8.孤独を共有する私たち

「おかえりなさい、ゆかり」

「ただいまー……」

「今日も本を借りてきたの?」


帰宅してリビングでくつろぐ私が持っているものを見て母が問いかけた。


「うん。だって、空想の世界は自由だもの」


私の言葉の意味するところを分からぬはずがない母が、少しだけ表情を曇らせながら、笑みをたたえて「そうよね、わかるわ」と一言だけ続けてくれた。


ご飯の支度をしてくれた母が、一緒にいただきます、といった後にこう言った。


「あ、ゆかり。今日私夜勤の日だからね」

「そうだった。お母さん、仕事増やしたんだったね……大丈夫?」

「なぁに心配してんの!それよりも、明日の朝忘れ物しないようにね」

「分かってるよ……」

「夜中までその本読んでちゃだめよ」

「わ、分かってるって、もう」

「夜中のチョコレートは太るわよ~」

「う、うるさいなもう!た、食べないもん!」


やはり母にはバレていたか……と思いながら、カバンに忍ばせている1口サイズのチョコレートを楽しみにしている自分に、ブレーキをかけねば、と思った。



そうして食事が終わり、母も仕事に出てから、ようやく私は部屋に帰ってきた。


部屋の前で、一瞬立ち尽くす。


本当に、カタリナは存在しているんだろうか。

私の脳内の何かが生み出した幻想なんじゃ……エアー友達みたいな。


なんて考えていると部屋のドアが勝手に空いた。


「人間って不思議な言葉を作り出すのね。なぁに、『エアー友達』って」


相変わらず漆黒のドレスに身を包んだ、しっとりと美しいカタリナが迎えてくれて、そう口にした。


「あ、あー……とりあえずあとで説明するね」


よかった。幻じゃなくて。

学校から帰ってきた後だから、余計にそう思えた。


きっと、こう思っていることも、カタリナには分かっているのかもしれないけど、何も知らないふりをしてくれているのが、今は嬉しかった。


「……今のゆかり、なんだか嬉しそうね」


着替えながら背中越しにそう言われて、ドキッとした。


「え?そ、そう……かな……」

「うん。帰ってくるときまでのあなたの色は、黒に近い灰色だった。でも、今私と話してるときに、パッと明るい色に変わったの」


え?ど、どういうことだろう。黒いオーラが可視化されるくらい、負の感情を撒き散らしていたのかな。


そう思うと、カタリナが「ふふっ」と笑って頭(かぶり)を振った。


「ううん、違う違う。私ね、色が見えるのよ。人間の、感情のね」

「え、えぇ?か、感情の、色?」

「えぇ。今朝ちょっと言ったでしょ。私が食べてるもののこと。私はね、人間の感情を食べてるのよ。怒りや悲しみ、嬉しさ、感動、正負関係なく、あらゆる感情の、ね」


……今朝の口ぶりから、人を傷つけたりする悪魔(ひと)じゃないことは分かってた。

でも、まさか感情が見えて、しかも、それを食べるなんて……


「も、もし感情を食べられたら、そ、その人はどうなるの?死、死んじゃうの?」


その答えを予期していたのか、彼女は私をまっすぐ見て言った。


「……そう思う?私が、人間の感情を、魂を吸い取って、死に追いやるような存在に?」


ううん。絶対カタリナはそんなことしない。いや、食べてるのは本当だろうけど、嬉々として人を殺すような悪魔(ひと)には思えない。


そう言うと、彼女は……一昨日会ったばかりの浅い関係だけど……今まで見た中で、一番綺麗な笑顔を浮かべた。


「ありがとう、ゆかり。なんだか、認めてもらえるのって、嬉しいものなのね」

「……カタリナ……?」


その笑顔にはどこか陰りがあって、その表情とは大きく異なった、複雑な感情が入り混じっているように見えた。


カタリナはベッドの縁に腰をかけ、隣に座るよう私を誘った。


彼女は前を見たまま、私のほうを見ずに続ける。

――見上げる形になる彼女の横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。


「ゆかりは……『悪魔』って聞いて、どんなイメージを持つ?」

「え?えーっと……やっぱり『怖い』とか『強い』、『死』とか『病気』とか?」

「そうね。宗教でもそういう風に描かれることも多いわね。あなたの反応を見ると、やっぱり悪魔は『死や災いをもたらす者』というのが、人間の中で固まってるイメージなのね」

「でもカタリナはそうは見えないよ?なんか……優しいもん」


そう。傷ついて帰ってきても、彼女の雰囲気を感じ取ると、なんだか安心する。

犬は怖かったけど、彼女が大型犬になっても怖くない。ずっとなでなでしてあげたくなるくらいだ。

私自身でも不思議だけど。


「ふふ、そう思ってもらえてなんだか嬉しいわ。最初の夜なんか、私を見て失神したのにね」

「だ、誰でもあんな暗闇に、熊みたいに大きな犬が牙をむき出しにしてたら失神するわよ!」

「ふふふ……でもゆかりが私のことを怖がらなくて、本当に嬉しいの。大抵の人間は恐怖におののいて、言葉にならない罵詈雑言を浴びせるだけ。あなたみたいに、たとえ人ではない存在であっても受け入れてくれる人なんて、そうそういるものじゃないのよ?」

