っていたという意識が無かったから、他人の物という気がして持ち出そうという気が起きなかった。
祖父母に言われたとおり、生活していくための物を持ち出すことに決めた。
部屋の物は半分くらい残して実家と言われた家を後にした。
「可愛げがないでしょ」
「無駄のないところが彩らしいな」
座卓を出して床に置く。
「それじゃさっさと始めましょ」
さっきから心臓がうるさすぎて、とても集中できそうにない。
あたしの部屋に陵がいる。
初めて出会った頃は考えもしなかったこと。
祖父母に食べてもらうためのたいやき屋であたし用にアイスを買って、けどお金が足りなくて困っていたところにさりげなく陵が助けてくれて、返しに行ったら女子に囲まれているのを見てドン引き。
それからなぜか陵が絡んできてニセ彼女にさせられた。
嫌いな人だったけど、一緒にいて安心する人だということに気づいて、今では好きな人になってしまった。
「それで、どう進めるつもりなの?」
「何を?」
「あんたねぇ…自分から提案しておいてノープランってあり得ないわよ」
「ああ、勉強のことか」
「まさかと思うけど遊び倒すつもりだったんじゃないわよね?」
「違う違う。そんな質問がくるとは思わなかっただけだ。1時間1教科くらいで区切って、お互い分からないところは聞いて、復習として何問か出し合うってことでどうだ?」
「いいわ。それでいきましょう」
陵の家でやるつもりだったから、教科書とノートはバッグに入れたままだった。
バッグから取り出して座卓に置き、崩し正座で座る。
陵もバッグから取り出してあたしから見て右前で胡座をかく。
「そういえば彩」
「何よ」
「姉さんの料理下手は昔からなのか?」
「さあ。少なくとも一昨年に一度だけ食べて死にかけたから、厳しく禁止したわよ」
「それより前は?」
「覚えてないわ。そもそも知…」
言いかけて、ハッとなって言葉を飲み込んだ。
「そもそも、なんだ?」
「そもそも知ってる限りで姉が料理をしてたのは、今日と一昨年の二度だけだから」
危ない。なんとかごまかせた。
いくら陵といえども記憶喪失について知られることによるメリットはない。
むしろ不利になるだけ。
「しかしあの味は…」
「思い出したくもないわ」
いったい何をどうやったらあれほど壊れた味にできるのか。
カップ麺に隠し味と称して、生クリームを主役級になるほど入れて、自爆するくらい料理のセンスがない。
お姉ちゃんは隠し味と主張するけど、ちっとも隠れてない不協和な材料と量を隠し味と称して使う。
もちろん、そのカップ麺は姉の料理にカウントしていない。
お湯を入れるだけで十分に完成している味を根底から覆す一工夫が姉の悪い癖。
しかもその一工夫をした後、確実に味見してないことは想像に難くない。
あたしが予想していたよりもずっと静かに勉強会が進む。
お互いに成績はいい方だから、分からないところを聞くシーンもあまりない。
「お手洗いに行ってくるわね」
「わかった」
高鳴る胸の鼓動がちょっと鬱陶しいけど、なんとか平和に終わりそう。
部屋を出て用を済ませてから部屋のドアを開ける。
「ちょっと陵!何してるのよ!?」
本棚の目立たないところに置いてあった小学校の卒業アルバムを取り出して見ていた陵の姿に、声を荒らげてしまう。
あたしに小学校の記憶はない。だから何かツッコまれると都合が悪い。
「勝手に見ないで」
卒業アルバムを取り上げて本を閉じる。
「いいだろ?もっと見せてよ」
立ち上がって手を伸ばす陵。
見せるわけにはいかない。
何を聞かれても記憶がないから、答えられない。
ベッドの中に隠そうとして足を踏み出した瞬間…
「あっ!」
床に置いてあったバッグのベルトストラップに足を引っ掛けてしまい、足がもつれて倒れこんでしまった。
「あぶない!」
