第2話

「本宮に行っても札を渡すだけで、祭りなど見ずに戻ってくるのに」

 弘紀に不満の理由を聞いてみるとそんな答えが返ってきた。

「弘紀も少しは祭りの様子を見てくればいい」

 修之輔のその言葉にも弘紀は首を横に強く振る。

「すぐに修之輔様の側に戻ってきますから」

 言い張る語調と目の強さは、弘紀の意志の強さと言えば聞こえはいいが頑固さでもある。

 修之輔が圧されてわかった、というと満足したらしく、今度は書いた札を早く寄越せとでも言うように、修之輔の横にぴったりとついて座る。やる気に溢れているのは分かるのだが。


 修之輔は筆を置いた。

「新しく札を書くより、先に乾かす作業をしよう」

 祭り見物の機会を得てやけに足取りの軽い従者が境内に再び姿を現す前に、二人掛かりで乾ききっていない札に反古を押し当て水分を吸い取り、何とか三束ほど纏めることができた。


 弘紀がその札の束を胸元にしっかりと握り、従者を従えて表参道を下って行く姿を見送って、拝殿の中に戻る前、修之輔は一度大きく体を伸ばした。

 毎年こんなにせわしなかっただろうか。再び机の前に座り、弘紀が戻ってくるまで、あとは書けるだけ書いておこうと筆を執った。


 山肌に沁みた雨の水は昨日一昨日で流れきったようで、手水に溢れる水の他、聞こえてくるのは日に日に小さくなる蝉の声と風にそよぐ葉の音ばかり。

 山の音よりも今日は神社本宮だけでなく街全体が浮き立っている気配が勝って、吹き抜ける風に街のざわめきが微かに混じるのも気のせいではないだろう。

 これまでの数年、気にも留めなかった城下の気配に今年は幾度も注意が向くのはどうしてかと、修之輔は手を止めて、自分の他、誰もいない拝殿の中を見渡した。 

 そろそろ弘紀は本宮の誰かに札を渡して祭りの様子を見ている頃ではないかと考え、もしかしたら気にしているのは外の気配と言うより、弘紀のことかもしれないと今更のように思った。


 不意に境内を小走りに、拝殿に向かってくる音が聞こえてきた。その足音は聞きなれた弘紀のものではない。

「あの、失礼いたします」

 そう拝殿の階段から声を掛けてきたのは、先日ここを訪れた商家で下働きをしているという女だった。息を切らせている。

「何か」

「今、こちらへ参ります時に、表の参道の入り口に御老人が倒れておりまして、怪我をされているようでございます。女手一つでございますので手当はできても運ぶこともできず、辺りを見回しても通る人影もございません。どうかお助けいただけないでしょうか」

 女の手には老人の手当てに使ったのか、血の滲んだ手拭が握られている。

 街の者が参拝の途中、悪路に足を取られ転んでしまったのだろうか。修之輔は分かったと答えて立ち上がった。

 白木の仮鞘のまま刀を差し、少し逡巡したが拝殿の入り口に鍵をかけた。修之輔の様子をうかがっていたらしい女が、早く、と急かす。 

 急かされたところで修之輔の足は女より早く、先に行っているから慌てずに来ればよいと声を掛け、一人、参道の石畳を足早に下りた。

 石畳とはいえ古く痛んだ箇所があちらこちらに、気をつけないと凹んだくぼみに足を取られる。

 弘紀はここを走れるのかと感心しつつ、倒れているという老人をどう処遇するかと考えながら足を進めていて、ふと、参道の脇の草むらに何か気配を感じて足を止めたが、周囲を見回すわずかな間に微か草葉を踏むような音がしてその気配は消え失せた。

 

 鹿か貉か、叢からこちらを窺うのは山に住む動物くらいなものと、そう看做して再び参道を降り始めて、叢を上ってきた弘紀の姿を思い出した。林内を駆けて、藪をくぐる俊敏さがあるなら、古いだけの石畳を駆けのぼることも容易いかと、山の獣と弘紀の姿を重ねて妙に納得する。

 石の狭間に足を取られることもなく、修之輔が参道の入り口についてみれば、女の言っていた老人の姿はどこにもなかった。 

 参道の先、崩れかけている石鳥居をくぐり坂道の半ばまで出て周囲を見回しても老人はおろか人の影は全く見えない。どういうことかと遅れて降りてくるであろう女を待ったが、なかなかその姿が現れない。そしてその女の身の上、城下の町人とはいえ、最近この黒河藩に来たばかりという言葉を思い出し、殆どよそ者の言葉を鵜呑みにした不用心さに思い至って、なにかおかしいと、ようやく気付いた。


