第4話
修之輔はそっと弘紀の手首から自分の手を離した。そうして体も離す前、外を走っても流れなかった汗が弘紀の首を一筋、伝っているのが見えた。
その汗を自らの袖で拭い、弘紀が大きく息を吸って、吐く。
「見苦しところをお見せして申し訳ございません」
言葉は日頃よりはやや弱く感じても、しっかりした口調だった。
「何も謝ることはない」
風通しのよい所で少し、休んでいろと言ったが、大丈夫だから、とまた、札を床に並べ始めた。何か作業をしていれば気が紛れるということもあり、したいようにさせておくのがよいだろうと判断した上で、弘紀に気付かれないよう、その様子に注意しながら、札を書く速さを落とした。
太刀を持ち歩くことへの抵抗、商人の女に対する強い拒絶。その二つは弘紀の中で根を同じくするものなのだろうか、それとも別のものなのか。気に掛かりはしたが、ただの好奇心で詮索することではなく、いずれ必要があれば弘紀の意志の下で明かされるべきことだろう。余人がそれを強いるべきではない。それは修之輔が自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
単純で、それでもそこそこ集中を必要とするこの作業を続けているうちに、次第に弘紀の緊張していた心身が解れてきたようだ。しばらくして手が空いた弘紀が修之輔の手元を窺いながら尋ねてきた。
「修之輔様はいつからこの札を書くお仕事をされているのですか」
「道場の師範代になった時、いくつかの仕事と一緒に引き受けることになった」
最初は祭礼中の本宮で参拝者の求めに応じてその場で書いていたのだが、そのうち驚くほど綺麗な若い神官がいると評判になり、修之輔の姿を見るための見物客がやってくるようになった。
神主は千客万来などと喜んだが、見世物になることを修之輔が嫌がり、師範の強い口添えもあって人の来ない奥宮で札を書くことになったという経緯を話した。
「多くの人たちが見たがった修之輔様のその姿を、今、私はひとりじめしているのですね」
弘紀は、ふんふんと頷きながらそんなことを言って、こちらを見上げてくる。先ほどの様子が嘘のようにいつも通りだ。
弘紀の性格ならば、たとえ自分に多くの衆目が集まっても、愛想よく手を振るか、さもなくば壇上から鷹揚に眺めて楽しむか、いずれの余裕もありそうだ。
そんなことを思いながら修之輔が見つめ返す弘紀の顔は、まっすぐ伸びた眉の下、黒曜の瞳に戻った光は長い睫毛にも減じず、軽く開いた形良い唇は、先ほど固く噛み締められていたせいか常より紅い。
いつもはその表情の華やかさや活気が前面に出るので、間近に見なければ弘紀の顔立ちの本当の美しさは気付かれないことが多い。
最初、弘紀の立ち居振る舞いや話す言葉に関心を持った者は、近づいて話すうち、弘紀の端正な容貌に気付き、天は二物だけでなく持てる者には持てるだけ与えるのかと感心する。
弘紀の顔立ちの美しさは本人の気性の華やかさの表れの一つでしかなく、容貌だけを取り上げて本人の意思などお構いなしに賞玩する視線に強い嫌悪を感じる修之輔とは、人の成り立ちから根本が違っている。
少し首をかしげてこちらを見上げてくる弘紀の様子から復調を見て取って、修之輔は札を書く手を前の速さに戻した。
「休んでないで書き上がった札を乾かせ」
そう言うと、弘紀は慌てて立ち上がり、札を並べる作業に戻った。
弘紀曰く、本人が約束したという夕方にはまだ早い刻限、本多家の使いが弘紀を呼びに来た。弘紀は拝殿から少し離れたところでその本多の使いと話し込み始めた。なにか予定外のことがあったらしい。しばらくして、使者をその場に待たせた弘紀が小走りに拝殿に戻ってきた
