第2章 神楽舞の夜
第1話
祭礼の初日の朝はいつもと違い、日の出からしばらくすると既に多くの人々が目覚めている気配が街にある。川の狭霧の残り尾がまだ消えやらぬ橋を渡り、修之輔が佐宮司神社本宮に着くと、神主が境内の大きな榎の下に佇んでいた。
これから神事の準備だろうか、上下純白の小袖袴に背筋の伸びたその立ち姿は初老の域に入るその実際の年齢よりも神主を若く見せる。
そういえば弘紀の守役である田崎と、この神主は同じぐらいの年齢なのかもしれないと修之輔は思った。ともに頭髪は白髪が勝るが、時折その目によぎる強い光は老いを感じさせない。重ねた年齢を消費することなく己の中に蓄積してきた者に見られる重みが田崎にもこの神主にも感じられた。
ただ、時々冷たさも感じることがある田崎の生真面目さに比べて、神主にはその人生に何か変節があったのか、それともそれが本来の性質か、いささか真面目さに欠ける部分があった。
今は何か考え事でもしているのかと思ったが、修之輔の足音にすぐに気付いて挨拶代わりに片手を上げたので、修之輔はその場に立ち止って一礼した。
「昨夜、来てくれたらしいが忙しくて相手にできず、済まなかったな」
神主が伸びたあごひげを捻りながら寄越す言葉には、さほど謝罪の意志は感じられなかった。やはり昨日、修之輔がここまで来て、しかも師範との言い合いの間しばらく様子を窺っていたことにも気づいていないようだった。
「いえ、お忙しいところに伺ってしまい、こちらこそ申し訳ございません。氏子の方から昨年と同じ役目だとは聞いていますが、それで宜しいでしょうか」
神主は、良い良い、と気軽な調子で返事を寄越し、本宮拝殿の脇に修之輔を呼んだ。
「こちらが札の紙で、これが着替え、そしてこれが鏡だ」
そう神主が指し示すいくつかの包みは、やはり一人で持つには少々嵩張る。持てるか、と今さらのように聞いてくる神主に、手伝いを頼んであります、と振り返ると、ちょうど境内に弘紀が従者を連れてやってきたところだった。
弘紀は遠目でも修之輔の姿を認めたらしく、こちらに向かってちょっと頭を下げた後、従者に何事か話しかけている。おそらく戻るよう命じたのだろう、従者は参道を戻っていき、弘紀は一人でこちらに向かってきた。
「あれが手伝いを頼んだ者か」
「はい、道場の門下生で、本多弘紀という名です」
「本多弘紀、ああ、あの者がそうか」
神主のその反応は意外だった。
「ご存じなのですか」
神主の返事には、少し何かを迷うような間があった。
「修之輔のお気に入りだろう、宗源から聞いている。いやこの前、顔を見せにきた大膳に聞いたのだったかな」
神主に普段は呼ばれない名で呼ばれた師範は、それほど弘紀を知っているとは思えないが、大膳なら祭の警備の確認をするためにここに来ていてもおかしくはない。自分の息子と城の役人の区別がついていないのもこの神主らしくはある。
「おはようございます、修之輔様。時間に遅れてはいなかったでしょうか」
少し早足で二人の前にやってきた弘紀は 袂にぼかしの藍染めの小袖に薄鼠の袴で、この色合いだと年齢より少し幼く見えた。
「大丈夫だ。弘紀、こちらはこの神社の神主殿だ。会うのは初めてかと」
「初めてお目にかかります。本多弘紀と申します」
「ふむ、これは利発そうだな。お父上に似たか、お母上に似たか。いずれにしろ将来が楽しみなことだ」
普段、口の悪い神主にしてはまともな感想で、修之輔は少し意外な思いすらしたが、弘紀は素直に、ありがとうございます、と礼を言う。
「弘紀殿は今日一日、修之輔と一緒に奥宮にいるのかな」
「いえ、夕方からこちらで奉納される神楽を見に来る予定です」
「ほう。昼間には神輿渡御があるがそちらを見には来ないのか」
「うちの者に、身動きもとれないような人混みの中に行くことを固く禁じられました」
修之輔の袖に触れる近さから、あからさまな不満な声音で弘紀が答える。
「神輿渡御はそれほど人が集まるのですか」
「そうじゃな、朝、境内を出るときはそうでもないが、神輿が戻る夕刻前は神社の周り、人混みがすごいぞ。その人波が落ち着いた頃に来られたら宜しい。神楽は暗くなってから始まるから」
弘紀はその神主の言葉に頷いて、さらに質問を重ねた。
「今日は神輿渡御で、明日はなにがあるのですか」
「明日は本宮拝殿での儀式があって、明後日は稚児行列がある。稚児行列の方が人出は多いかのう。なあ、修之輔、懐かしいだろう」
「随分昔のことです」
話の見えない弘紀が説明を求めて修之輔を見上げてきたが、答えたのは神主の方が先だった。
「ここにいる修之輔はな、数え十二のときに頭稚児だったのだ」
