第1話

 明日からの佐宮司さぐうじ神社祭礼を前にして、傾いた日が黒河の城下を囲む山の端に沈む手前。裾に臙脂の麻の葉模様、生成りの小袖を着流しに、椿の長覆輪に脇差を佩いた秋生修之輔あきう しゅうのすけは道場前の坂を下っていた。坂の先の橋を渡り、袂から左に折れれば神社の参道で、真っすぐ進めば城下町の街並みである。

 

 既に並ぶ屋台の列は参道を溢れて街中まで続き、眺めて歩く人の数も時間が経つにつれ次第に増えてくる。その賑やかな街の通りの向こう、数名の配下を連れてこちらに向かいやってくる柴田大膳しばた だいぜんの姿を認めて足を止めた。

「修之輔、その恰好は珍しいな」

「明日から奥宮詰めだ、今宵ぐらいはいいだろう」

「そういえば修之輔も役目があったな。毎年のこととはいえ、ご苦労なことだ」

 自分は祭りの間ずっと街の警備だと大膳は言った。


 聞けば今はその下見中だという。このところ妙な出来事が市中に相次いでいて、今年は特に例年より警備のものを増やし対応しているらしい。

「妙な出来事とはどんなことだ」

「言葉通りだ」

 物を取らず、人に見られず、ただ家屋や店の鍵だけ開けていく者がいる、と、真面目になり切れない顔で大膳が答えた。確かに妙な話だ。

 

 その鍵も、帳簿の収まる長櫃や、売り上げの銭を入れる手金庫ばかりならまだしも、家人の手慰みで付けただけ、茶箪笥の玩具の如き鍵までも開けるとあっては、まるで悪ふざけの過ぎる子供か妖怪のいたずらだ。

 だがどんな鍵でも開けていく手際の良さがかえって不審を呼ぶ。大店の奥まった蔵の扉も開けられて、内部の手引がなければできない仕業と、不穏な細波の様に疑心暗鬼が街に広がっているという。


「これまで物を取られたとか襲われて怪我をしたというような話は聞かないが、念のため祭礼の間は街に警備の者を多く割くことになる。神社の方にはあまり人手を回せないが大丈夫か」

「本宮にはこの祭りの期間、神主殿と師範が常駐している。むしろ人混みに紛れる掏摸などが問題だろうが、その辺りは氏子が目を光らせると言っていた。奥宮には俺がずっと詰めているし、そもそも鍵をこじ開けてまで取る物があの神社にあるかどうか」

 そうか、なら大丈夫だなと頷いて、大膳はもう一度、上から下に修之輔の姿を眺めた。

「それにしても、人混みは嫌いだと日頃言っている癖に、よく今日はここまで下りてきたな」

「明日からの打ち合わせをしに本宮に来いと師範に呼ばれている」

「では師範にもよろしく伝えてくれ」

 それだけ言うと大膳はそうそう無駄話をしてもいられないようで、じゃあなと一声、待たせていた配下と合流して足早にその場を去っていった。


 八月も半ばを過ぎると、山間にある黒河藩には早くも秋の気配が漂い始める。迫る秋の収穫期を前に、毎年、城下の佐宮司神社で行われる祭礼はこの地に住む人々の楽しみとなっている。

 

 佐宮司神社の謂れは、延喜の昔に記された書物にまで遡り、古くからこの地に生きる人々の信仰を集めてきたことが知られている。

 元々その社殿は山の中にあったが、辺りに人が増えて山のふもとに流れる川に沿って集落が広がり始めると、その川の近くに新たに拝殿が建てられた。山の中の社殿は奥宮と、人々の近くに降りてきた社殿は本宮と呼ばれるようになって今に至る。

 この神社が山中の奥宮にあった時、祭祀を司っていたのは、今は黒河藩の重臣を務める本多氏の祖先だった。昔日には成人前の本多家の女人が巫女を務めていたという。しかし神社が山を下りた時、本多氏は神職を辞して神社から出た。

 本多氏はその後、政に手腕を発揮して地域の民をまとめるようになったが、そもそもが祭祀を司る出自であったためか軍事には疎かった。いくつかの争いがあった後、いつしか勢力の強い豪族にこの地の支配を委ねることにしたという。

