女神のお菓子

アイビー ―Ivy―

女神のお菓子

 朝目覚めると、いつも、甘い香りがする。

 茜はその香りが嫌いだった。

 代わりに茜は、珈琲の匂いを好んだ。あの苦い、豆の匂い。豆が挽かれるときに立ち昇る芳醇なあの香り。こぽこぽと小さく泡を立てながら抽出される珈琲の、深みのある色。朝一番に胸に吸い込むときの幸福感といったらない。寝起きの体がしゃきっと目覚めてくれるのだ。だから、この貧乏大学生生活にも珈琲メーカーは欠かさなかった。ディスカウントショップで買った安物。今では茜の肌にしっくり馴染んでいる。

 朝は珈琲を作るのが日課だった。ぽとり、ぽとりと垂れる珈琲をぼんやり眺めて、そのあとソーセージを焼くのが好きだった。きつね色に焼けたトーストと合わせて、たまに目玉焼きも添える。大学の友達は朝ご飯なんて食べている暇ないと言うけれど、茜の朝に朝ご飯を欠かしたことはない。

 そんな密やかな至福の時も、インターホンが鳴ればすぐさま打ち砕かれる。本当にこのアパートのインターホンは酷い音なのだ。ブーッと、クイズで不正解を出したときの音と、全く一緒でいやになる。溜め息を吐いて、珈琲からふっと視線を逸らした。


「茜さん。おはようございます。いいお天気ですね」

「おはようございます。……花城さん」


 玄関の向こうでは、花城さんがふわりと微笑んでいた。お隣さんである。こんなボロアパートに住んでいるとは思えないほど、綺麗な人だ。白薔薇の妖精みたいな雰囲気で、終始おっとりふわふわしている人だ。


「あの、ピーチタルトを焼いたんです。茜さん、桃はお好き?」

「あー……マァ、はい。それなりに」

「良かった! ふふ、ちょっと焼きすぎてしまったんです。貰ってくださる?」


 花城さんはバスケットを下げていた。童話の世界に出てきそうな、メルヘンなバスケット。ちょっと覗くと、かなり大きめのタルトが真っ二つになり、皿に鎮座していた。瑞々しい果汁を湛えた桃は花びらのように広がり、薔薇のようであった。真っ二つになっているのが少し惜しいくらいであった。それを差し引いても、スイーツショップの店頭に並んでいても遜色ないような見た目である。


「……ハイ。いつもありがとうございます」

「そんな! こちらこそ、いつも貰ってくれてありがとう。茜さんのお陰で助かっているわ」


 ころころと可愛らしく笑って、バスケットとお皿はいつも通り、ドアの前に置いてくれればいいからね、と言って、スカートの裾を翻していった。何十本ものヒダが揺れる華奢なロングスカートを見送って、茜は扉を閉めた。わざとらしく乱暴に鍵をかけて、チェーンをつけて。溜め息を禁じえなかった。

 一つ頭を振って、珈琲メーカーの前に戻る。バスケットをおなざりにキッチンに置いて、ただ落ちる珈琲を眺め続けた。死に絶えた親の仇を見るような目で眺め続けた。

 そのあとはソーセージを焼いて、機嫌が悪かったので目玉焼きも添えた。食パンはいつの間にかきつね色になっていた。体に染みついた習慣とは怖いものだ、とちらと笑って、タルトを切り分けた。一ピースだけいただくことにした。


(……甘)


 残念なことに、茜は食レポというものがとんでもなく下手だった。その程度の感想しか抱けない女であった。珈琲は美味だったので、合間合間に啜った。もちろん、ブラックである。

 茜は花城さんが嫌いである。

 理由は色々あるが、一番はこうしてほぼ毎朝手作りのお菓子を差し入れてくるところだ。別に茜は特段甘い物が苦手という訳ではないし、ピーチタルトはとても美味しいけれども、それとこれとは話が違う。

 ただ、ああいう人種が嫌いなだけだ。

 茜にちょこっとだけ似ていて、他は全部違うような人種。


(朝から優雅にタルト焼くとか、どういう精神してるの……)


 お姫様のように、大切に、たくさんの幸せに囲まれて、お花畑と蝶々と一緒に暮らしてきたのだろう。銀のスプーンで蜂蜜をすくって、あの細い喉でコクコク嚥下する姿が安易に想像できてしまって、頭をがりがり掻きながら、さらりと珈琲を嚥下した。