「これから一度、本多の屋敷に戻らなければならなくなりました」
その様子はいつもの弘紀の様子と変わるところはなかったが、おそらく案じる気持ちが顔に出てしまったのだろう、もう平気です、と修之輔が何か言う前に弘紀にそう言われてしまった。
「今日はこれで失礼いたしますが、修之輔様、明日も来て良いですか」
そう尋ねてくる弘紀の眼の端、口元に浮かぶ微笑は、修之輔の心配を宥めるための表情で、それに気づけば、分かった、と答える他はなかった。
拝殿を出た弘紀が鳥居の下で一度こちらに向い頭を下げ、表参道を従者とともに下っていく。その姿を修之輔は回廊に立って見送った。
弘紀がいなくなって静かになった奥宮の境内は、急に温度も下がり始めたように感じられた。
笛の音が聞こえてきたのは山の影に日が隠れて、吹く風にまぎれなく冷気が混じるようになった頃で、筆を持つ手元もだいぶ暗くなってきた時分だった。
灯りを灯してまで続ける必要もないので道具を片付け、祭壇から取り上げた長覆輪の鞘に太刀を収め直し、帰り支度をした。
朱印のない札はまだ紙切に過ぎず、特に貴重なものも値の張るものもこの奥宮にはなかったが、大膳の話が気にかかった。持たされていた鍵で拝殿の戸に鍵を掛ける。
この暗さでは朝に登ってきたあの近道を使うのはさすがに危ないので、表の参道から城下町に続く坂道を下りて道場の前まで戻ると、神楽はもう始まっているのか、夜目にも本宮の境内に焚かれている篝火が赤く見えた。
弘紀は大丈夫だろうか、気にかかっているそのことを確かめたいだけだと、道場の戻る前に足を延ばして橋を渡った。
本宮の近くまで来てから、道行く人々の動きがどことなく慌ただしいのに気づき、何かあったのかと辺りの会話に耳をそばだてると、珍しいことに藩主や藩の重臣何名かが神楽を見に来ているという。
二日目の本宮での儀式に藩主は毎年参列しているものの、その前日に本宮に足を向けることはほとんどなかったことだ。この突然の行幸は、祭りの警備を担当している大膳の気苦労を増やしている事だろう。
修之輔は本宮に向かう足を止めて、道場へ戻ることにした。
重臣本多家の係累であるという弘紀が予定より早く呼び戻されたのは、おそらくこの藩主の動向が関係しているのだろう。
藩主が出てくるような場では田崎が弘紀に従っている筈で、田崎がいるのなら大丈夫だと言い訳して、藩の上級武士が揃うであろう場所を避ける自分に苛立ちを感じた。
弘紀の混乱に思わず共鳴してしまった自身の心の奥が、自分の行動をひどく臆病なものにしていると、苦い思いに奥歯を噛み締めた。
宵闇に流れる笛の音、鉦の音、鼓の音。
戻ってきた橋の上で足を止め、一度後ろを振り返る。
弘紀の瞳に浮かんでいたあの表情。怒り、恐怖、そして怯え。いつもなら楽しいことや嬉しいことに輝くあの澄んだ目に映ったからこそ、より痛ましいと感じた。
肩を震わせていた弘紀の側にいたいと思い、その願いが叶わない今の状況に思いがけない息苦しさを感じたのも束の間、その弘紀の混乱に揺り起こされ、これまで抑え込でいた精神の内の昏い闇が今その牙と爪で己を捉え、逃れようもなく全てを覆いつくしていくのを感じた。
道場に戻りすぐにその門戸を閉めてそのまま、閉じた戸に背を預ける。
いったいこれは何の呪いか、それとも日頃は隠されているだけの自身の狂気なのか。
年月を経ようとまとわりついて離れない過去の記憶。
生々しく呼び戻される感覚。
陥るたびに自我が削られる絶望と自虐の螺旋に黒く塗り潰される前、修之輔はひとこと、弘紀、とその名を呼んだ。
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