第2話

 登り切ったところ、奥宮の裏手から上がってきたことになり、目の前には奥宮の建物と、その手前が手狭に開いているだけの平らな土地が開けている。

 昨夜聞いた通り、昨日までに神社の氏子連が手入れをしてくれていて、雑草は刈り取られ、手水の周りも清められていた。鳥居が見えるその向こうは、武家屋敷の方から続く表参道と呼べば立派だが、申し訳程度に石畳が道の体を保っている古びた小道が続いている。

 

 周りを見てみたくてそわそわしている弘紀を、まずは手水の流れる石船の側に呼び寄せた。草履を脱がせて泥を払い、石船から流れ落ちる水で足を洗わせる。腰掛けられる場所はないのでその場に屈んで弘紀の足を拭いてやっていると、ふと弘紀の指が修之輔の髪に触れた。

 

 それは昨夜、珊瑚の簪が挿された辺り。

 

 何か、と弘紀を見上げると、髪に触れていた指がそっと頬まで降りてきた。その指の感触に修之輔は知らず目を細める。おそらく弘紀自身も無意識だったその仕草、それから先の行き先に指先が迷う。

 

 くすぐったい様な、でもどこか心地良くあるような。

 

 弘紀のその指の動きをなぞるように、拭いてやったばかりのその足の裏を軽く擽ると、不意打ちされた弘紀は、ひゃあ、などと声を上げて転びそうになった。

「きれいになったのだから、もう汚すな」

 そう言いながら弘紀の背を支えて姿勢を戻してやりながら草履をはかせると、やや頬を赤くした弘紀が、はい、と素直に答えた。


 草履を脱いだ修之輔が奥宮拝殿の階段を裸足で上がると、弘紀もその後ろから、修之輔の仕草を見様見真似で付いてくる。神主から預かった鍵で扉の閂に掛けられた錠を開ければ、中は簡素な祭壇と手机一つがあるだけである。

 弘紀に手伝わせて一緒に埃を払い、雑巾で窓枠や床の水拭きをすれば大方の準備は終わりで、ここまでで手伝いは十分、助かった、と礼を言うと弘紀はどこか拍子抜けした顔をしている。

「祭壇はこれでいいのですか。なにも置かれていないようですが」

「祭壇とは言っても、今、弘紀に運んできてもらったその鏡をいちばん上に据えるぐらいか」

「私が運んでいたのは御神体だったのですか」

 私が運んでよかったのでしょうか、途中だいぶ振り回しましたが、と弘紀の声は急に心細くなる。

「それは御神体ではないし、そもそも奥宮に御神体はない。むかしはあったと聞いているが、戦乱の世にあって失われたと聞いている。それであの神主殿が、何もないのは寂しいからこういう分かりやすいものを置いておけ、などと言うから、祭礼の間、置くことになっただけだ。その鏡もどこで手に入れたものか分からないと言っていたから、気にする必要はない」

 弘紀が今更ながら丁寧に差し出した包みから鏡を取り出して祭壇の上に置いたあと、もう大丈夫だから外を見て来い、と言うと、弘紀はさっそく外に飛び出して行った。

 表参道がどうやって入口に続いているのか、手水の湧水がどこに流れるのか、大きな黒い蝶がどこにいるのか、知りたいことがたくさんあるようだった。

 拝殿の階段を下りる軽い足音に次いで、すぐに戻ってきます、という弘紀の良く通る声が聞こえた。


 弘紀が境内をまっすぐに横切り、鳥居の方へ向かって行くその背中を見送ってから、修之輔は祭壇の裏に回った。

 そこには木箱塗箱がひっそりと積まれており、修之輔はその箱と箱の隙間から、自分の背丈ほどの棒を持ち出した。一度それを祭壇の表において、今度は箱の中身を確かめながら目当ての物を探す。

 これではないとその外観から分かっていたが、嵩の薄い、そう古くはない桐箱を開けると、先ほど本宮で話したばかり、修之輔が以前身につけた稚児衣装が入っていた。 

 桐箱に納められた真白な綾衣のその衣装は、気温低く日も当たらない静かな奥宮に静置されていたせいか、目立った傷みはない。

 修之輔は、特に感慨もなく、元通りに蓋を閉めて脇に除けると奥の方に見覚えのある古い木箱を見つけた。

 昨年の祭礼の終わりに神主が蓋に貼った封印を破って箱の蓋を開ければ、中には八つの鈴が入っている。数を確かめてからその箱を祭壇の前に持ってきて、先ほどの棒の先に取り付けた。

 

 鈴とはいっても、佐宮司神社祭礼の時に出されるこの鈴は、少々変わった形をしている。他の神社でよく見る鈴が丸い形なのに対し、この鈴は金属の板がぐるりと丸められた円筒形をしていて、かなり古びて錆の浮いたその鈴はそれがもとからの形なのか、長年の錆が固まってそうなったのか、表面は凸凹と、音はガラガラと割れるように鳴り響く。

