第4話 水曜日 カフェ
結局何も借りずに店を出て、三軒先のカフェに行った。
ジャズが流れ、コーヒーの香りが漂う、この店は憩いの場所だった。
道路を挟んだ向かい側にコインランドリーがあって、月に二回、洗濯物が終わるのをこのカフェで待つのが小さな贅沢だ。
彼女に会ったのも、給料が出たばかりの日曜日で、小さな贅沢をしている時だった。
この間と同じ、奥のカウンター席に座り、通りを眺めた。
窓に面したカウンター席からは外がよく見える。
十月も後半に入り、街路樹が先週よりも葉を赤く染めていた。
彼女を待ちながら、手帳を開きバイトの予定を考える。
大学は後期の講義に入っている。前期は就職活動でつぶれ、ほとんど単位が取れなかったので、後期は週5で大学に行く程、講義が詰まっている。午前中だけで終わるのは水曜日だけだ。やっぱりバイトを入れるのは水曜日がいいか。そんな事をぼんやり考えていたら、「いらっしゃいませ」という店主のきちんとした声がした。
彼女が店に入って来る。レジでコーヒーを買って、僕を探すように店内を見回していた。
わかるように軽く手をあげると、彼女が親しい人を見るような表情を浮かべて歩いてくる。その表情に胸がざわざわする。
恥ずかしくて目を逸らした。
「佐々木くん、お待たせ」
彼女が隣に座る気配がして、コーヒーと混じった甘い匂いがした。
「お疲れ様です。あの」
彼女を見た。服装が制服の黒いポロシャツから辛子色のカットソーに変わっていた。下はさっきとおなじジーンズなのに上が変わるだけで女性らしい柔らかさが出た気がする。髪型も店にいた時は後ろで一本に結んでいたけど、今は下ろしていた。艶のある綺麗な黒髪に胸が締め付けられるような気持ちになった。
「何?」
柔らかな声で彼女は言った。
「漢字の『一』って名札に書いてありましたけど、なんて読むんですか?」
疑問に思ってた事をぶつけた。
「何て読むんでしょうか?」
彼女がクイズ番組の出題者みたいに言った。
「それを聞いてるんです」
「君、大学生でしょ?考えるのがお仕事でしょ」
「疑問に思った事を調べるのも仕事です。だから聞いてるんです」
「なるほど」
納得したように彼女が笑った。
「でも、まず、仮説を立てて、それを検証したらどう?」
「僕は理系じゃありませんから、調べて答えを見つけるだけです」
「なんかズルい。もしかしてネットで調べてコピペとかしてレポート出してるんじゃないの?」
むっとした。失礼な事を言う人だ。
「卒論も全部コピペだったりして」
「これでもちゃんと調べて、自分なりの考えを書いてます」
「そうなんだ」
彼女がコーヒーを飲んだ。それから目が合うと微笑んだ。
「大学は楽しい?」
「まあ」
「サークルとか入ってるの?彼女はいるの?」
「人の質問には答えずに踏み込んできますね。一体、あなた何なんですか?」
女の人がうーんと考えるように腕を組んだ。
「佐々木君の友だち?」
「はあ?」
「じゃあ、佐々木君の知人ぐらいで」
“痴人”という漢字が浮かんで急におかしくなった。
「なんで笑うの?」
「いえ、『痴人の愛』って小説を思い出したんです」
「ちじんのあい?」
全く知らない言葉を口にするように彼女は言った。
初めて優位に立てた気がした。
「知りませんか?谷崎潤一郎の『痴人の愛』って小説」
「谷崎潤一郎は何となくわかるけど。それってどういう話なの?」
「どういうって」
タイトルは知ってるけど、読んだ事はない。
「さあ」
「答えを教えてくれないの?」
「答えを教えるのはあなたが先でしょ?僕は聞いてるんですよ」
「何だっけ?」
「だから漢字の『一』って書いて、そのまま読むんですか?イチさんでいいんですか?」
「違うけど『イチ』でいいよ」
「正解を知りたいんですけど」
「『イチ』の方があだ名みたいで友だちっぽいじゃない。私は佐々木君の事、のびちゃんって呼ぶからさ」
「僕の見た目がそんなに『のび太』に似てますか?」
「私、眼鏡の男の子、好きよ」
不意打ちをくらった。“好きよ”って言葉が耳の中で木霊する。
「のびちゃん、顔が赤いよ」
「あなたが変な事言うから」
コーヒーを飲んだ。
「のびちゃんはダメ?」
甘えるような目と合って、頬が熱くなる。
なんでこの人の言葉にいちいち反応するんだ。
「勝手にして下さい」
「のびちゃんね」
彼女が嬉しそうな顔をする。警戒心のない無邪気な笑顔だった。
女性からそんな笑顔、向けられた事ない。
「ところで、のびちゃん、借りて行かなかったけどいいの?」
「え」
「AV」
急所を突かれて、喉がカラカラになる。
「面白そうなのがなかったですから」
「それはごめんなさい。のびちゃんどんなの好きなの?店長に言って揃えてあげるから」
「いいですよ」
「いいの?」
「構わないで下さい」
「のびちゃんの趣味知りたいのよ」
「そんな事より苗字の読み方教えて下さい」
「次に会った時に教えてあげる」
次に会うという言葉にまた胸がざわついた。
一体、この人は何なんだ。
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