もしいつもボイチャで恋愛相談してくるネトゲ仲間が、実は同じクラスのツンデレ女王様だったら

そらどり

相手が片想い相手と知らずに恋愛相談してたなんて

 三か月前、うちのクラスに転校生がやってきた。

 その女子生徒の名前は名取なとり愛紗あいさ。無愛想を引き立たせるようなつり目だが、それでも隠しきれない美貌に加えて、大和撫子を彷彿とさせるようなきめ細かい黒髪ロングは、見る者すべてを魅了する。まさに、人気者要素をこれでもかと顕現させたような人物だ。

 可愛らしいルックスはさることながら、頭脳明晰に加え、誰にでも隔てなく笑顔を向ける社交性の高さから、彼女は一躍校内の有名人となった。

 そんな才色兼備な彼女が自分と同じクラスにいたらどうなるか。透き通るような声による挨拶から始まり、すれ違う度に振り撒かれる曇りなき笑顔に心を疼かされ、ふとした時に見せる無防備な姿に見惚れ……きっと誰もが天使が舞い降りたのかと錯覚してしまうことだろう。

 事実、クラスメイトらは皆そう感じていた。殺伐とした砂漠に突然現れたオアシスのように、彼女の登場はクラスの雰囲気を一変させたのだから。

 名取愛紗という存在は、このクラスにおける潤いなのだと誰もが思っていた。


 しかし時が経ち現在、その認識は変化していた。

 なぜかというと―――


「結城くん! 私、貴方に教科書貸してほしいって一言も頼んでないんだけど!」

「んなこと知るかよ! 困った時はお互い様だろうが!」


 ほぼ毎日のように教室後方で繰り広げられている喧嘩がいざ始まると、クラスメイトらは「やれやれ」「またか」と各々肩をすぼめる。

 数か月前に天使のような微笑みを浮かべていた天使様はどこへやら、今では隣の男子に文句をぶつけるだけの女王様と化していた。

 いや、もしかしたら今まで猫を被っていたのかもしれないが……と、そこまででクラスメイトらは考えることを止め、各々の日常を再開する。面倒事には関わりたくないからだ。

 これは全ては奴のせい。クラスの天使様を女王様へと変えてしまった奴の愚行に、誰もが同情を色を見せることはなかった。


 しかしそんな周囲の恨みなど知る由なく……苛立ちを露わにする名取に対して、俺―――結城ゆうき雅樹まさきは言葉を続けた。


「名取が教科書忘れて困ってたから貸してやったんだろ!? せめてご厚意くらい甘えろよ!」

「だから頼んでないって何度も言ってるじゃん! それに、教科書くらい無くても全然余裕だったし!」

「いやいや嘘つくなよ! 俺が貸さなかったら音読すらできなかったじゃん!」


 事の初めは先程の授業。国語の授業では席順に教科書を音読していくのが恒例となっており、間もなく順番が迫ろうというところで、隣に座る名取の様子がどうもおかしいことに気づいた。

 机の上にはノートの筆記用具のみ。両手を膝の上に乗せて、俯き加減に押し黙る彼女の顔は見るからに真っ青だった。

 国語の教師はオラオラ系の元ラグビー選手なので、俺が教科書を見せてあげなければどうなっていたか……考えるだけでも恐ろしい。


「うっ、そ、れは……」


 俺がそう指摘すると、図星だったのか、名取は表情を歪ませる。

 しかしすぐに取り繕うと、窮屈そうに胸の前で腕を組んで、これでもかと目をキリッとさせた。


「でも、教科書貸すからっていきなり女子の肩に手を置くのは、流石にデリカシーが無いと思うけど?」

「いや、だからあれは状況が切迫してたからであって……」

「男のくせに言い訳? それってダサくない?」

「ぐっ……」


 何も言い返せない。確かに名取の言う通り、教科書だけをスッと素早く机に投げ入れる方法もあったから。

 でもこっちだってテンパってたんだよ! 名取の順番は目前に迫っていたし、教師の目を逃れながらのミッションでもあったんだから!

 ……それに年齢イコール彼女なしなのか、あの教師は男女の隠れ蓑とかを過剰に目の敵にしてる節がある。もしバレたら連帯責任だ。

 でもさ、そんなリスクを負ってミッションコンプリートした訳だし、ちょっとはお礼を期待してもいいんじゃないですかね? と思うけど?


