第3話
硯に留め置いていた筆を持ちあげて作業を再開したが、しばらく、弘紀は修之輔が札を書く様子を見ているようなので、それだけではと、札を床に並べて乾かしたり、乾いた札を集めたりする作業を頼んだ。
とくに嫌がるでもなくむしろ張り切って引き受けたところを見ると、修之輔に構ってもらえないこの状況は、弘紀にとってやはり少し退屈だったのだろう。
そうして奥宮拝殿の床に書き終えた札が並べられ、それらが乾くまでは一度手を止めなければならなくなった丁度その頃、本宮から握り飯が届けられた。
書いた札が飛ばないよう拝殿の戸を閉めてから、修之輔と弘紀は拝殿の廻り廊下に並んで腰掛け、握り飯を食べながら休憩することにした。
木陰から外れた境内に降り注ぐ日の光は夏の日の強さなのだが、拝殿は木の葉の緑がかった影の下、暑さはほとんど感じない。山のどこかで微かに鳴り続ける水の音は木の葉を揺らす風に途切れながらも絶え間ない。
「涼しくていいですね」
握り飯を早速食べ終わった弘紀が回廊の縁から足をぶらぶらさせながら言った。
食べた後すぐに何もする気にはならず、だが少し手持ち無沙汰なようにも思えて、修之輔は弘紀にこの奥宮の由来について話してみた。
「昔、この辺りに住んでいた者たちはタタラを持ち、鉄を溶かして剣を作っていたそうだ」
境内の一角にその痕跡があったらしいが、今はもう分からない。その歴史の名残か、本宮には石の剣がご神体として祀られている。剣にまつわる神社ということであの剣道場も建てられたと聞くが、これはそれほど昔のことではない、そんな話をすると弘紀は思ったより興味を惹かれたようだ。
「古の人々が使っていたタタラは、今、城下にある刀鍛冶の物とは違うのですか」
「ああ、違ったらしい。だが俺もそこまで詳しいことは知らない。あの神主殿なら何か知っているかもしれないな」
城下の刀鍛冶のところに行ったのか、と聞くと、先日、田崎に連れられて城下町に行ったときに覗いたのだという。
「鉄を打つ仕事は熱くて大変そうです。火の粉で髪が焦げました」
前髪を抓んでみるのはその辺りが焦げたということだろう。
「髪が焦げるとはかなり炉の近くだったのか。よく刀鍛冶の仕事場に入れたな」
「私の刀を打ってもらっているのです」
帯刀が苦手とはいえ、それではやはり恰好がつかないと強く反対する田崎と言い合った挙句、だったら黒河で打った物なら身につける、と弘紀が言い張った。
刀が打ち上がるまでそれを理由に刀を身につけなくていいだろうとの、これは修之輔が聞いても苦し紛れの言い逃れだったのだが、優秀な刀鍛冶は近日中に弘紀の太刀を打ち上げてくれるらしい。
「刀など人を傷つけ、あまつさえ、殺すための道具でしかないでしょう」
ぽつりと零されたその言葉に、常に似合わず暗い響きを感じて修之輔は弘紀の方を見たが、伏せられた顔は髪に隠れ、その表情を見ることはできなかった。
札を書く作業に戻る前、腰掛けていた拝殿の回廊を下り、手水の水を借りて手を洗った。蝉の声の響く境内は夏の白い陽の光に満ちている。
一緒に手を洗った弘紀が、懐から取り出して手を拭いている青海波模様の手拭は、普段弘紀が身に着けるどの着物に馴染む。それは弘紀が使うもの全てに細やかな配慮が行き届いていることを窺わせた。
弘紀は、自分の役目が修之輔の書いた札を整理することだと心得たらしく、先ほどのようにどこかへ行きたがる素振りは見せず、それが当然の顔で修之輔の後について拝殿の中に入ってくる。
そうしてそこで、弘紀は祭壇に置かれた修之輔の長覆輪に気が付いた。
「修之輔様の太刀も奉納するのですか」
「ああ、これは」
「ごめんくださいませ」
不意に、拝殿の表から声が掛けられた。
弘紀をその場に制して、修之輔が拝殿の戸口に立つと、鮮やかな紫の小袖に濃灰の大縞も粋に、辛子色の花菱の帯を締めた女の姿がある。
顔立ちは目を瞠るほどではなくても十分に美しく、その物腰から武家ではないのは察せられたが、町人にしてもどこか玄人の色気が漏れる。
修之輔が知る限り氏子の中にこのような者がいた記憶はなく、参拝に来た信徒ならばと階段を上がるよう促した。女は、では失礼いたします、と臆することなく階段を上がり拝殿の内に入ってきた。
拝殿の中では床に並べてあった札を弘紀が集めて隅に寄せている最中で、女はその姿を関心のない横目で見遣ってすぐに視線を外した。そうして祭壇の上に置かれた鏡にしばし目を止めたように見えたが、そのまま作法通りに参拝を済ませた。
神主の適当な言動を思い出して感じる居心地の悪さを顔色には出さず、お参りご苦労様です、と修之輔が常例の言葉を女に掛けると、女はその修之輔の顔をみて一瞬、色気を湛える下がり気味の眦を瞠った後、艶を含んだ声でお勤めご苦労様です、と返礼した。
「わたくし、少し前にこの黒河藩城下の反物屋に奉公に上がったばかりで、いろいろと疎いのですが、こちらの神社は今、祭礼が行われている本宮の別宮なのでございましょうか」
そうだ、と答えた修之輔の、その言葉の短さに軽く目を細める様子なのは、自分の容貌に幾許かの自信があるのだろう。上目遣いで修之輔を軽く覗き込むような仕草に、思わず顔を逸らした。その視線の先、弘紀の様子がおかしいことに気づいた。
「商家の女」
呟く弘紀の口調が聞いたことの無い険しさを帯びていて、見た目だけでその身体が不自然に強張っているのが分かった。
修之輔がどうした、と声を掛けようとしたその言葉の先を遮って、弘紀の剥き出しの敵意に気づいて鼻白んだ様子の女が軽く頭を下げて寄越した。
「今日はこれで失礼いたします。またこの祭礼中に伺わせてくださいませ」
笑みを浮かべたその唇に引かれた紅の赤さが、奥宮の簡素な雰囲気にそぐわない。だがその違和感は直ぐに思考の外に散消し、それよりも弘紀の様子が気にかかった。
「弘紀」
弘紀は女が去っても拝殿の戸口を向いたままで、強張りの取れないその肩に手を触れると、弘紀の体が大きく震えた。
「どうした、大丈夫か」
ぎこちなく修之輔を振り仰ぐその瞳は、抑えきれない怒り、警戒、恐怖に揺れている。そしてその影から聞こえる声にならない悲鳴。
思いがけない弘紀の強い感情の動揺をその目の中に見て取り、刹那、修之輔は自分の心の内が隠微に共鳴するのを感じて即座にそれを振り切った。自分が己に巣食う闇に飲まれている場合ではない。
感情の混乱に捉われて身動きできずにいる弘紀の後ろに回り、背から両腕を回してその両手首を軽く掴み、肩から力を抜くよう言った。時折、どうしても竹刀を振る腕の力を調整できない年少の者に指導する時、同じことをする。
「力を抜いて、呼吸を整えろ」
弘紀の、自分より小さな背を抱いて、呼吸と鼓動をその背に直接伝える。合わせやすいよう、ゆっくりと。
しばらくそのままで時が過ぎるのに任せていると、弘紀のまずは呼吸が、次いで心拍が落ち着いて、蝉の声と湧水の水音が拝殿の中に戻ってきた。
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