山姫神語

@mizuyaray

第一章

 桜の蕾の綻びはじめた里山の参道を水甕を手に乙女たちが登っていく。

 霞にけむる暗い木立に朝日が刺し、長い袖や裳裾を白く輝かせる。粛々とした仕草と健脚から少女たちは遠目にはまるで山肌を滑るように見える。

 橘の水門から汲んだ海水を女手で山へ運ぶ――毎朝繰り返される神阿多の光景だった。

「あッ」

 しんがりをつとめる一人が石段を踏み損ねた。手にした甕から水滴が飛び散る。

 前方を歩く少女たちが振り返る。

「ごめんなさい。ちょっと足を滑らせただけ」

 咲耶は気まずげに甕を抱え直した。落として割らなくてほんとうによかった。

「怪我は?」

 一番先頭を歩いていた少女と目が合う。気遣わしげな、それでいてわずかな批難をまじえた表情の娘は、咲耶とひとつの桃の実を切り分けたようにそっくりだった――双子なのだ。

 山津見一族の長の娘、それが石長と咲耶の双子姫だ。瓜二つの顔の造形にくわえ、髪も同じ長さに切り揃えているため、初見だとまったく区別がつかない。

 だが、神阿多で二人を取り違える者はまずいなかった。姿形こそ見分けがつかないものの、醸す雰囲気がまるで異なるからだ。

 姉の石長姫は沈着冷静で毅然としており、妹の咲耶姫は穏やかながらそそっかしく、態度にも表情にもそれが顕著に表れていた。

 再び一同は参道を歩きだした。

 栗林を抜け、あたりに注連縄の張られた楠の巨木が目立ち始めると一行の目指す目的地はすぐだった。

 山の中腹に佇む小さな拝殿、その奥にうっかりすると見過ごす小さな洞穴があった。

 拝殿一帯の下生えは刈られているが、岩肌を這う蔦に入口がうまい具合に隠され、巧妙に秘密を守っていた。

 入口こそ狭いが、中は存外広々とし、天井の岩の割れ目から光が漏れるので真の闇というほどもない。

 薄暗がりに目が慣れると洞穴の中央に岩座が蹲るのが見える。

 地中から高杯が生えでたような不思議な岩石だった。真ん中の窪みには海水が湛えられ、水鏡になっている。咲耶たちが苦労して海水を運んできたのはこの水盤を満たすためなのだ。

 阿多に限らず日向の山はそこここに泉が湧き、沢や滝を豊富な真水が流れている。水盤を満たすためだけに海から塩水を毎日運ぶ行為は一見不可解だが、これには重要な意味があった――水盤の底に沈んでいる潮乾珠を鎮めるためなのだ。

 山津見一族が綿津見一族と結んだ盟約の証――潮乾珠――この宝珠を護り祀りつづけることこそが、山津見一族の女たちの使命なのだ。

「咲耶、どう?」

 妹の戻りが遅いので外で待っていた石長が入ってきた。

 洞穴の出入口は人ひとり入るのがやっとの大きさなので、基本的にはひとりずつ出入りする。大勢が入口に殺到するのを防ぐならわしだった。

「……今日も潮乾珠は綺麗だなぁって」

「潮乾珠はいつも綺麗よ。わたくしたちが祀りを怠らないかぎり」

 石長は妹の肩を抱くとふたりして水底の宝玉に見入った。

 潮乾珠は海水を注ぐとそれ自体が淡く光る。光を反射するのではなく、内側から泡がはじけるように青く光りだすのだ。

 それは浅瀬の翠ではなく、もっと遠く見晴かす沖の深い碧をしていた。

……わたくしたち山津見の娘がいくら望んでも行くことのあたわない海の色を宿すなんて、皮肉な珠。

 耀きに魅了されながらも咲耶は少しく残念に思う。

 姉に言ったら一笑に付されるだろうとわかっていたので口には出さなかったが。

「もう充分済んだでしょう。みんなを待たせてるわ」

 肩をゆすって姉が促すので咲耶はしぶしぶ外界に戻った。

 薄暗がりとはいえ昏さに馴染んだ目に日差しが痛い。

 目眩を覚えた咲耶は姉とともに娘たちの最後尾に連なった。




 からになった甕は軽く、復路をくだる娘たちの足どりも軽い。神域では静粛にと大人たちに釘をさされてもそれができない年頃だった。行きと違い縦列は乱れ、仲のいい者同士かたまって三々五々歩いていく。