 しかしそんな俺の内心を読み取ったのか、名取は鼻を鳴らしながら文句を垂れた。


「そうやっていつも勝手に親切しちゃってさ……貸してやったんだからお礼くらい言えって何様のつもりよ?」

「いや、お礼言えだなんて一言も言ってねえんだけど。俺の気持ち勝手に代弁すんなよ」

「代弁も何も、結城くんの顔にそう書いてあるんだから仕方ないでしょ?」

「え、嘘? ポーカーフェイスには自信があったつもりなんだけど」


 ネトゲで鍛えた俺のカモフラージュスキルは完璧なはずなのに……まさか奴はBOSSなのか!?


 と、下らない思索に耽る俺をよそに、名取は得意げな表情で見下して言った。


「私を誰だと思ってるの? そのくらい、毎日のように見てれば余裕で分かるわよ」

「え、お前、そんなに俺のこと見てたの?」

「え? ……あ! いや、そ、れは……っ!」


 一転して表情を崩す名取。細めていた目は急に見開き、口をまごつかせながら必死に弁明し始めた。


「ち、ちがうから! 私右利きだからノート書いてると自然と顔が横に向いちゃって、そしたら教科書立ててウトウトしてる結城くんがいつも目に入っちゃう訳で……べ、べつに自分から見ようと思って見た訳じゃないから!」

「お、おう……そっか……」

「絶対勘違いしてるでしょ! 本当だから! 変な勘違いしてたらもう二度と口利かないから!」

「わ、分かった分かった!」


 鬼気迫る表情に気押されてしまい、俺はそう言って頷くことしかできなかった。

 美人は怒っていても絵になると聞くが……名取の場合は例外らしい。思わず足が竦んでしまった。


「ふんっ」


 恐怖を植え付けられた俺を差し置いて、名取は不機嫌そうに自分の席へと戻って行く。

 しかし途中で足を止めると、一度振り返り、こちらをチラチラと覗き込んできた。

 握られた拳に力が入り、ふと決心したかと思うと、直前で動作を止める。まるで俺に何かを言いたげな様子に見えた。


「な、なに?」

「……別に、何もない」


 結局何も言わず、名取は自席へと戻る。

 すると丁度次の授業の予冷が鳴ったので、俺も自席へと戻ることにした、が、頭の中に残るのは、先程見せた彼女の不可解な行動だった。

 いや、これだけではない。最近の彼女の行動はよく分からないことだらけだ。


 三か月前に転校してきた名取だったが、偶然後方の窓際席が空いていたため、その空席が彼女の自席となった。

 となれば当然、その隣の席に座る俺とも話す機会がある訳で……彼女の社交性の高さも相まって、瞬く間に親しい間柄になった。

 最初の頃は楽しかった。女子と話すのが苦手な俺とも優しく接してくれたし、好きなゲームの話とかも真面目に聞いてくれたし……ああ、この人は天使なんだと思った。

 けどある時から素っ気ない態度を取るようになり、次第に辛辣な言葉をぶつけることも増えて、天使と呼ばれていた頃とは程遠い存在になってしまった。

 クラスメイトらは「お前がなんかやったんだろ」と口を揃えて言うが……皆目見当もつかない。


 最初の頃はめっちゃ可愛いとか思ってたんだけどな……


「はぁ……」


 溜息をつくと同時に教師が教室に入ってきたので、そのままナイーブな気分で授業を受ける俺。

 しかしその間、時折隣から視線を向けられていたことに全く気づかなかった。







「あ、もうこんな時間か」


 学校から帰宅し、しばらくベッドで漫画を読んでいた俺は、自室に取り付けられている時計を見ると、そそくさと起き上がる。

 今日はある人物と約束をしている日だ。机の上に設置したパソコンを立ち上げると、スタート画面から最近ハマっているゲームをクリックして起動する。因みにそのゲームとは、レイドボスを討伐するもよし、釣りや農場経営をするもよし、対人戦やソロプレイも充実している、謂わば何でもありのオープンワールド系の人気ゲームである。