とっさに陵が支えようとしてくれたけど、支えきれずにそのままベッドへ二人とも体を預けることになってしまった。
背中にはマットレスの柔らかい感触。
目を開けると、陵の顔が天井代わりに広がっていた。
思わず顔がこわばってしまう。
何も知らない人が見たら、陵があたしを押し倒したように見えるだろう。
「怪我は無いか?」
「う…うん」
顔が耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
ガチャッ
「彩、お茶淹れたから…」
お姉ちゃんがドアを開けて部屋に入ってこようとする。
空気が凍った。
「そ…そっちのお勉強してたんだ…邪魔したわね。それじゃごゆっくり…」
「陵、どいて!今すぐ!」
ドアを閉めようとするお姉ちゃんに聞こえるよう、声を張り上げた。
慌ててベッドから立ち上がり、一階に戻ろうとするお姉ちゃんを引き止める。
「あら、愛のお勉強は終わり?」
「からかうのはやめて」
お姉ちゃんがあたしの胸元を見て、わずかに目を見開く。
「バレてないよね?」
胸元に抱えてる小学校の卒業アルバムに気づいてこっそりと聞いてくる。
「それは話題にさせないつもりよ」
小声で返す。
どうやら状況を理解してくれたらしい。
「せっかく淹れてくれたお茶、いただこうと思うけど…」
何か嫌な予感がして、お姉ちゃんが持ってきた紅茶を少しだけ口に含む。
「…砂糖と塩を間違えてるよ」
それはとてもしょっぱかった。
「あれ?間違えちゃった?」
てへ、と舌を少し出しておどけるお姉ちゃん。
「お約束な間違いしないでよ。それと可愛い子ぶってもダメ」
ほんと、お姉ちゃんに食べ物用意させるのは危険ね。油断も隙もない。
「それとこれ預かっておいて」
小学校の卒業アルバムをお姉ちゃんに託した。
これを陵に見られるのだけはまずい。
「わかったわ」
「ちょっと小休止しましょう」
キッチンに行って紅茶を淹れ直した上で部屋に戻った。
「誤解は解けたか?」
「まあね」
「アルバムはどうしたんだ?」
「お茶を持ってきたせいで持ちきれないから置いてきたわ。後で片付けるから気にしないで」
「そうか。彩の小学生姿を見てみたかったな」
「それはいずれまたの機会にね」
「まあいいか。ちょっとおもしろい発見があったし」
「面白い発見?」
「聞けば、なんてことない笑いネタ程度だから、別にいいだろう」
「それはかえって気になるわね」
座卓に紅茶セットを置く。
「これってもしかして砂糖入り?」
「ええ、それぞれ一つだけね」
「塩と砂糖を間違えたりは…」
陵が頬に汗を流しながら聞いてくる。
「それは姉がさっきやってたわ」
「マジか…彩がしっかり者でよかったよ」
げんなりした顔でカップを手にした。
「お姉ちゃんに彼氏ができたら、大変なことになるかもしれないわね」
「想像もしたくないな、それ」
お姉ちゃんは尽くすタイプだから、もし彼氏に手料理なんて振る舞おうものなら、阿鼻叫喚の地獄絵図が待っている予感しかしない。
「それで、彩は行き詰まっていたりしないか?」
「問題ないわ。普段から勉強してるもの。アルバイトを辞めるつもりはないから、必死よ」
「だったらこんな勉強会をやる意味無いじゃないか」
「これはあんたが言い出したことじゃない!」
もともと陵が言い出して、さらに応じなければ無理やりキスするなんて…。
キス…。
二人きりの空間になっている今、迫られたら拒む自信はない。
思わず陵の唇を見つめてしまう。
好きになってしまった今では、むしろキスしたくてウズウズしてしまっている。
ダメダメ!
今のあたしはニセ彼女。しっかり演じきるのよ!
「そもそもあたしたちは本気で付き合ってるわけじゃないんだから、ここまでする必要ないと思うんだけど?」
嫌っている頃のあたしだったら、多分投げかけるであろう疑問をぶつける。
「それじゃ本気で付き合うか?」
ドキッ!