 以降、何度かこの地を支配するものが変わったが、本多氏は常にこの地に留まり、民と支配者との繋ぎ役となった。

 

 山の頂にある黒河藩の藩主居城が、この地を見降ろしつつも手狭なのに対して、本多氏の屋敷が山腹にあって広い土地を抱えているのは、古の民が拓いた土地を一手に継承している為である。黒河藩の家臣は、その本多の屋敷より下、城下へ下る坂道沿いに屋敷を構えている。

 修之輔が師範代を務める剣道場は、その武家屋敷の立ち並ぶ一帯からさらに坂を下って城下町との境になる川の近くにある。少し歩いて橋を渡れば城下町、橋を挟んで斜め向かいの佐宮司神社本宮敷地の榎や杉の万年緑は道場の門からも見える。今もそれを見ながら坂を降りてきたところだった。

 

 大膳と別れた後、人が混み合う街中を避けて、修之輔は早々に神社参道に足を向けたが、人混みはむしろ参道の方が多かった。神社の裏手から来ても良かったのだが、とは心の内、何かを探して落ち着かない自分の気持ちに対する今更ながらの言い訳で、人の波を躱しながら先に進むとその先に、出店のあちこちを覗いて回る小柄な姿があった。

 顔も見なくてもその背格好、その仕草で道場門下の本多弘紀ほんだ こうきだとすぐに分かる。ならばその弘紀の傍ら、さほど離れはしないが付きもしない、歩調だけは弘紀に合わせているからそれでどうやら同行しているらしいと察せられるのは、弘紀の友人、礼次郎だろう。

 そんなに長い間足を止めていたとも思えないが、修之輔の姿に目敏く気付いた弘紀が人の流れに逆らいながら駆け寄ってきた。


 薄杜松の小袖に濃い縞袴、ともに絽の生地に弘紀の艶やかな黒髪が映えて、見た目に美しい涼しげな装いだが、弘紀の動きを見ていると生地の目をどこかに引っ掛けるのではないかと心配になる。

 弘紀は弘紀で、いつもは必ず袴姿の修之輔の着流し姿に、瞬き一つ二つ、目を止めて、何か言いかけて口に出す前、本来の用事を思い出したらしい。

「修之輔様、祭りの間は道場を閉められるとのことですが、何かご用事でもあるのでしょうか。どこかお出かけになるのですか」

 この神社の祭礼に合わせて、今日の午後から明後日いっぱい、道場を閉めるのだが、その間、修之輔が何をしているのか、弘紀は気になっていたようだ。


「この祭りの間、俺は神社の奥宮に詰めることになっているので道場に出られない。なので道場はその間、閉めることに」

「奥宮とはどこですか」

 弘紀がきょとんと聞いてきた。通う剣道場の師範代にあんまりな質問と思ったのか、ようやく追いついた礼次郎が修之輔の代わりに弘紀に応えた。

「奥宮はこの神社のもう一つの社殿だ。いつも道場に行くとき、参道の入り口の前を通っているだろう」

「そうだっけ」

「弘紀はいつも走って過ぎるから気に留めていないのでは。ほら、木が茂って道が少し曲がって、その道の脇に細い水の流れが見える辺りだ」

「ああ、あの辺りは暗くてひと気がないからさっさと通り過ぎるようにと田崎にも本多が寄越す従者にも言われている。あそこがその奥宮の入り口なのですね」

 礼次郎に教えてもらって納得したらしく、弘紀は途中から修之輔に向かって話しかける。

「その奥宮に詰めるという事は、修之輔様は神職もされておられるのですか」

「いや、師範のお父上が神主で、祭礼の間の手伝いを頼まれているだけのことだ」

 その言葉に弘紀がちょっと間をおいて、修之輔に尋ねてきた。

「もしかして道場のあの神棚はこちらの神社の神様をお祀りしているのですか」

「そうだ。武神で知られる建御名方命たけみなかたのみことを道場でもこの神社でもお祀りしているが、知らなかったのか」


 はい、と悪びれなく応える弘紀に、そういえば弘紀の出自が黒河ではなかったことを思い出した。普段すっかり周りに馴染んでいるのでつい忘れる。国元に信奉を寄せる神社があるのなら、この地の神社に関心が向くのはこの祭礼のように、年に限られた行事の時のみだろう。 

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