「ん? もう入ってるのか」


 フレンド欄のアイコンはオンラインを示していた。すぐさまパーティー参加を申請すると、相手方もすぐに承認してくれた。

 イヤホンを耳に装着し、俺はその人物に挨拶をする。


「ごめんちょっと遅れた―――」

「遅い!!」

「ん!?」


 慌てふためく女性の声。命乞いをしながら、必死になってキーボードをたたく音がイヤホン越しに伝わってきた。

 対する俺は、突然の出来事に困惑し、状況の理解に苦しんでいた。


「え、今どーゆー状況……?」

「もうイベント開始してるから早く来て―――って、あっ! ちょっ! まっ、それ駄目だって死ぬ、死んじゃう!」

「あ、そういうこと……」

 

 ゲーム内イベントが既に始まっているのだが、どうやら彼女は俺を差し置いて勝手にイベントに参加しているらしい。イベントは二人揃ってから参加しようってあれほど約束したのに。

 そんな自分勝手な彼女のアカウント名は「Ai@殺戮」。一カ月ほど前に突然DMで決闘を申し込まれて以来、なんやかんやあって意気投合し、今ではイベントで一緒に戦う仲間である。

 因みにどうして絡まれたのかというと、当時PVPで一位だった奴が俺こと「マッサー@フレ募集」だったから。なるほど、確かに喧嘩腰な彼女らしい。


 ……いや、ネトゲなら喧嘩腰な奴はいくらでもいるし、殊更気にする必要はないんだけど。


「ねえちょっとマッサー!? 早く参戦してよ! もうHPがヤバいから……ってああ!? ヤバいヤバいスタン食らっちゃったんだけど!?」


 あ、やべ、返事忘れてた。とにかく援護しなければ。


 怒られないようにすぐさま準備を終えると、俺は回復薬を持参して彼女に加勢する。今日の定期イベントはマンティコア討伐なので、複数人でとにかく多くのマンティコアを狩る必要があるのだ。

 それから一時間。イベント終了まで、彼女を要介護しながら、二人でリポップしたマンティコアをリスキルし続けていった。すると結果は八位。スタートダッシュし損じたにしては上出来な成績だった。


「あ~、つっかれた~」


 一時間に渡る死闘を終え、俺は背もたれに深く寄りかかる。するとAiが「お疲れ」とイヤホン越しに呟いてきた。


「あれ、珍しいね? Aiが人に対して労いの言葉をかけるなんて」

「……私を誰だと思っているのよ。頑張ってくれたんだから労いの一つくらいかけるわよ」

「そう? でもイベント終了後はいつも反省会と称して俺の文句ばっか言ってくるじゃん」

「うっ、そ、れは……」


 図星だったらしい。イヤホン越しでも伝わる程にAiは口をまごつかせていた。


「あと念のために言っておくけど、今回のイベントもキル数は俺の方が上だから。つまりAiの方が実力も発言力も地位も下の下―――」

「ああもううるさいうるさい~~! 私が悪かったですよ!」


 追撃をくらわすと、Aiは耐えきれず大声を上げた。さらには声を震わせながら「たかがゲームじゃん……っ」とガチ泣きする始末だった。いや、このくらいで泣くとか子供かよ。

 とはいえ俺も言い過ぎだったので、一応形としては謝った。なんでゲームの中で子供を慰めてるんだろうとは思ったけど。


「そろそろ落ち着いた?」

「うん……」


 そして数分後。ようやく落ち着きを取り戻したAiに、俺はひとつ疑問を投げた。


「で、いきなり俺を煽てようとしたってことは……何かしてほしいことがあるんだろ?」

「まあ、そんな感じ……」

「……また?」


 返事はなかったが、イヤホン越しに髪が擦れる音が聞こえた。おそらく頷いたのだろう。

 それに気づくと、俺は「またか……」とため息をついた。


 いつもの、というのは恋愛相談のことだ。

 どうやらAiには好きな相手がいるらしく、ネトゲで仲間となってから数回ほど相談相手として話を聞いている。言わずもがな、好きな人とは、ネット上ではなく現実での話だ。

 ……ただ、こいつの恋愛相談というのが少々厄介な話で、どんな感じなのかというと―――


「対面すると緊張しちゃって、またお礼が言えなかったのぉおおおお……っ!!」

「…………」


 ほとんどが愚痴であった。しかもかなり面倒なタイプの。


「えーっと? つまり、モノ貸してくれたお礼を言いたかっただけなのに、いざ好きな人の顔を見ると緊張しちゃって、つい突き放すような言い方をしちゃう……ってこと?」

「うん……」

「うんて」


 純情かよこいつ。もしや現代だとすごい希少な存在なんじゃないか?

