第5話 クラリッサ
「……母様!」
彼女の屋敷の裏門から出て、人目を忍ぶように王都の中心街から外れて歩き。
馬車も着飾った夫人も通りに見えず、家同士の間に綱を張り洗濯物を干した光景が目立つようになるころに目的地にたどり着いた。
粗末な木戸を開け、真っ先にクリスティーナは入口で待っていた相手に抱き着く。
ややくすんだ水色の髪を肩までの高さに揃え、笑うと目元と唇の端に小さくしわができた。
そして、クリスティーナよりずっと大きな胸とくびれの深い腰。
「いらっしゃい。クリスティーナ。あら? そちらの人は……」
「……ヴォルト・フォン・ヴィンセント。この前話した、私の婚約者」
「あなたが……」
一瞬。
ほんの一瞬だけど、刃で切るような視線をくすんだ水色の髪の女性は僕に向ける。僕は胸を切り裂かれ、心の奥を覗きこまれたような錯覚に陥った。
でも彼女はすぐに元通りの笑みを浮かべた。
「クリスティーナの母、クラリッサと言います。この度は、娘が嫁ぐことになったようで……」
チュニックの上からつけた白いエプロンの上で手を組みながら、クラリッサさんは深く腰を折る。
「まずは、お食事にしましょう」
粗末な木のテーブルで、黒いパンと塩漬けのベーコンが少しだけ入った野菜のスープという昼食を三人で囲む。
でも、今まで高価な茶葉のお茶を飲んだ時よりも、屋敷で豪華な食事を摂るときよりも、ずっと美味しそうにクリスティーナは食していた。
「もともとの領地は、北の方なのですか」
「ええ。子爵家といっても痩せた土地で、不作も多いから色々と大変ですが」
「大変なんてお貴族様も平民もおんなじですよ、相手にするのが領地か家庭かの差だけです」
「……そう。伯爵家だって。屋敷が無駄に大きくて人と物がいっぱいある、ただそれだけ」
クラリッサさんが間に入ってくれているせいか、クリスティーナも普段より饒舌な面を見せる。
「私はずっと、この家で母様と二人で暮らしていた」
「周りは父様がいるのにうちだけはいないのは寂しかったけど。母様が優しかったし、ずっと家にいてくれたからそれでよかった」
「愛人ということで、生活費は送ってもらえましたから」
クラリッサさんが若干苦い顔をする。
「でも十二歳になったころ、生活が一変した。突然お貴族様が家にやってきて、窓を閉め切って消した蠟燭を立てて、私に杖を握らせた」
「魔法の才能があることがわかると、その場で屋敷に連れていかれて、今の父様に会わせられて、屋敷に引き取られた」
「びっくりしたし、最初の頃は母様に会わせてももらえなかったけど…… 近頃はやっと、毎日会えるようになった」
「あの人に、感謝しないとね」
「……母様が言っても聞き入れてくれなかったのに、私が会えないと魔法の訓練に支障があると言ったらすぐに話が通った」
そう言ってクリスティーナは乱暴にパンを噛みちぎる。
「……マギカ・パブリックスクールに入学すると、会う機会も減ってしまうけど」
「大丈夫よ。休日は訪ねてもいいって、許可はいただいたでしょ?」
「なんで、引き取られたの? 十二歳にもなって……」
許嫁になるから色々と調べたけど。クゥオーク家には何人か兄妹姉妹がいるし、後継ぎもちゃんといたはずだ。
「……災厄が一因。二十年前の蒼き山の大噴火はアデラ様の最上位魔法で食い止められた。でも、小規模な噴火や地揺れは続いている」
スープの水面に、わずかな波が立ち、スプーンがカチャカチャと音を立てた。だがすぐに止む。
「……王都は蒼き山に近い。だから万一に備え、王都から遠い場所にも領地が欲しくなった」
「そこで、北の方に領地がある僕の家に目を付けたわけか」
「……伯爵家は北の領地へのコネが欲しい。しかし大事な子弟を僻地へ追いやるわけにもいかないから、母様が平民である私が選ばれただけ」
「そしてヴィンセント子爵家は少しでも中央とのつながりが欲しい、ってところか」
「……その通り」
それからクリスティーナは、黙々と食事を口に運んでいった。
昼食と歓談が終わり、お暇するときにクラリッサさんが声をかけてきた。
「婚約が決まったと聞いたときは色々と不安でしたけど。あなたをこうして見て安心しました」
そう言って、彼女は改めて頭を下げた。
でも初対面の刃で胸を切り裂くような視線が思い浮かび、今の態度に違和感を覚える。
「なんでわかるんですか? 実は悪人か、怠け者かもしれませんよ」
「貴族の愛人なんてやってますから。少し目を凝らせば相手の本質がわかるものです。それに、あの子と出会って数日であそこまで懐いた人は初めてです」
「懐いて、って……」
「初対面のことは覚えています?」
必要最小限の会話しかしなくて、嫌々って感じが透けて見えてたな。話をするうちに打ち解けてはきたけれど……
「私が一緒だったとはいえ、あの子があんな風に自分をさらけ出したんですから。きっとうまくいきますわ。ただ」
頭を上げた時、クラリッサさんの目に再び刃が宿る。
「愛人の身で子爵様に言うのも、おこがましいのですが…… 私の娘をもらう以上、必ず幸せにしていただきます」
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