 咲耶は最後尾についた姉の更に数歩後ろを歩いていた。後ろを振り返り振り返り歩いてしまうのは、潮乾珠が名残惜しいからだ。最早木立に阻まれ、拝殿すら見えなくなっているというのに。

 海神の宝というより、海そのものへの憧れが咲耶にはある。

 神阿多の女たちは海に出るのを戒められている。浅瀬で波と戯れたり潮干狩りをしたりといった程度なら問題ないが、足のつかない深さより先にはたとえ舟でも行ってはならない。

 漁撈を生業とする者はまた別にいて、咲耶たちが運ぶ海水を汲みあげて用意するのも彼ら鹿児の民だった。

 鹿児は、かつて大山津見に浜辺で助けられた牝鹿の子孫だと言い伝えられている。

 半島から海を渡って阿多の地にやってきた牝鹿は、鮫に毛皮を剥ぎ取られ泣いていたところ、大山津見に傷の手当を受け、夏毛を授けてもらった。以来鹿児の子孫は山の神の子孫に仕えながら海の仕事に従事するようになったそうだ。

 山津見の子孫は山を、鹿児の子孫は海を領分とし、互いにそれを侵さない。

 だからこそなのか、咲耶は山頂や岬から見渡す海にとめどない憧れをいだいていた。

 あの水平の彼方には何があるだろうか。想像するしかないから、まだ見ぬ世界への憧憬は尽きなかった。

 通いなれた道の何度目かの曲がり角で咲耶は完全に少女たちの一郡を見失った。この先で合流するのはわかっていたので別に焦りはない。

 むしろひとりになりたかった。みんなのいる前で姉と一緒だとどうしても比べられているようで居心地が悪い。

 大人たちは口を揃えてふたりが瓜二つのまたとない美姫だと褒めそやすが、咲耶自身はそう思わない。

 双子といえど顔の造作は微妙に違う。姉が磨き抜かれた宝玉のような美貌だとすれば、咲耶の目鼻立ちはややあやふやで間延びして見える。

 加えて咲耶は石長姫のような毅然とした立ち振る舞いも苦手で、もっと威厳を持てと母の大山津見から小言をもらうが、どうすれば威厳が持てるのかがわからなかった。

 そもそも威厳や風格といったものは他人が勝手にその人の中に見出すものであって、領布のように手に持つことも身に纏うことも叶わないではないか。咲耶は内心反駁するも、これが屁理屈なのはわかっていたので口には出せなかった。

 考え事をしていたせいか、咲耶がそれに気づいたのはだいぶ後からだった。

 明らかに自分の足音ではない朽葉と下生えを踏みしめる音がこちらに近づいていたのだ。

 鹿ではあれば恐れるほどではない。彼らは臆病なので人に出逢えば自ら逃げ出す。だが猪や熊だと厄介だった。

 山道を駆けくだるか、身を潜めるか、躊躇ったわずかな間に手遅れな距離まで気配が迫った。

「こんなところに人がいる」

 思いがけず近くから声がした。

 埃にまみれた男が木立の陰から現れた。髪を角髪に結い、杣人のような毛皮を着込み、背に大きな荷駄を負っている。

 くたびれた格好に似つかわしくない無邪気な顔をしていると思った。山中で咲耶に出逢い、面食らっただけかもしれないが。

 男の背後から更に大柄な男が現れて言った。

「われらの道行を見られた。どうします、殺しますか?」

 咲耶は震えあがった。この男たちは山賊だ。よりにもよって山津見一族の神域で殺生の相談をしている。

「馬鹿、そんなことをしてなんになる。それよりも里への道案内を頼むべきだろう」

 手前の男がたしなめるように言った。

 目配せした男たちが再びこちらに向き合った時には咲耶は脱兎のごとく坂をくだっていた。




 麓につくより先に先行する少女たちに追いついた。

 咲耶は走りながら姉の姿を認め、あやまたず腕に飛びこんだ。

「咲耶!?」

 石長が長い睫毛をしばたく。

 姉の華奢な腕にすがり、息を整えながら、咲耶は言った。

「賊が――山賊に遭ったの。わたしを殺すって――今すぐ山へ人をやって――」

 妹のただならぬ様子にさしもの石長も危機を察した。

「怪我は? 何もされなかった? 賊の風体は?」

 石長は妹の肩をつかむとむしろ己に言い聞かせるように問いかけた。

 この頃には異常を察した娘たちが二人のまわりに集まりだしていた。

「石長姫」

 最年長の大市姫が声をかける。

「ひとまず大山津見さまのもとへ行きましょう。ここで立ち話をしていてもらちがあかないわ」

 穏やかな低い声にたしなめられ、石長もすぐいつもの冷静さを取り戻した。

「それもそうね。みんなは家へ戻って、念のため家族へ伝えて。今日は山へ入らないようにと」




 大山津見の御館は山を背に建てられた阿多でも珍しい高床の建物だった。

 山裾の近くまで浅瀬の迫った一帯を阿多と呼び、さらに御館の周囲を神阿多と呼ぶ。阿多の地を治めるのが、咲耶たちの母でもある大山津見・鹿葦津姫だった。

 娘たちが走り込んできた時、鹿葦津姫は長狭彦と庭先で話し込んでいた。

 裾を乱して山から駆けてくる娘たちに呆れて注意しようと身構えた鹿葦津姫だったが、ふたりの緊迫した表情が確認できる距離に迫ると考えを改めた。

「賊が――」

 初めに口をひらいたのは石長だった。

「咲耶が御山で見知らぬ男を見たって。そうよね咲耶?」

 石長はそれとなく「賊」を「男」と言い換えた。もしかしたら単によそ者が山に迷い込んだだけかもしれないと思い直したからだ。

「なんだと」

 母より先に伯父が鋭く反応した。

 長狭彦は山仕事や狩りに携わる男たちのまとめ役でもある。自分の縄張を侵犯されたと感じるのも無理はない。

「それは真事か咲耶」

「ええ、わたしに見られたから殺すって……」

「どんな風体の輩だ? 人数は? 武器は持っているのか?」

 伯父に畳みかけられるうちに咲耶も息が整い、ようやくまともに話せるようになった。

 恐怖が潮のように引いてしまうと、果たして彼らがほんとうに残忍な山賊であったかどうか、自信がなくなってきた。

 確かに物騒な物言いだったが、里の血気盛んな若者もそれくらい乱暴な脅し文句を使うものだ。

 咲耶はできるだけ私見をまじえず男たちの様子を語った。

「なんと……」

 話を聞き終えた伯父は顎髭を撫でつけながらしばし黙り込んだ。

「それが本物の賊なら捨ておけんし、単なる旅人だったとしても御山をうろつかれては寝覚めが悪い。腕の立つ者を何人か集めて山狩りを行おう」

 言うが早いか彼自身も山刀と弓矢を携え、屈強な面子をしたがえて山へ向かった。




 男たちが出払ってしまうとあたりは妙に静かになった。

「咲耶、あなた袖をどうしたの」

 母から指摘され、左袖が大きく裂けているのに今頃気づいた。無我夢中で走るうちに枝かなにかにひっかけたようだ。

「あら……今から繕ってきます」

「そうなさい。神御衣を粗末に扱ってはなりませんよ」

「はぁい」

 ぱたぱたと遠ざかる咲耶を尻目に鹿葦津姫はやれやれと溜息をついた。

 気立ては悪くないが、どこか抜けているのが咲耶という娘だ。母親として子に優劣をつけてはならないと思ういっぽうで、我が子を次の族長に育てあげなければならない立場上、期待をかけるのは姉の石長姫ばかりになってしまう。

「咲耶はあのとおりだから、あなたが見守ってくれて助かるわ。これからも頼むわね」

「もちろんです、母上」

 石長が答えると鹿葦津姫は少し表情を和らげた。




 勇んで山狩りに出向いた長狭彦たちは拍子抜けするほどすぐ戻ってきた。

 報せを受けた鹿葦津姫が出迎えると兄たちは見慣れぬ一行を連れていた。

 鹿葦津姫が口を開くより先に長狭彦は興奮気味に言った。

「紹介しよう。この方々は瑞穂の国より参られた王の御使いであらせられる」

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