 てかツンデレって現実に存在するんだ……なんて思っていると、Aiは恥じらいを含んだ声で話を続ける。


「だってカッコいいんだもん、あいつ。若干垂れ目だけど顔がシュッてしてるから全体的に顔が整って見えるし、天然パーマなんだけどボサボサって訳じゃないから……ああ、多分髪質に気遣ってるんだなって分かるし、授業中に頬杖ついて寝てるときなんて猫みたいで可愛いから無限に眺めていられるし。なのに私が困ってたらすぐに気づいて助けてくれるとかさ……もうズルいでしょ。顔も良いのに優しいとかズルじゃん……!」

「お、おう……?」

「他にもまだあるわよ? 肩を掴まれた時のゴツゴツした手先の何とも言えない頼もしさと言ったらもう―――!」

「いやいい! も、もう十分だから!」


 次第にヒートアップするAiの惚気話を半ば無理やりに話を切り上げると、彼女は若干物足りなさそうにして唸っていた。

 ……いやお前、いくらなんでも本筋から逸れすぎだからな? 誰がお前の惚気話を聞きたいって言ったよ?

 この前だってそうだ。好きな人から挨拶されたときでも緊張せずに返事できるコツを尋ねられたと思ったら、気づけばただの初恋エピソードを赤裸々に語るのみで、俺にとっては遠い目をするような時間を過ごした。

 結局その挨拶云々がどうなったのかは知らんが、この感じだと失敗したんだろうな。うん。


「はぁ……」


 元々はゲームをする目的で集まったというのに、気づけば恋愛相談がメインと化しているし……ああ、さっさと告白でもしてもらって、その男と付き合ってくれた方がゲームが捗って助かるんだけどなあ。

 というよりも、そんな超絶完璧男が果たして本当に存在するのだろうか。もしやフィクションとノンフィクションの区別がついていないのではとさえ疑ってしまう。

 でも、これまでに何回か話を聞いた限り、その男はどうやら本当に存在するらしい。もしそんな完璧超人がいるのなら、是非とも一度会ってみたいものだが……まあ、俺が嫉妬するくらいのイケメンなんだろうな。此畜生め。


「マッサー? 聞いてるの?」

「え? ああ悪い……」


 突然耳元でプレイヤー名を呼ばれてドキッとする。しかし咄嗟に表面上を取り繕い、「ちょっと考えことしてた」と付け加えると、俺は話題を元に戻した。


「で、話戻すけどさ、お礼伝えたいだけだったら、普通にLINEで送れば良くない? それだったら面と向かわずに言えるだろうし」

「む、無理よ……もしそれで送ったとして、次の日どんな顔して学校で会えばいいか分かんないもん……」

「だから純情か」


 いかん、ついツッコんでしまった。

 しかしAiの耳には届いていなかったようで、ひとまず安堵する。一度咳ばらいをすると、俺は代替案を提示した。


「まあなんだ……そんなにAiが無理だっていうなら、別にわざわざお礼する必要なんてないんじゃないの?」

「そんなのいや! このまま勘違いされたまま嫌われたくないし、悪い印象は早く払拭しないと!」

「じゃあウジウジしてないですぐに行動すればいいのに」

「うっ、そ、れはそうだけど……」


 相変わらずAiは煮え切らない態度を取る。先程までのゲームでの威勢はどこへやら、今では声にも力が入っていないようにすら感じられた。

 ちょっと強く言い過ぎたかなと反省していると、何か閃いたのか、Aiが突然探るような口調で問いかけてきた。


「じゃあマッサーだったら、何されたら嬉しい?」

「え、俺?」

「マッサーも男子でしょ? となれば女子から何されたら嬉しいか分かると思うし、男子の好きそうなことを実践すればお礼も多分上手くいくかなって」

「そう言われてもな……」 


 顎に片手を添えて、少しばかり考えてみる。

 女子から特別何かされたことのない俺が何を閃けば良いのやら……というか一概に男子を一括りにするのもどうなんだ? まあ、細かいこと気にしてても面倒だから、深くは考えないようにするけど。


