第2話
「あ、礼次郎がやっと来た」
と言うわりに、弘紀は修之輔の膝の間から立とうとしない。もう塵は粗方とり終わったぞ、と修之輔がその背中を軽く、とん、と押すと、振り返って、ありがとうございます、といつもの華やかな笑顔を見せて立ち上がった。
奥宮はこうなっているのか、と、礼次郎が辺りを物珍しげに見回しながら言っているのが聞こえた。
弘紀はともかく、黒河にずっと住んでいる礼次郎もここには来たことがなかったらしい。弘紀が呆れたような口調で礼次郎に確かめる。
「礼次郎はほんとうにここに来たことがなかったのか」
「ああ、幼いころから家の者にこの辺りには近づくなと言われてきたから。他の家の者も子どもにはそう言い聞かせている筈だ」
奥宮の辺りに近づくなと田崎が弘紀に言ったことは、黒河の多くの家で言われていることらしい。街の氏子はそれでも時々訪れているようなので武家の習わしなのだろうか。しかし修之輔は聞いたことがなかった。
確かに神主が常駐していない神社は、境内も木の影、拝殿の影など目の行き届かない場所もあって、子どもだけで遊ばせるには不向きなのかもしれない。
整備されている坂道と、まがりなりにも表と付いている参道を登ってきた礼次郎は手足の泥を落とす必要はない。そのまま弘紀に案内されて拝殿の中にやってきた。
失礼いたします、と中を覗いて、質素な祭壇とほとんど札の作成所となっている内側に疑問を感じたのかどうか、その顔色からは窺いしれない。
こういうものだと思っているのかもしれない。
午前中、街の方を見てきたと聞いたが、と、弘紀と並んで拝殿の床に腰を下ろした礼次郎に話を向けてみた。
「はい、今日は本宮で藩主様ご臨席の儀式があるということで警備が大変そうでした。私の兄も今日は警備についています」
仕官している者はその役職に関わらず駆り出されているようだ。そうなると、祭りを気軽に見物できるのは、弘紀や礼次郎のような、仕官しておらず、自分で出歩けるほどの年齢の者だけだろう。
その年代の者は今、黒河藩にあまり多くないし、家の者の目が行き届かない祭礼の間は外出を禁じられている者もいる筈で、そう思えばこの二人、特に弘紀のように振る舞えるものはほとんどいない現状に改めて思い至る。
「弘紀は昨日、今日と、日に何度もあの簪を見に行くのです。そんなに気になるなら田崎殿に頼んで買って貰えばいいと思うのですが」
礼次郎は特に何の感情も含まない淡々とした口調で午前の弘紀の様子を報告する。さっき弘紀は出店に欲しいものがない、と言っていたが、正確にはあの簪以外は目に入らなくなっているということなのかもしれない。よほど気に入ったのか。
「弘紀がそこまで欲しいのなら田崎殿も分かってくれるのではないか。あるいは本多のうちのものに頼んでみたらどうだ」
修之輔が聞いてみると、そういうのとは違うのです、と、弘紀には珍しく、どこか言いづらそうに言葉を選んで答えた。
「誰かに頼んで、というのではなく、私が自分で手に入れたいと思ったのです」
心から綺麗だと感じて、それを手に入れたいと強く思った、こういう気持ちは初めてです、と。
「どういったらいいのか分からないけれど、何かを、好ましいと思う気持ちと、手元に置きたい、自分だけのものにしたいと思う気持ちは、別のものだと思っていましたが」
ひとり言のように立ち消える呟きに、心なしか頬の赤い弘紀の横顔を眺めて、可愛らしいような、どこか心が疼くような。
なぜかふと今、弘紀の肩を引き寄せて、逃げ出せぬよう腕の中に閉じ込めて、その顎を捉えて目を合わせ、それほどあの簪が気に入ったのかと問うて答えを強いてみたい、そんな思いが胸をよぎった。
と、外にいるから、と言い置いて、ふいに弘紀が立ち上がり、拝殿を出て行った。気まぐれな弘紀の行動に取り残された礼次郎が、けれど慣れているのだろう、特に声を掛けるでもなくそのまま見送る。
