ある女の顛末

いちはじめ

ある女の顛末

 夫の手術は成功した。

 あの担当医も私の望んだとおりに仕事をしてくれたようだ。もし誰かが私の秘密を知ったら、きっと私を非難するでしょう。それでも私は自分のしたことに後悔はしていない。

 これで私から夫が離れることはない。いや、離れることができないのは私の方か……。彼と出会っていなければとっくの昔に私の人生は詰んでいたのだから。曲がりなりにも人並の生活を送ることができたのは彼のおかげだ。

 頭に包帯を巻かれ病室のベッドに横たわる夫の傍らに座り、彼女は過去を振り返っていた。


 女子大生の頃の私は、派手に遊びまくっているイケイケの小娘だった。夜な夜な繁華街に繰り出しては酔っ払い、そして一夜限りの男に身を任せるような自堕落な日々を過ごしていた。

 そんなある日、バーで暇を持て余していた時、少し離れた席にさえない男がいるのに気づいた。最初からいたのか、後から入ってきたのかさえ分からないほど、興味を引く男ではなかったのだけれど、いつものように飲代を稼ぐつもりで彼に誘いを掛けてみたのだ。

「ねえ、一人で飲んでるの。ちょっと私と賭けをしない? 貴方が思い浮かべたことを当ててみせるわ。当たったら奢ってちょうだい。外れたら今夜私を好きにしてもいいわよ。どおう、悪くはないでしょう?」

 そう言って彼の心を探ってみて驚いた。いつもなら若い女性の誘いを前に、卑猥な妄想を目いっぱい膨らませているはずの男の心が全く読めなかったのだ。そんなことは自分の能力に気付いてから初めてのことだった。

 その時の私は一体どんな顔をしていたのか。男はこちらを見るや腹を抱えて大笑いしながら、こう言ったのだ。

「にらめっこだったら私の負けだ。いいよ、ここの勘定は私が持つよ」

 私の能力が通じない男。私は一気にその男に興味を持った。そしてこう思った。この男ならこの地獄の苦しみから私を救ってくれるかもしれないと。


 彼女が自分の能力に気付いたのは五、六歳の頃だった。口を開いてもいない友達や、先生の声が時折聞こえて、そのことを話すとみんな変な顔をするので、とても不思議に思っていた。しかし高校生の頃には、それが相手の心の声だとわかってきた。

 ――私は人の心が読める。

 最初の頃はそれがうれしくて、級友や先生の心を読んでは、それを得意げに披露していたのだが、それが身の破滅を招くことだとは彼女はまだ気づいてはいなかった。時を経ずして彼女の周りの者は、化け物だと気味悪がり、彼女を避けるようになった。そしてそれは彼女へのいじめへと変化していった。かばってくれる生徒や先生もいたが、彼らの心の中も他とたいして変わりがなかった。

 卒業後、彼女は逃げるように地元から遠く離れた大学に進学した。その頃には、さすがに自分の能力をひけらかすようなことはしなかったが、他人の心を覗いては後悔し、絶望し続けた。そして誰も信用することができなくなった彼女は、自暴自棄に陥っていったのだ。

 しかし彼と出会って、人と対等に向き合えることの幸せを初めて実感した。それからの彼との人生はとても新鮮だった。人の心を読めないことがこんなにもワクワクすることとは思いもよらなかった。


 そして二人は結婚し、幸せな日々を過ごしていた。だがその幸せは長くは続かなかった。数年後、呂律が少し怪しくなっていた彼に精密検査を受けさせたところ、脳に腫瘍があることが分かったのだ。

 担当医から、このままではもって二年、削除は可能だが、場所が言語野に近いので合併症として言語を失う可能性があると伝えられた。失意のどん底に叩き落された彼女ではあったが、同時に、彼の心が読めないのは、この腫瘍が原因だったのではないかと考えた。

 手術をしなければ夫を失う。しかし手術の結果夫の心が覗けるようになったら、私はそれを止められない。そしていつの日か夫は私の秘密に気付いてしまう。そうなったら夫はきっと私から離れる。どちらにしても私は夫を失うことになる。私はもう夫なしでは生きられないのに、どうすればいいの……。

 彼女は苦悶の末に恐ろしい答えにたどり着いた。それは手術の際に、言語野も一緒に切除させるというものだった。たとえ夫が私の秘密に気付いても、言葉を失った夫を支えられるのは心が読める私だけだ。夫は離れられない。


 彼女は悪魔に魅入られたように、冷徹にこの考えを実行していった。担当医を含め病院側を言い含めるのは簡単なことだった。彼らの心を読み、弱みを握って脅迫したのだ。当然の如く彼らは彼女を恐れ、彼女を目にするだけで失禁する者までいたが、もはや自分がどう思われようと、彼女にとってはそんなことはもうどうでも良いことだった。

 全てうまくいった。

 夫が薄目を開けて彼女を見た。何かを言おうとして口を開くが、声にならない。

 ――いいのよ、心配しなくても。私があなたの心を読んであげるから。

 しかし何かがおかしい。異変に気付いた彼女は確かめるかのように夫の額に手を置いた。

 彼女の顔から一気に血の気が失せていった。

 ――そ、そんな、どうして……。私は何ということをしてしまったの。あなたごめんなさい……。

 彼女は絶叫と共に病室の床に崩れ落ちた。


                                   (了)

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