「頭稚児とはなんでしょう」
「頭稚児とはな、集められた稚児のうち、最も容貌に優れた者が選ばれるのじゃ。その日一日、神の依代になって街を練り歩き、御祭神、
「輿に乗せられ座っているだけではあったが、その人込みにひどく疲れたことは覚えている」
弘紀の目線に応えて流し、風もなく蒸し蒸しと暑い街中を衆目に晒されながらのろのろ進むあの行列の辛さを思い出して、修之輔は眉を顰めた。
「修之輔様の稚児姿ですか。見てみたかったです」
弘紀にとって、今の自身より年下だった頃の修之輔の姿というのはどのように思い描かれるものなのだろうか。こちらを見上げてくる弘紀としばらく目を見合わせる。
互いが互いの心を覗いて違和感を覚えない、それは自然な仕草だった。
「どうせなら弘紀殿も稚児をしてみるか」
修之輔と弘紀が顔を見合わせていると、神主がそう、冗談とも思えない口調で弘紀に尋ねてきた。
「修之輔が頭稚児を務めた時、背丈は今の弘紀殿より一寸ほど低いくらいだったから、当時の衣装がどこかに残っていれば弘紀殿も着られるのではないか。年も十二でなくても二、三歳程度上でも構わぬ。さて弘紀殿は今、御いくつか」
「十六です」
神主がおや、という顔をする。どうやら弘紀がもう少し年下と見ていたらしい。
「いやいや、何の、これからこれから」
などと、言い訳にすらならない適当な事を云って神主は話をごまかした。弘紀はそのような反応に慣れているのか特に気を悪くした様子も見せない。
雑談はその辺りで切り上げて、神主から奥宮拝殿の鍵を借り受けてから、先ほど示された包みを弘紀と手分けして持ち、二人そろって神主に一礼してから本宮の境内を出た。
川に架かる橋を渡り、坂道を上りはじめてすぐ、道場の門を入る修之輔に弘紀が首をかしげる。
「なにか忘れ物ですか」
「それもあるのだが」
修之輔は住居から硯と筆の入った文箱を持ち出し、自分の持つ荷物に重ねた。
「表の参道とは違う近道を行こう」
道場の裏手、敷地の一辺は山肌に面していて、それがそのまま塀代わりになっている。物置の後ろに回るとその山肌に人一人が登れる細道があり、裏と付けても参道とはとても呼べないほどの細い道が山の斜面を上がって奥宮に続いている。
普段はほとんど使われず、見た目は草葉に覆われているのだが、黒河藩の寒い冬は植物の成長を妨げるので足元には土が覗いており、気を付ければ見失うことはない。
「ここを行くのですか」
そう修之輔に尋ねる弘紀の声は、ちょっとした探検への期待に弾んでいた。
修之輔が先に立って上り始めたその細道は、手入れがされていないこともあり、袴の裾に草の根や笹が絡んで足を取りに来る。それでも股立ちを取っては思わぬ落枝に傷つくこともあって、袴の裾は上げずにそのままにしてあった。
しかし弘紀は、と振り返ってみると、そういえば走り回りやすいよう、日頃から足首が覗く丈の短さで、そもそも着物の汚れや自身のかすり傷など気にも留めない性質の弘紀は、むしろ叢を分けて歩くことを楽しんでいるようだ。
まだ朝早いこの時刻、これが夏の名残とばかりに張り上げる蝉の声も昼間に比べればまだ少ないが、それでも絶え間なく木立の上から降り注ぐ。
道はつづらに、頻繁に折れて、しかも近道であるので勾配は急。
足元に注意した方がいいのだが、弘紀の目はあちこちに向けられて、今も鼻先を掠めて飛んで行った蝶を捕まえようと手を伸ばし、その手に荷物を持っていることに気づいて転びそうになっている。
修之輔が、大丈夫か、と声を掛けると、あの蝶は見たことがない、と興奮した声が返ってきた。
「あんなに大きくて、黒くて、でも虹色に輝く蝶を初めて見ました」
「確か奥宮にも飛んでいたと思うから、着いてから探した方がいいぞ」
上にもいるのですか、という声音が既に期待に溢れていて、放っておくとそのまま蝶を二、三頭を捕まえそうな勢いである。
しばらく登って四半刻は過ぎない内、つづら折りの山道も先が見えたところで、修之輔は後ろに弘紀の姿も気配もないことに気づいた。どこに行ったか、どこかで転んでいるのかと道を戻りかけて突然、脇の叢ががさがさと左右に割れ、弘紀がひょっこり姿を現した。
つづら折りが面倒臭くなって、真っすぐ登ったらどうなるのか、試してみたというので呆れた。
「少し、早く登れます」
涼しい顔をしてそう言うが、千切れた草の葉や落ち葉が頭や着物のそこかしこに付いて、裸足に草履の足は土まみれである。いいからまずはこの道を登れと自分の前に弘紀を押し出して、その背を押すようにして最後の坂を登った。
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