「俺は甘いもの貰ったら嬉しい、かな?」

「甘いもの……」

「いや、あくまでも俺基準だぞ? 当人が甘いもの好きかどうかは分からんし」

「そんくらいちゃんと分かってるって。私を誰だと思ってるのよ?」


 本当だろうかと心配になるが、その言葉を最後にAiのボイチャは途切れ、次いでアカウント画面はオフラインに切り替わっていた。

 自分勝手な奴だな、と思いつつも、まあいつものことかと諦めて、俺も同様にゲームを終了した。


 そして翌日。いつものように俺は欠伸をしつつ登校したのだが……


「結城くん」


 自席に辿り着くや否や、既に登校して席に座っていた名取が、視線は窓際に向けたまま、頬杖をついた状態で俺を呼んできた。


「おお、おはよう名取。お前から先に声をかけてくるなんて珍しいな」

「何? 先に声かけたらいけないの?」

「え? いや、そういう訳じゃないけど……」


 相変わらず喧嘩腰だな、なんて思っていると、数秒の沈黙の後、ふと名取が立ち上がった。

 その手の中には包装紙で包まれた小袋があった。疑問に思っていると、名取は俯き加減にその小袋をこちらへと無理に押し付けて、そのまま何も言わずにスタスタと教室を後にしたのだった。


「え、なんだったんだ?」


 一連の流れに困惑しつつも、取り敢えず俺は半ば無理やり受け取った小袋を開けてみる。すると……


「お菓子?」


 一口サイズのチョコクッキーが数個、小袋の中に入れられていた。どれも形としては奇形で、潰れているものや、凝固しきれていないせいでボロボロと袋底に零れ落ちているものがほとんどだった。

 しかしその中でも一際目立つ紙切れを発見すると、俺は綺麗に折り畳まれたそれを丁寧に開いた。

 書かれていたのは「教科書貸してくれてありがとう」という陳腐な一言。暫くの間立ち尽くしていた俺は、それが意味していることにようやく気がつくと、


「へ……?」


 自分でも驚くくらい、素っ頓狂な声をあげていた。

 






 教室を飛び出してすぐ、廊下の隅で息を切らす女子生徒の姿があった。

 勿論、走り回った訳ではない。ひとつの大仕事を無事に終えた達成感から、弛緩した緊張が熱へと変わり、間もなく全身に伝播していった結果だった。

 その女子生徒の口元にはほんのりと笑みが浮かんでいる。それは決して取り繕ったものではない。心の奥底から沸き立つ感情が、はち切れんばかりに溢れ出した末のものであった。


 次いで顔を上げると、そんな様子の女子生徒は、誰もいない早朝の廊下でひとり、静かに胸の内を晒した。


「や、やった……渡せた……私、ちゃんと渡せた……っ!」


 いつまでもドキドキが収まらない。

 たかが声を掛けただけ。たかがお礼をしただけ。傍から見ればそう思われると思う。

 でも私にとって、そうすること自体がとても勇気のいることだから、今だけは自分を褒めてあげたい。

 だって初恋なのよ? それなら絶対に成就させたいに決まってるじゃない!


 思わず「ふふっ」と笑みが零れる。

 どこか心が疼くような、自分でも上手く説明できない高揚感がとても心地良くて……図らずも初恋を自覚した頃の初心を思い出してしまった。

 少しでも長く、結城くんを目に焼き付けたい。そんな些細な欲求に突き動かされてしまえば、「恋は盲目」という言葉も信じざるを得なくなる。ほんとは信じたくないけど。


「見た目が酷いけど味は確かだし……それに隠し味って意味じゃないけど手紙も添えたから、悪いイメージもきっと良くなるはず……!」


 転校してきた当時は気兼ねなく話せていたのに、今では結城くんとまともに話せない。それほどに不器用な自分は、きっと彼を不機嫌にさせてしまっているだろう。

 だからこそ、しっかりとお礼をしたい。そんな想いを込めてお菓子作りに励んだのだから、きっと彼も喜んでくれる!