 

 落とさないよう慎重に、修之輔は桐の箱に仕舞われている八つの鈴を全て棒の先端に取り付けた。それを祭壇の脇に立て掛けて、榊の枝、お神酒を供え、最後に自分の長覆輪の鞘に偽刀を納めて祭壇の一番下に据える。

 抜身の太刀は白木の仮鞘に納めて自分の手元に置けば、これで奥宮の祭礼の準備はおしまいで、あとはここに詰めて、神主に言いつかった札をつくる仕事をするだけである。それも急いでやるほどのものではない。

 ここまで着ていた普段の木綿の小袖袴から、本宮から持たされた神職の着る白い小袖と袴に着替え、足袋も新しいものに替える。祭礼は川のほとりの本宮で行われるとはいえ、信仰篤い信者は時折、奥宮まで拝礼に訪れるので、修之輔にはそういった者達への対応も任されている。


 身支度を終えた修之輔は奥宮拝殿の戸を全て開け、持ってきた文箱から書道具の一式を取り出して札を書く準備を整えた。

 札には神社の名、佐宮司神社と書くのみである。これに神主が朱印を押し神前にまとめて祝詞を上げる。そうしてそれを祭礼の間、本宮に訪れた人々に売るとなかなかの稼ぎになるのだと、臆面もなく言い切った神主の顔が思い浮かぶ。

 そもそも神職でもない修之輔に書かせる辺りからいい加減だが、師範からの頼みでもあり、数年前に初めて手伝ってからそのまま、流されて毎年書くことになってしまっていた。


 蝉の声と山の湿気を含んでなお涼やかな風が木立を静かに揺らして吹き過ぎる。

 

 この役目を任された経緯に引っ掛かりはあるが、祭礼の期間、街に近い道場は人の流れが絶え間ない。喧騒を好まない修之輔にとって、静かな山間に居場所があるのはありがたかった。

 二、三度、筆の動きを確かめてから札を書き始めると、字の書き方を手が憶えており、すぐに、一枚、また一枚と書き終えた札が手机の上に並ぶ。

 そうして札を書く修之輔の周り、紙が触れる微かな音に紛れて聞こえるのは、手水の石船を満たして流れる湧水の音、また山肌のあちらこちらを零れ落ちる雫の音で、これは数日前の夕立の名残だろう。 

 まずは数枚、札を書き終えて仕上がりを確かめていると、軽く駆ける足音が戻ってきた。


 参道を下って入り口を確かめ、寄り道をしながら引き返してくればこのぐらいの時間だろう。拝殿の階段前で脱いだ草履を整えてから、弘紀が中に入ってきた。弘紀は、墨を摺る修之輔の様子をちょっと眺めて、神主様のようですね、と、どうやら見たままの感想を寄越してくる。 

 かたちだけでも整った祭壇の前では太刀を外すようにと弘紀に言ったが、もともと身につけてこなかったというので、そちらのほうが気にかかった。

「出歩くときに太刀は必ず身につけろと、田崎殿に言われていないのか」

 言われています、という弘紀の答えはどこか歯切れが悪い。

 走る時にも遊ぶときにも邪魔とはいっても、それに慣れるのが武士の身だしなみで、そもそも弘紀の身なり、立ち居振る舞いは、どれをとっても市井の子どものそれではなく、武家の子息そのものである。ならばやはり太刀は佩いているべきだと思うのだが。 

 珍しく修之輔の視線を避けて顔をそむける弘紀の様子を見ると、何か仔細がありそうだったが、だからといって無理にその心の内を暴いたり詮索するようなことはするつもりはなかった。


 その恰好で出歩いているからには、おそらく田崎との間に何らかの了解はあるのだろう。弘紀の性格を思えばそのふるまいに何か明確な理由はあるはずで、ただの我儘ではないのは察せられる。だが、その理由が分からなければ周囲の戸惑いは避けられない。

 後々、弘紀のこの一人で頑なに決めて周りに何も説明しない性格が面倒事の原因にならなければ良いがと、年長者の目線で心配する修之輔の胸中はよそに、弘紀は手机に寄ってきて修之輔が書き終えた札を見ている。

 その頬にも首筋にも、駆けてきた割には一すじの汗のあともない。

「まだ昼前とはいえ、今日はそんなに涼しいか」

「はい。でも今日だけではなく、昨日もその前も涼しかったと思うのです。黒河の夏は毎年このようなのですか」

「そうだな、いちばん暑い時期は過ぎたが、この辺りはだいたいこのような気温だ。そうか、弘紀にとってこの地の夏を過ごすのはこれが初めてだったな」

 はい、と頷いた後、すみませんお手を止めてしまいました、と弘紀が詫びた。

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