第3話

 表参道から帰る礼次郎を見送って、手水でトンボに齧られた指を冷やしてから弘紀が拝殿の中に戻ってきた。そして、今度は甲虫かぶとむしでも探します、と言う。

「甲虫だって噛むだろう」

 そう言った修之輔の言葉には、

「カミキリよりはましです」

 と返ってきた。日々、いろいろと捕まえているらしい。


「昨晩の礼次郎の笛はどうだった」

 中断していた札を書く作業を再開しながら、今度は弘紀に聞いてみた。

「上手かったですよ。大人に交じって、堂々と演奏していました」

「昨夜は藩主もみえられたようだが」

「はい、それで急遽、本宮の境内に桟敷が作られました。始まるのがその分遅くなったのですが」

「弘紀は席を取れたのか。どのあたりの席で見たいとか、礼次郎と相談していただろう」

 弘紀の返事に少し、間があった。筆を持つ手元から目を上げるとこちらを見ていたらしい弘紀が慌てたように一度、視線を外した。

「桟敷が武家用と町人用に分けられたので、自分も見やすい武家用の席に通してもらうことができました」

「それは良かったな」

「それがそうでもなくて、神楽は見えたのですが、他の重臣の方々が脇の方に座られたので、礼次郎の姿が隠れてしまいほとんど見えなかったのです」

 でも笛の音が聞こえれば良いのです、という弘紀の言葉に、それで良いのかと思いはしたが、弘紀と礼次郎の関係を思えばいつも通りの感想なのだろう。

 書き上がった札を弘紀に渡すと、昨日の作業そのまま、乾かせる場所を探し始めた。


 何枚か札を書き終え、弘紀に渡し、その作業を繰り返しているうち、弘紀は一通り何でもできると言っていた先ほどの礼次郎の言葉を思い出した。

 試しにと軽い気持ちで弘紀を近くに呼び寄せて、これを書いてみるかと訊いてみた。

「書いてみてもいいのですか」

 弘紀は好奇心に溢れる表情でこちらを見上げてきた。

 難しい字ではないが、本宮から見本に渡されている札の字は、癖が強くて慣れないと書きづらい。

 まずは墨を摺って手習いにいくつか文字を書かせてみた。すると弘紀の筆を持つ姿勢や筆を運ぶ手の動きは見て分かるほど端正で、修練の様子が窺えた。

 そうなると、わざと癖の強い独特の字で書かれている神社札の文字はかえって書きづらいのではないだろうか。

 そう思いながら、今度は白い札に慎重に墨を置く弘紀の手元を見ていると、佐宮司神社の佐の字の人偏はともかく、つくりの左で払いの入り方に戸惑って、その前の留めが上向きに大きく跳ねてしまった。


「失敗してしまいました」

 そういって手を止める弘紀に、せっかくだから最後まで書いて見ろ、と、背中から手を回して弘紀が筆をもつ手に自分の手を重ねた。

「一度一緒に書いてみよう。癖がわかれば次は書けるだろう」

 修之輔はそう言って、剣術の訓練と同じ要領、何の気なしに弘紀に重ねた手を握ったが、その自分の腕の中から見上げてくる弘紀の顔が思ったよりも近いのに、一瞬、心が跳ねた。

 そういえば昨日も同じように弘紀に触れた。でも昨日と今日は状況が違うと、これは何の言い訳か。突然襲われた何故か自ら抑制できない混乱に修之輔は戸惑った。

 そうして気づくのは弘紀の首筋から漂う匂い。


 弘紀はいつも良い匂いがする。

 髪か首筋か、着物に焚かれた香の匂いもあるだろうが、もう少し素朴な野の花の香りにも似て、気付く度にその匂いに引き寄せられる心持ちがする。道場で稽古しているときもふとした折に、弘紀の姿を見るよりもその匂いで側にいるのに気づくことが多い。かといって礼次郎を含めた弘紀の同輩の者達は特に気付いていなそうで、それは修之輔にしか分からない些細なものなのかもしれなかった。

 

 今も。

 収まらない混乱を心の内に抑え込んでも、弘紀の首元から漂うその匂いは修之輔を誘う。

 弘紀の手跡を覗き込む修之輔の顎が弘紀の髪に触れると、弘紀が小さく体を震わせた。取り落されそうになった筆を弘紀の指の上から捕まえる。

「弘紀、しっかり持て」

「修之輔様、あの」 

 今おそらく、修之輔がほんの少し下を向けば、その唇が弘紀の頬に触れる。あるいは弘紀が修之輔をふり仰げばその唇は修之輔の首筋に。

 