 これも全てはマッサーのおかげ。いつも恋愛相談で的確なアドバイスをくれる彼の存在に、私はいつも助けられてきた。

 元々は結城くんと話す口実が欲しくて始めたゲームだったけど、そこで出会った人物がマッサーで本当に良かった。

 今夜ゲームするときにちゃんとお礼を言っておかない、と……


「……あれ?」


 でもこの後って普通に学校あるよね? なんならもう五分後にはホームルームの予冷が鳴るし。

 となればつまり、すぐにまた彼と顔を合わせる訳で……あれ?

 

 私、どんな顔して結城くんと会えばいいの……?


「…………」


 避けられない運命に気づいた瞬間、全身からスッと血の気が引いた。

 え、これってマズくない? 渡すことに精一杯で、この後のことなんて全く考えてなかった……


「ど、どうしよう!? このままじゃ絶対勘違いされる! いや勘違いしてほしくない訳じゃないんだけどそうじゃなくて……べ、べつに勘違いしてもらっても構わないというかその……あれ? 自分でもちょっとよく分かんなくなってきた……!」 


 その場にうずくまると、焦りのあまり、私は両手で頭をわしゃわしゃさせていた。

 脳内を支配していたのは「ヤバい」という言葉のみ。髪型が崩れるとか制服が型崩れしちゃうとか、普段は神経を尖らせている身だしなみに構う余裕すらなかった。

 

「……なにやってんの名取?」

「ふぇ?」


 でもそんな時だった。突然名前を呼ばれた私は、素っ頓狂に上ずった声をあげながら、その呼ばれた方へと振り向く。

 そこにいたのは―――まさかの結城くんだった。


「え、な、なんで結城くんがここに?」

「いや、もうすぐホームルームだってのになかなか帰ってこないから、ちょっくら探そうかと思って……」

「え―――」


 私を連れ戻すためにわざわざここまで? そ、そんなの……まるで白馬に乗った王子様みたい……


 と、アホ(?)みたいな夢心地に浸っている片割れはさておき、相対する彼は、一度咳払いをすると、訝しげな様子で尋ねてきた。


「で、なにやってんの名取?」

「ふぇ!?」

「だってこんな場所でうずくまって頭わしゃわしゃしてるんだぜ? 流石に変だろ」

「そ、れは……」


 一転して夢から覚めるような追撃を食らう。変な奴だと勘違いをされたくなかった私は、慌てながら立ち上がると、すかさず腕を組み、精一杯の威勢を張って対峙した。


「べ、べつに変じゃないし! 制服のボタンが取れそうだったから応急処置として髪の毛を糸代わりにしようかなって考えてただけだから!」

「えぇ……? サイコだろお前……」

「あ、いや違うよ!? 本当はそうじゃなくって―――あ、ヘアゴム! そう! 鬱陶しかったから髪を束ねてたの! うん! これなら変じゃない!」

「そ、そう……」


 無理やりだったかと危惧したが、結城くんは首を傾げながらも納得の色を見せた。どうやら貫き通せたらしい。ひとまず安堵する。

 次いで、虚言にならないよう、制服のポケットからヘアゴムを取り出して、後ろ髪をひとつ結びで束ねる。これでもう安心だろう。


「ほら、さっさと教室に戻るわよ。結城くんと話してたせいでホームルームに遅れたら嫌だもの」

「相変わらず喧嘩腰だな……まあいいけどさ」


 後ろ髪を束ね終えた私は、そう言って教室に戻ろうとする。

 どんな顔して会えばいいかと悩んでいた頃の私はどこへやら、気づけばいつも通りの威勢を取り戻し、結城くんもまた平常運転の様子であった。

 彼が来てくれた時は流石に驚いたけど、ある意味ラッキーだったかもしれない。そのおかげで普段通りに戻れたのだから。

 と、そんなことを考えながら私は踵を返して―――


「……悪い。本当は黙ってようと思ってたんだけどさ、やっぱ言うわ」

「え?」


 ふと結城くんがそんなことを言った。

 やけに真剣な表情を向けてくる。その見慣れない一面に思わず目を見開いていると、彼は息つく暇もなく傍に寄って来て……そして、静かにこう告げた。


「お前“Ai”だろ」

「……へ?」

「しらばっくれんなよ? こっちはもう確信してんだよ」


 え、えと、どういうこと? 彼は一体何を言っているの?