心臓が飛び出しそうなほど高鳴り、陵を見る。
顔を見て、ぬか喜びに終わった。
なぜなら陵は目をわずかに細めていた。いつもあたしをからかう時の顔だ。
「そういう冗談はやめて」
「なんだ、残念」
ドックンドックンと胸が高鳴る。
あまりに高鳴る鼓動は、陵に聞こえるんじゃないかと心配になるほど。
やっぱりあたしは陵にとって都合よく利用できる女というだけなんだ。
もう陵には期待しない。期待しても裏切られるだけ。
今の距離感を保つ。偽カノとして側にいられる時間を大切にする。
散ってしまいそうな気を何とか集中させて、勉強を進める。
誰もいない。この部屋にはあたし一人だけ。そう自分に言い聞かせ続けた。
日が傾いてきて、部屋が赤く染まる頃。
「これだけできればもう問題ないだろう」
各科目が終わるたびに問題をいくつか出し合って、問題を間違えずに答えることができた。
「あたしは夕飯の用意もあるし、そろそろお開きにしましょう」
「そうだな」
手早く片付けて陵が立ち上がる。
「それじゃまたね」
追い立てるように後ろを歩き、玄関から見送った。
もっと一緒にいたいけど、高鳴る胸の鼓動に気づかれたくなくて早く出ていってほしかった。
気づかれてしまったら、この関係はその場で終わってしまう。
決して気づかれてはならない気持ちを、そっと胸の奥にしまった。
胸の奥にしまっても、勝手に出てきてしまうから困る。
「よー、珍しいなー。外で会うなんてよー」
「本当に久しぶりだな、コー」
「ずいぶん大荷物だなー。何してたんだ?」
「彩の家で勉強会をな」
「へー、期末近いからかー」
「ああ」
「それにしても…(今は偽とはいえ彼女の家に行くとは、やっとお前も本気になったか)」
言いかけて、コーは言葉を飲み込んだ。
「なんだ?」
「彼女の小学校時代については何か聞いたんかー?」
「いや、アルバムはちらっと見たが、じっくりとは見ていないし、聞くなオーラがすごくて聞けてない(どういう意図の質問だ?)」
「そうかー。ならいいやー」
「待て。なぜそこで濁す?」
手をひらひらさせて立ち去ろうとしたコーを呼び止める陵。
「仮にも彼女なら、小さい頃をどう過ごしてきたか気にならんかー?」
「ならないといえば嘘になるが、唐突すぎるんだよ。何か掴んだのか?」
「さあなー。気になるなら本気で付き合ってみりゃいいじゃねーかー」
「女は信用できない。ルックスやステータスにキャーキャー声を上げて近づいてくる奴ばかりだからな」
「でもあいつは違うんじゃないのかー?お前も気づいてると思うがー」
「………」
「そんでもって、あいつはお前が誰の息子かすら知らないと思うがなー」
おどけた顔で陵の顔を見るコー。
「…知った後の反応がどうなるか、だな」
「へっ、語るに落ちたなー」
「っ!?」
陵はハッと目を見開いた。
「あいつのことをどうでもいいと思ってるなら、知った後の反応なんてそれこそ知ったことじゃないだろー?」
「………痛いところを突きやがって。そのヤンキー頭で俺を救ってくれたことといい、今回のことといい、妙に鋭いからコーはやりにくい。どこまで俺のことを見透かしてるのか底が見えない」
「小さい頃からの付き合いだしな、素直になれないでいる心の声がよくわかるんだよー」
コーはポンと陵の肩に手を置く。
「なんだったら代わりに伝えてやってもいいぜー?この頭にした時と同じくお前の先回りしてな」
ガッと陵はコーの胸ぐらを掴む。
「余計なことはするな!これは俺の問題だ!」
「だったらさっさとするんだなー。あまりにもダラダラしすぎてて、傍から見てるのは焦れてきちまったよー。思わずあいつに喋っちまいそうだー」
「やめろ…!」
バッと陵の腕を振り払って襟を整える。
「冗談はともかくとして、素直になったらどうだー?」
「うるさい…」
「いくらごまかしてもごまかし続けられないぞー」
「黙れ…」
「なんだったらこっちで探りを」
「黙れと言った!」
ガシッとコーの口を塞ぐように顔を掴んだ。
「彩は俺が嫌いなんだ…ただ単に利害関係が一致したから一緒にいるだけだ。俺を嫌う理由も知っている。女を相手に冷たくして敵に回さないよう、柔らかくかわし続けてきた。それを見て周りに女を侍らせていい気になっているチャラ男と判断されてしまったんだ。彩はチャラ男が嫌いんだ」
顔を掴む手を離す。
「もう、遅いんだ…せめて彩と偽カップルを続けていられる内は一緒に…いたい」
ギュッと拳を握りしめて俯く。
「だから…余計なことはするな」
もし時間を戻せるならば、彩と出会う前の連休まで戻りたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます