第3章 祭礼の札

第1話

 これまでに過ごした幾つかの夜と同じように、案の定、その晩は自身の混乱に捉われて眠ることを諦めざるをえなかった。どうせ寝付けないのならと、修之輔は道場で竹刀を手に、一人で稽古をし続けた。

 体を動かした分の疲れで座ったまま、道場の壁に背を凭せて微睡はしたものの、日が昇る前から鳴き始めた鳥の声に急かされるように立ち上がり、道場裏の山道を通って奥宮に向かった。

 

 境内は昨日のまま、これといって変わったことはなく、そこかしこで囀る鳴禽の鳴き声は蝉の声に勝って朝の空気に響く。

 風も未だ動かぬ早朝の空気にあっても山肌から染み出る水の音は昨日より微かに小さくなっており、拝殿の鍵を解いて戸を開けると、祭壇の上、鏡に反射した朝陽が床に落ちた。祀る神も依り代もないこの空っぽの拝殿で、なにが無礼かという実感もなく、入口の戸に身を凭せ掛けて目を閉じると、緑深いこの奥宮の境内では何か匿われ守られている心地がして、知らず眠りに誘われた。

 

 そして、夜の間締めきっていた拝殿には、少しだけ、弘紀の気配が残っている気がした。


 手水の水で水浴びをしていた鳥が飛び立つ音に気づき、短時間だが思いがけない深い眠りから覚めてみれば、いつよりむしろ心地よい目覚めの感覚すらあった。

 修之輔は脇に置いたままだった長覆輪から太刀を抜き、昨日と同じように鞘は祭壇に、太刀は仮鞘に納めた。

 

 昨日書いた札の墨は乾いていたので束ねてまとめ、新しくまだ白い紙の束を手に取り、札を書く作業を今日も始める。

 特に休むことなく無心に書いていると思ったより早く昼になり、本宮から来た氏子が書きあがった札と引き換えに、昼食代わりの握り飯と新しい白い紙を置いて行った。その氏子と短く交わした会話の中で、今年はこの札の売れ行きが良いということを聞いたが、その分こちらの書く手を早めろとあの神主に強いられている気がした。いったい幾らで売っているのだろう、実はそんなことも修之輔は知らなかった。


「お勤め、ご苦労様です」

 

 休憩ついでに境内で体を伸ばしていると、ようやく弘紀がやって来た。

 昨日覚えたばかりの挨拶を寄越すその様子はいつも通りのように見え、といいたいところだが、昨日の朝の草まみれよりひどい恰好をしている。拝殿の後ろからやってきたところを見るとまた昨日の道を使ったようだ。

 

 今日は礼次郎も一緒で、午前中は二人で街の様子を見てきたのだというが、一緒という割に今、礼次郎の姿が見えないのは、弘紀が道場の裏側から、礼次郎が街から武家屋敷に向かういつもの坂道を登ってきているかららしい。

「あの坂道を上がって来るのに比べてどのくらい近道なのか知りたかったので、礼次郎に競争しようといったのですが、あいつ分かっているのかな」

 どうやらいつものようにやる気なのは弘紀だけで、礼次郎は歩いて登ってきているのに違いない。 


「弘紀、道場は閉めてきたはずだが、どうやってあの道を来たんだ」

 あの道の入り口は道場の敷地内で、そこに至るには昨夜から閉めたままの道場の門をくぐる必要がある。

 開け放しにはしてない筈なので疑問に思い聞いてみたところ、道場の裏手に回っておそらくこのあたりと見当をつけて無理やり山肌の藪を上りはじめたら、思ったより容易く昨日修之輔と登った道にたどり着いたと言う。

「小さな道がありましたよ」

 そう弘紀は事も無げに言ったが、それは山の狸が里に通うための獣道ではないだろうか。狸と違い毛皮を持たぬ弘紀の袴の足元は、草の露に濡れてそこかしこに草の実がついている。しかも獣道を通ってきただけでなく、蛇行する登り道が途中でめんどうくさくなり、昨日は最後の折り返しだけだったが、今日はつづら折りのほとんどを直線に、叢の中を上ってきたという。


「背中の塵を取ってやるから、まず足を洗ってこい」

 修之輔がそう言うと、弘紀が何か言いたそうにこっちを見上げてくる。

「今日は自分で洗え。また擽られたくないだろう」

 少し首を傾げてから、はい、と頷いて、弘紀が手水の船石に向かった。

 

 弘紀が手足の汚れを流している間、修之輔は拝殿の階段を上がり最上段、回廊に腰掛けて待った。気温はさほど高くないとはいえ日差しは強く、ずっと日向にいるよりは日陰にいた方が心地良い。

 

 手足の汚れを洗い終えて拝殿の階段を上ってきた弘紀が、修之輔の膝の間に体を割り込ませてから一段低い段に腰掛けて、お願いします、と見上げてきた。


「そこに座るのか」

「はい」

 修之輔の膝の間、まるでそこに座るのが当然のような返事をよこす弘紀の、その頭は修之輔の腹のあたり。弘紀は自分の手が届く範囲で袴や袖に付いた木の葉を取り始めている。隣に座ると思っていたのだが、確かにこの位置の方が取りやすいかもしれない。弘紀の温かな体が自分の膝の間を動くのをくすぐったく感じながら、まずはその肩のあたりから木の葉の欠片を取り始めた。

 

 弘紀の着ている着物は、薄水の地に鉄線が染め抜かれた絹絽の小袖に、同じく絽の生地の灰の袴。どうみてもこのように荒く扱われることを想定しているとは思えない繊細な生地で、だがその織り目の粗さがかえって生地を傷めずに済んでいるのかも知れない。小枝、蜘蛛の巣などをその背から取ってやりながら、ふと気づいたことを聞いてみた。 

「そういえば弘紀、あの鈴はどうした。田崎殿から貰った小遣いの袋に付けるのだったろう」

「特に小遣いをもらう必要がないので、うちに置いてあります」

 一度、すべての出店を見て回ったらそれほど欲しいと思うものもなく、なので小遣いもいらなくて結局、あの鈴は音色を楽しむために手元に置くことにしたらしい。

 鈴一つにしては良い値段がしたから田崎が見せろと言ってきて、見せたら純正の銀でできたなかなかの品物と褒められたという。


 そもそも弘紀ほどの年の者が自分で小銭を持って物を買いに行くというのは珍しい。祭りの屋台は小銭のやり取りが主体なので当然と言えばそうなのだが、買い物と言えば大体、その家の従者が金銭を持って従うか、金銭の直接のやりとりを伴わない掛け売りが普通である。

 

 貨幣の価値というのは、まずそれに触れて、使ってみて、貨幣と交換した物の価値を充分に検討することで実感される面がある、とは料理屋の娘を妻に持つ師範の言葉だったか。

 民の間での物のやり取り、金銭の流れなど、商いに通じる経験がないと、藩民、特に商いを行う商人たちを納得させることのできる財政運営の勘は身に着かず、施政者の独りよがりの施策になるのだとも師範は言っていたが、忖度なく藩政批判ともとれる発言をする師範の身の上を少々心配しないでもなかった。

 師範の言葉を思い出し、そして師範代として道場で年少者を指導している身としては、田崎が意図的に弘紀に何らかの教育を施していることが察せられた。だが、弘紀本人はそれに気付いているのだろうか。

 弘紀が使う言葉に気をつけてみれば、それは書を読むことを苦にしない者の言動であることが伺われる。

 書物による座学だけでなく、実際の経験を積ませる実学の教育も施されている弘紀は、おそらく将来が嘱望されている身の上であるのだろう。


 だがそれにしては今、修之輔の目の前の弘紀の背中は草木の実、ところどころに光る蜘蛛の巣など、どうも元気過ぎる気がする。それも昨日の不穏な様子を見ていれば、元気過ぎる方が素直に弘紀らしいとも思えた。 

 いろいろと弘紀の身の上に思い巡らす修之輔の様子に、当の弘紀は我関せず、単純に修之輔の手で世話をして貰うのを喜んでいるようで機嫌がいい。

 

 自分がしているのはどこか動物の毛づくろいに似ているような、と、修之輔が思い始めた頃、ようやく礼次郎が表参道から境内へ姿を見せた。

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