その礼次郎の手には先ほどから錦の布でできた細長い包みが握られていて、聞いてみると新しく買って貰った笛だと言う。
「昨夜、藩主様御前での演奏が上手くいったので、ご祝儀に与ったのです。それで屋台で見て気になっていた笛を家人に買って貰いました」
一昨日の夜、屋台で目をつけていたというから、あの時のかと修之輔は思い出す。
「それほど良いものだったのか」
「質自体はさほどの物ではありませんが、黒河に入ってくる品は限られています。こういう時でないと目新しいもの、珍しいものは手に入らないので良い機会です」
黒河藩が他藩からの商い品にかける関税や手続きは売主の負担で、結果、一度商いの許可が出たらそればかりしか藩の中に入ってこないという。
「もう少し融通がきいてくれたら良いのですが。楽器は江戸の物だけでなく、加賀や仙台、もちろん京の都にも良い作り手はたくさんあるのです」
礼次郎は笛のことになると雄弁になり、己のこだわりを語りだす。武芸よりもこちらの方が性に合っているらしい。
「しかし礼次郎が笛を吹くとは知らなかった。始めてから長いのか」
修之輔がそう聞くと、はい、と礼次郎が頷いた。
「幼いうちから訓練をしてきました。うちは長兄が後を継ぐので、次男の私は何でもいいから芸事、技能を身につけて自分で身を立てる術を得させようとの母の心遣いです」
この時勢、家を継ぐ長兄以外の次男三男は長じて家に居場所がなく、禄の少ない家などはそれが家計を圧迫することが珍しくない。部屋住みなどと陰口を言われるくらいなら、と、すこし鈍いところのある礼次郎の行く末を母親が慮って幼いうちからあれやこれやと世話を焼いたが、礼次郎が自ら興味を示したのは算術と笛の二つだったということだ。
「そういえば弘紀も笛を吹けます」
何かの折に礼次郎が笛を吹くことを聞いた弘紀が、自分も吹けるがそこまで上手くない、教えろと、笛を習いに礼次郎の家まで押しかけて、礼次郎の家人にいい加減にしろと怒られるまで練習をしたことがあったという。
おそらくこの二人、特に弘紀のことであるから、途中から練習ではなく面白半分に音を出すだけの騒ぎになったのだろう。
「弘紀の笛はなかなかのものです」
「そうなのか」
「笛以外も、歌舞音曲一通りできるようです。弓も馬もできるようですが、剣がいちばん楽しそうですね」
弘紀の舞う姿は見てみたいと思った。扇を手にしても烏帽子を置いてもその姿は良く似合うだろう。演目は、そう、昨夜礼次郎が伴奏したという佐宮司神社に伝わる神楽でも。
「礼次郎、今日はその笛、吹かなくて良いのか」
「今日は神楽が無いので。でも家の者と約束があって、そろそろ出なければならない時刻です」
そういって外をちらりと見やる辺り、礼次郎は彼なりに弘紀を気に掛けているようだ。
「礼次郎、トンボを捕まえた。大きい」
外から弘紀が礼次郎を呼んだ。蝶は昨日のうちに、今日はトンボを捕まえたようだ。この辺りにいるトンボは大きく、その分動きが早い。弘紀はどうやって捕まえたのだろうか。礼次郎が修之輔に一礼して立ち上がった。
「逃がす前に見せろ」
拝殿から出てすぐ、礼次郎が発した言葉が終わらないうちに、痛い、という弘紀の悲鳴が聞こえた。トンボに指を齧られたらしい。あ、まだ見てないのに、と云う礼次郎の声からすると、トンボは弘紀の手から逃げたようだ。
弘紀が悔しがって逃がしたトンボを探し回る気配があって、しばらく礼次郎もそれに付き合ったらしい。だが適当に切り上げてきた礼次郎が拝殿の階段を上がって中には入らず、そこで膝を着いて一礼した。
「うちに戻りますので、本日はこれで失礼します」
弘紀は、もう帰るのか、と、惜しむ気配皆無の口調で云って、それでも礼次郎を参道の入り口まで送っていった。
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