 どうして、なぜ、今このようなことを考えるのだろう。神社の札を書いていただけのはず。

 

 戸惑いは衝動をより明確にする。

 もう少し、触れてみたい。触れてほしい。何気ない仕草がもたらす偶然ではなく。その意志をもって。その指で。 

 修之輔の胸に触れる弘紀の肩から力が抜けて、寄り掛かるように上体を預けてくるのが、感じる重さでそうと知れた。弘紀の上腕を軽く掴む左手をそのまま自分の体に引き寄せて。二人の右手に握られた筆は硯に置かれて、二人分の鼓動が重なって。

 呼吸が浅く早くなる。昨日、弘紀の気持ちを落ち着かせるためにしたのと似た仕草、なのに今日は何故こんなに。

 夏物の薄い生地から感じられる互いの体温。目眩に襲われるようなその心持ち。


 かたん、と外で何か音がした。

 修之輔と弘紀、双方に一瞬間があった。

 

 弘紀が動く前に修之輔は立ち上がり、外の様子を見に拝殿の回廊に出た。

 参拝客だろうか、祭りのついでに足を延ばしてあまりの人気のなさにそのまま去ったのか、回廊から見渡す境内に人影はなかった。そういえば、昨日の女がまた来るとは言っていなかっただろうか。

 奥宮の境内は一目で見渡せるほどの広さしかなく、状況を確認するのに時間はかからない。それでも修之輔は一呼吸置き、あたりの鳥の声、清水の零れる音に意識を向けてから拝殿の中に戻った。

 弘紀は先ほどの姿勢そのままで、座っているその場から修之輔を見上げてくる。修之輔と目線を合わせて筆を持つその手を心持ち持ち上げるのは、続きを催促しているのだろう。


 先ほどまで漂った隠微な緊張はすでに双方に跡かたもなく、安心したような、けれどどこか残念な気持ちに気付かぬふりをするのはただの強がりの様な。


 修之輔は先ほどのように弘紀の背に回って膝立ちで、筆を持つ弘紀の手に自分の手を重ねた。弘紀が筆跡を間違えそうになると手を止めさせて正しい方へ、間違わなければ手の進むそのままに、やがて札が一枚、書き上がった。

「初めてにしては上手く書けたな。どうする、持って帰るか」

「修之輔様が一緒に書いてくださったからでしょう。持って帰って良いのでしたら是非」

 弘紀は自分が今書いたばかりの札を乾かすため、空いている場所を探し始めた。その姿を目で追いながら、湿度の高いこの時候、乾くまでに時間がかかるから弘紀が持って帰るのは明日になりそうだ、と修之輔は考え、考えているその間、自分がずっと弘紀の姿を目で追っていたことに気付いて、弘紀がこちらを振り向く一瞬前、何故か慌てて視線を逸らした。

 

 墨を摺って字を書いて、弘紀がそれを床に並べて。

 その後続けられた、もうだいぶ慣れた作業の間、気付けば互いが互いの様子を見るともなしに眺めていて、何回か目が合っても互いに何も言わず、けれど気まずさは感じなかった。何かにそっと触れられるようなくすぐったさ。触れられているのは指でも肩でもない、自分のどこか。

 

 日が傾き始めると、山の中の奥宮はすぐに暗くなる。手元が見づらくなって今日の作業はここまで、と道具を仕舞い、本多の屋敷から迎えが来るまで、二人並んで回廊に腰掛けた。

 谷を渡って境内に響くひぐらしの声に耳を傾けていると、木々の葉を透かして落ちる夕方の日が弘紀の小袖と自分が着ている白色の装束、それぞれの袂のところどころを花弁のような橙色に染めた。体のどこも触れていないのに、横に座る弘紀の体温が伝わってくる不思議な感覚が心地良い。

 表参道から見覚えのある従者が姿を見せると、弘紀は立ち上がって足音軽く階段を降り、また明日も来ます、と段の下から修之輔を見上げて言った。

 弘紀の瞳は夕日を琥珀色に映していて穏やかに光る。修之輔はその色を間近で確かめたい衝動を抑え、弘紀の後ろ姿を見送った。

 

 暖かな琥珀色と絹絽越しの弘紀の体温。その記憶は修之輔の心を穏やかに慰めて、前日の夜とは全く異なる穏やかな眠りを、その晩の修之輔にもたらした。

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