 だって“Ai”って名前はネトゲでのアカウント名であって、一か月前に始めたばかりの初心者かつ、最近になってランキングに乗るようになった程度のレベルなのだから、結城くんが知ってる訳ないのに。というかそもそも前提として、私がネトゲをプレイしていること自体知らないはずなのに。


 それこそ、唯一のフレンドである“マッサー”でない限り―――


「……え? い、いやいや、そんなことあるはずが……」

「……良かったな、甘いもん渡せて。こっちも恋愛相談に乗った甲斐があったよ」

「!? そ、れは……っ!?」


 紛れもなく昨日の会話。他の誰にも明かしていない、決定的な証拠であった。

 となれば即ち、あんなことやこんなことも筒抜けだということ。私が結城くんを好きだということも、全部―――


「あ、ああ……」

「ごめん。まさか“Ai”が名取だったとは思ってなくて……その、ほんとごめん」


 すごく申し訳なさそうにして結城くんは謝ってくる。

 でも違うの。視線を逸らす彼の優しさが、ただでさえ爆発しそうな羞恥心にますます拍車をかけてくる。

 つまるところ、心中は穏やかなんてレベルじゃない。顔が熱い。冷静さを保とうなんて無理。てかもう駄目、恥ずい! 恥ずか死ぬっ……!


「あ! おい、ちょっと待て! どこ逃げるつもりだ!?」

「いや! 手、離して! もう無理だから!」


 この場から逃げようとした私を、結城くんは手を掴んで死守する。

 でも今だけは見逃してほしい。だって無理なものは無理! どんな顔して結城くんと話せばいいか分かんないもん!


 でもここが羞恥の限界点ではなかった。逃げようとする私の手を掴む結城くんは、慌てた口調で言った。


「少しは俺の話も聞いてくれよ! まだ伝えてないことがあるんだ!」

「なによ! どうせ私のこと馬鹿にしてるんでしょ!? 好きな人に恋愛相談しちゃうようなお馬鹿さんとか思ってるんでしょ!?」

「違うって! 俺はそんなんじゃ……ああ、もう! 一旦落ち着け!」


 そう言われると同時に、ふわっと身体が浮いた感覚に襲われる。何が起こったのか分からず困惑していると、今度は強い衝撃が顔の横で広がった。

 気づくと目の前には結城くんの顔があって……と、そこでようやく理解する。今、私は壁ドンをされているのだと。


「自分勝手なのは結構だけどさ、たまには俺の話も聞いてくれよ……」

「あ、う……」

「名取のことはさ、正直いけ好かない奴だと思ってたんだよ。いつも喧嘩腰だったし、助けても文句しか言われないから」


 ヤバい。顔が近いせいで、それどころじゃない。結城くんのワイルドな一面なんて初めてだから、余計に緊張しちゃって……ああ、もう無理。すぐにでも逃げたい。


 しかしその直後。彼がしどろもどろに発した言葉を耳にすると、私の理性は見事にオーバーヒートしてしまうのであった。


「でも、なんでそんな態度取られてたのか知っちゃったらさ……そんなん好きになるに決まってんだろ」

「ふぇっ!? す、好き!?」

「言っとくけど嘘じゃないから。本気で言ってるからな」


 そう告げる結城くんの真剣な表情を目の当たりにして、私は堪えきれず口をまごつかせる。

 色んな感情が一気に押し寄せてきて、今にも溢れ出しそうで……最早、目をぐるぐるとさせながら「あうあう」しか言えない小動物と化していた。

 

「……あの、一回だけ、叫んでも、いいです、か?」

「流石に止めてくれ。俺だって叫びたいの必死に我慢してるんだぞ……」

「あ、う……」


 なんとも言えない空気感の中、二人して俯く。互いに赤面していると分かるからこそ、尚更目を合わせられなかった。

 気まずいなんてレベルじゃない。死んだ方がマシという表現すら生ぬるい。互いのメンタルは、もう崩壊寸前だった。

 

「…………」

「…………」

「……じゃ、じゃあ、付き合う?」

「あう……」


 ホームルームの予冷が鳴り響く廊下。そんなやり取りをした後に、二人は付き合い始めるのであった。

 ……その後の教室。やけに余所余所しくなった二人を見て、クラスメイトらが困惑したのは、また別のお話である。

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