***


 茜は人間が嫌いであった。人類みんな滅んでしまえと常々思っていた。

 その割には凄絶な過去などないし、ごく普通の一般家庭に育って、可もなく不可もなくといった大学に通っている。だから、人間嫌いだというのは単なる茜の我儘であった。

 しかし、その想いはかなり強かった。一歩間違えれば精神病んでいるのかと疑われるくらいには強かった。人類みんな悲惨な過去を持っていて耐えきれず首を吊ってしまえと、神社の絵馬に書きそうになったこともあるくらいだった。もちろん、やめたけど。

 その中で、何十億人といるお人間様の中で、一番嫌いなのは恵まれた人間だった。

 例えば、そう、花城さんのような。


「ねー茜ぇ。カフェ行かない?」

「近くにできたらしいんだよね! ね、行こ。金欠なら奢るからさぁ」


 つい、と目を上げると、大学の友達が二人、茜を覗き込んでいた。どうやらスマホをいじっている間に、講義は終わってしまったらしい。

 茜はこの二人が、どっちかと言えば好きだった。なぜならばクズだからだ。男相手に身を売り、甘言を唇に乗せて生きているような女だ。一緒にいるとどことなく安心できた。

 理由なんて知れている。茜もクズだからだ。大した理由もなく人類滅亡を望む女だからだ。


「いいよ、行こう。ちょうどバイトの金もあるし」


カタン、と席を立ち、きゃいきゃい騒ぐ二人のあとをついていく。


***


 その先で花城さんが優雅に紅茶を飲んでいるなんて、誰が想像できただろうか。

 途端に茜の機嫌は急降下し、メニューを見て目を輝かせている二人をひたすら眺めた。花城さんを目に収めたくなどなかった。

 大学の近くにできたというカフェはオシャンティーで、二人のテンションはうなぎ登りだった。何頼もうか、このケーキとかいいんじゃない、いやいやこのパンケーキも……。茜は早々にコーヒーとチーズケーキと決めた。つれないと二人には文句を言われたが気にしない。こっちは朝っぱらからピーチタルトを食べてきたのだ。マカロンが飾られたケーキだの、フルーツクリームたっぷりのパンケーキだの食う余裕はない。


「あら、茜さん?」


 咄嗟に人違いですと言いそうになって、ぐっと堪えた。鈴は鈴でも神楽鈴のような、澄んでいてしゃらしゃらとした綺麗な声。


「うっわ、チョー綺麗……」

「ちょっとあんた知り合い?」

「……あー。花城さんも来ていたんですね」


 お隣さんだよ、と吐き捨てるように説明して、相変わらず垂れ目を細めてふわふわ笑う花城さんを見た。二個隣にいたので割と早めに気づかれたらしい。花城さんのテーブルにはカバーがかかった小説が一冊置いてある。


「えぇ、そうなの。夫がお勧めしてくれたから、行こうと思って……。茜さんはお友達と来ているの?」

「あ、はい。大学の友達で」

「ふふ、そうなのね。楽しんでね」

「ハイ……」


 そのまま優雅に立ち去っていく姿を見送ると、二人からキャーッと声が上がった。キャーッ、何あの人。めっちゃ声いいし可愛いし! ね、あんな人がお隣さんなの。えー茜ルームシェアしない? 茜はそのまま席に座り、聖母のような笑みで小説を開く花城さんを見つめ、鼻を鳴らした。


「やぁだ。むしろ代わってほしいよ」

「えぇ、何でよ!」

「何でも」


 茜は恵まれた人間が嫌いだ。

 女神様に愛されたような人が嫌いだ。何も知らないでニコニコしている人が嫌いだ。クズたちが一緒にいたいと願っても、快く笑って受け入れるような人が嫌いだ。この世は幸せに満ち溢れていると思っている人が嫌いだ。

 茜は花城さんが嫌いだ。


(……自分が、クズだってわかってしまうから)


***


 酒と煙草が好きだった。なぜならば体を悪くするから。

 花城さんが亡くなった。

 茜はベランダで煙草を吸っていた。


(……亡くなった?)


 バスケットを返しに行った先で旦那さんに言われた。頭が空っぽで、具体的に何と言われたのかはもう覚えていない。


(そんなはずないでしょ)


ふー、と紫煙を吐き出す。


「あの人のいない空が、こんなに青いわけないでしょ」


 あの人は女神様なのだ。お姫様なのだ。神に寵愛された天使なのだ。

 空は雲一つない快晴である。

 花城さんが亡くなったなら、天が泣き出すはずだ。


(……こんなに、青いわけない……)


 甘い香りは、もうしない。

 珈琲の匂いが、こぽこぽと泡立っている。

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