「そ、そう……かな……?」


なんだかくすぐったいような、嬉しいような。胸が温かくなって、笑みが自然とこぼれる気がした。


「悪魔ってね、たぶんゆかりを含めた、人間が想像するとおりの存在よ。人間は悪魔にとっては、自分より劣っている存在、殺めても傷つけてもいい存在だって認識されているのが一般的なの。」


なんだそれ。なんか漫画とかゲームでそういう設定なのは知ってるけど、実際にそうだといわれるとむかつく。何様だ、もう。


「まぁその通りよね。でね……ゆかりは『黒魔術』って聞いたことある?」

「黒魔術?……うん、なんだか聞いたことはある。悪魔を召喚するための儀式だったり、悪魔崇拝だとか魔女狩りだとか、なんだか物騒で宗教がかったもの、って感じ」


うん。なんだか本で読んだり、授業で習ったりした気がする。中世ヨーロッパで行われたとか、無実の女性を悪魔崇拝しているってこじつけて火あぶりにしたり……


「……私たち悪魔はね、人間が『不完全な存在』だっていうことをよく知っているの。わかり易く言えば、悪い人間もいる、っていうことを知っている。悪魔の持つ性質と似た感情や考えを持つ人間もたくさんいるということを知っているの。だから、黒魔術を行って、人間にとっては禁忌とされるような、おぞましくて淫靡で凄惨な儀式をもって私たちを召喚しようとする、そういう人間を利用して、私たちは彼らを餌にするの。」


カタリナはゆっくりと……少しだけ苦しそうに、説明を続けていく。まるで、彼女がその一員であることを、本当に恥じているように。


「私は感情を食べるだけ。人間は、なぜその感情を抱いていたのかは忘れるけど、怪我をするとか命に関わるとか、そんなことはないわ。もっとも、物理的に攻撃すれば別よ?……しないけどね」


そう言ってカタリナは犬歯を見せ、威嚇するようなまねをした。ちょっとだけびびってしまった私を見て、彼女はくすくすと笑った。


「でも、ほかの悪魔たちはそうじゃない。むしろ、私みたいに人を傷つけたり殺めたり、そういう衝動がない悪魔のほうが少なくて、馬鹿にされたりないがしろにされたり。彼らは、悪魔としての本能に従って行動する。殺したいだけ殺して、食べたいだけ食べる。……犯したいだけ、犯すのよ」

「……!」


最後の部分に反応した、私の恐怖の感情を読み取ったのか、カタリナは私を優しくなでながら続けてくれた。


「私は違う。私は……私は、彼らみたいな――自我を失った獣のような彼らとは、断じて違う。彼らと違って、私は殺意や攻撃的な衝動はかなり少ない。それよりも、人間に対する興味が強くて、現世に抜け出しては、人間を観察して、その心を知りたい……食べたいって思うの。それが私。カタリナさんよ」


私のほうを向いたカタリナは……なんだかすごく儚くて……彼女が悪魔だっていうのが全然信じられないくらい、弱く見えた。


その弱々しい、作り笑いを向けたカタリナを……すごく、抱きしめたいと思った。


私は何も言わずに、彼女にぎゅっと抱きついた。


温かい。

彼女の体温が伝わって、彼女の思いが、悲しみにも似た感情が感じ取れる気がした。


「ゆかり……なんだか、あなたは本当に私とは他人に思えない。私と同じで……独りでいることに、ずっと耐えてる」

「……っ!」

「ごめんね、ゆかり。あなたが話さなくても、あなたが抱える苦しみが目に見えるの。暗い感情と、それに負けまいとする感情、いろんな感情が交じり合ってる。だから……私には『千里眼』の力はないし、あなたが学校という場所で、どんな風に過ごしているのか、直接は分からない。でも……でもね、ゆかり。あなたが私と同じように……周りに負けないように、歯を食いしばって生きている姿が、どうしても同じだと思えてしまうの……」

「……カタリナ……!」

「……頑張ってるのね、あなたも……」


だめだ。

ここで泣いたら、今まで我慢していたものが、決壊する。

ここで誰かを頼ってしまったら……独りで耐えられていたことを、もう一度独りで耐えられるのかどうか……


でも、カタリナの声が、身体が、私を抱きしめる腕が……それを許してくれる気がした。


「うぅ……あぁーーーー……!」

「……あなたは、一人じゃないわ。これからは……私もいるから……」

「ひ、ひっく……カ……カタ……リナ……!カタリナ……!」


ぽん、ぽん、と後ろに回した彼女の手が、背中を優しくたたく。

この悪魔(ひと)は、悪魔(あくま)なんかじゃない。

カタリナは、カタリナだ。


母に見せまいと虚勢を張り続けていた私を、本当の私を許してくれる、ただ独りのひとだ。


堰を切ったように溢れる涙は、カタリナの服に染みをつけ……でも同じくらい、カタリナも泣いている気がした。


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