悲運の今川家
「御館様、今年の作柄は……」
「うむ、すでに報告を受けておる。困ったことになった」
仮に豊作であっても餓死者は出る。戦国期、他領への遠征は略奪と口減らしが理由でもあった。
一例をあげると、上杉謙信の関東遠征もそれが理由であり遠征から戻った折には本拠の春日山城には人買い商人が列をなしたという。
そしてこの年の今川領内の作柄は悪かった。他領より買い付けようにも近隣も同じような状況で、同盟を結んでいなければそれこそ攻め入ることも辞さずと言った情勢なのである。それはお互いさまでもあったが。
現状の今川家として、武田とは同盟を、北条とは講和による不戦協定が結ばれていた。このあたりのバランスは難しく、仮にどちらかに攻め寄せたとして、そうするとほかの2家の連合を誘発する。そうなれば反撃を受け衰退する羽目になるであろう。
「西で動きがあったようにございます」
「申せ」
「大和守家と伊勢守家で抗争があり、大和守家の織田弾正忠が勝利した由。犬山、岩倉は陥落し弾正忠家の所領となったとのこと」
「……信秀めがやりおったか」
ここ数年で尾張国内で勢力を伸ばした弾正忠こと織田信秀は三河でもその威を振るっていた。
勢力としてみるならば近隣の武田、北条と比べて弱小と言えるが、流民を銭で糾合し、傭兵としてまとめ上げては、自らの所領の動員限界を超えた兵力を常に動かす。
三河に勢力と伸ばさんと幾度かぶつかり、苦杯をなめていた。
「仮に弾正忠が勢力を伸ばしたとて、主である大和守がそのままにはするまい」
「はっ、間者を増やし情勢を探らせます」
家臣を下がらせた後、別の報告書に目を通した。尾張では収量を増やす技術が開発されたようで、一部の村で本来あり得ない量の年貢が納められたと報告が上がってきていた。
「そのようなことができることなのかわからぬが、もしその技術を入手できれば上洛も果たせよう」
同時に尾張の脅威度が上がっていくことも明白だった。弾正忠家の勢力が上がれば三河で受けている圧力がさらに上がることとなる。
しかしそれは背後に仮想敵を抱える弾正忠家の限界も示していた。
その年は何とか食料の買い付けに成功し、餓死者は最低限とすることができたと思えた。しかし今川家の財政は大きく圧迫されることともなった。
「ふむ、金山の採掘量を増やせぬか?」
「はっ、現地からは人手が足りぬと報告が上がってきておりまして……」
「罪人を送り込め」
「ははっ!」
尾張では再び動きがあった。武衛が押し込められ、大和守が武衛の名を騙って尾張を差配しようとしておる。さすがに武衛の名は相応に効果を発揮したようで、前年攻め取った犬山と岩倉が背き、内部でも騒乱を何とか抑え込んでいるという。
「解せぬな」
「まったくにございます」
報告書を読みつつぽつりと漏らした一言に雪斎が応える。
「方策としてはわからぬでもない。だがあまりに信秀にしては対応が後手に回りすぎておる」
「でありますな。さらにはかの信光が裏切って清須に入ったなど、にわかに信じられませぬ」
「埋伏の毒であろう」
「これまでの信秀からはちと変わった手でありますな」
「うむ、ここ数年で弾正忠家に新たに召し抱えられた者の中に相当の知恵者がいるとみてよかろう」
「であれば、その者を討つか寝返られることができれば……?」
「尾張は獲れると考えてよかろう」
飢饉で荒れた村を立て直し、再び内政を進めているが、今年の作柄もあまりよくない。そして去年は買い付けが何とかなったが、二年連続の不作で買い付けもおぼつかなかった。
「御館様。尾張の騒乱は決着がついたようにて」
「信秀の勝ちであろう?」
「はは。那古野に攻め寄せた大和守ですが、嫡子の信長が見事な采配で倍の兵を支える間に側面に回った信秀本隊が大和守本隊を強襲したとのこと」
尾張の絵図面にコマを置いて戦いの模様を再現してみる。そこにはうつけと呼ばれた信長の見事な采配が浮かび上がった。
「これはうつけにあるまい。信秀よりも器量は上かも知れぬ」
「まこと油断ならぬ将にございます」
雪斎と危機感を募らせる。尾張は産物が多く、商業も盛んで強国と言っていい力があった。それゆえに幕府の重臣である斯波武衛家に与えられていた経緯がある。
斯波家と今川家は幾度となく干戈を交えた因縁があり、和睦となっても難しいであろう。
しかし、尾張は信秀のもとに一本にまとまった。さらに跡継ぎも武功を立て、うつけの悪名を払しょくしつつある。
重苦しい気分を抱える年末に更なる凶報が入った。疫病の蔓延である。高熱を出した村人がバタバタと倒れ、苦悶の後に死に至る。
対応に追われる中、雪斎が覚悟を決めた顔で提案してきた。
「奇貨居くべしと存ずる」
「……地獄に落ちるぞ?」
「今川家のおんためならば、それも辞さず」
「すまぬ。我も地獄にてその責め苦を分かちあおうぞ」
「いえいえ、御館様には浄土より糸を垂らしていただかねばなりませぬ」
「なに、家督のために兄を誅しておる以上そのような望みは無理であろうよ」
雪斎の策は、疫病で死んだものを黄泉返りの邪法を用いて死人の兵を作り上げると言うものであった。
「注進! 尾張にて弾正忠が疫病に倒れ重篤、嫡子信長と弟の信勝が兵を二分していくさに及んでおると」
あまりに都合の良い展開に笑いそうになった。
隣に控える雪斎を見る。邪法など用いずに今こそ兵を出すべきではないか?
「一度ならば攻め寄せることもできましょうが、そこで万一にでも敗れたならあとがありませぬ。当初の策通り動くべきです」
雪斎の言うことはもっともだ。大軍を動かすには恐ろしいばかりの物資を必要とする。人の糧食や駄馬の秣。野営の陣幕や水もいる。連年の飢饉で今川にそれだけの余力はない。
しかし死人であればまず食事がいらない。恩賞も不要なら術が解ければそのまま土に還る。
不利益と言えば……使者を冒とくしたという悪名であろうか。それすら雪斎が背負うという。
老臣の一人朝比奈泰能が雪斎の補佐に回るという。すでに寿命が尽きかける歳なれば死人の一人として扱ってほしいと。
そして彼らは三河へ向け出撃した。街道を進むにつれ、死者の数は増えていく。魑魅魍魎の百鬼夜行のような光景であった。
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