 直後、奥宮の方で金属が鳴る音が聞こえた。武骨な鉄の塊がぶつかり合う、割れるような音。何か大声で叫ぶ、あのよく通る声は。


「弘紀」


 これまでに感じたことの無い、胸の内のみならず身も焼けるような焦燥感。何か考える前に足は参道を駆け上っていた。途中、降りてきているはずの女の姿もなく、 今、自分の刀を納めているのが長覆輪の鞘でないことも煽られる不安に拍車をかける。

 全力で参道を駆け上った勢いそのまま、境内に戻ってみれば鍵を閉めたはずの拝殿の戸が開いていて、その脇に女の姿がある。こちらを見ながら拝殿の内部に声を掛けたところをみると、老人が云々は嘘で、修之輔をこの奥宮から遠ざけて仲間を引き入れる謀であったらしい。 

 階段を駆け上がった勢いで女の体を押しやると、中では職人の風体の男が長覆輪の鞘を片手に、もう片方の手に持った鏡を振り上げて弘紀を殴ろうとしていて、弘紀はそうはさせまいとその腕に爪を立ててしがみつき男の体を蹴飛ばそうとして双方揉み合いになっているところだった。

 修之輔は走り込んだ勢いそのまま、男の脇腹を蹴り飛ばし、肩で弘紀の体を男とは反対側に押しやった。勢い余って後方に倒れこんだ弘紀が、素早く身を起こして男が取り落とした長覆輪の鞘を拾い上げ、修之輔に低く投げてよこした。


 荒事に慣れているらしい男も俊敏に立ち上がり直ぐに抜身の匕首を構える。

「おっと太刀には手を掛けるなよ。それを抜くより前に俺はあんたのその首、掻き切ってやろう」

 そう刃先を向けて牽制する男の様子を窺いながら、修之輔は弘紀を背にかばう。

 本当なら外に逃したいが、扉の外であの女が見張っている。先日の弘紀の様子を思い返せば、弘紀一人で外に出して身が竦んだところを人質に取られる事態も想定でき、ここでその身を守るしかなかった。


 ただ、今この手には弘紀が取り戻してくれた長覆輪の鞘が握られている。


 状況を把握するために素早く周囲に視線を走らせると、開いた扉の外、ここを出るときに掛けた筈の鍵が回廊に落ちているのが見えた。

 修之輔は男に問うた。

「もしやお前はこのところ、城下の家屋の鍵を開けまわっているという、あの仕業の張本人か」

 横目で見る拝殿の鍵は、破壊された形跡はなく、自然に開けられたもののように見える。鞘は持っても腰の刀に手を掛けない修之輔の様子に、男は脅しが効いていると踏んだらしい、ふられた話に乗ってきた。

「ああそうだ。短期間で有名になったものだろう。俺の腕は一流だ」

「なんのために」 

 男の注意、攻撃の意思を弘紀から逸らせるために、修之輔は男との会話を続けながら隙を狙う。

「そりゃあ、御本尊、こちらの神社のご神体を頂くためさ。疑念を街に集めて目晦ましにすれば神社の警備も手薄になるだろう。こちらの計画に手抜かりはなかったんだ。しかしなんだって本宮のご神体は石なんだ。目論見が狂ったわ」

「ご神体を盗むつもりだったのか」

「今はいろんなところで鉄が売れるからな。しかもただの鉄ではなく由緒ある物が高値で売れる。神社の宝剣なんてどれほどの値が付くか。なのに石の剣とは、どう鍛えても叩いても太刀にはならねえ」

「その時点でなぜ諦めなかった」

「もう手付金を貰ってんだ。手ぶらで帰ったらこっちの身が危ねえや。なんでもいいから金属の、金目でできたそれらしい物を手土産にしねえとな」

 これなんか手頃だろう、そういって男は鏡を抱え直した。鉄を磨いた鏡は確かに、だが錆びだらけの鈴は最初から眼中にないようだった。

「黙って逃がしてくれれば手荒な事はするつもりはねえ。そっちが手にしているのはどうもみすぼらしい刀の鞘ばかり、妙な気を起こすなよ、色男のお武家さん。荒事に慣れているようには見えねえな。怪我をしたくなかったらおとなしく、そこの御稚児さんも抑えておけ」

 

 動くな、と匕首の刃先をちらつかせて男は次第に拝殿の戸口に近付く。修之輔は前に出たがる弘紀を後ろに下がれと押し返し、栗形に指がかかるよう長覆輪の鞘の端を握った。

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