第16話〈宇都宮城下、面会準備〉

『実なし銀杏』を見て、祇園城の本丸もチラ見した。


 そしてそれから3刻ほど歩き続け、ようやく宇都宮に到着した。


 太陽はギリギリ持ち堪えてくれて、宿を見つけた頃には沈んでしまいそうだ。


「日暮れまで時間が無いし、すぐに宿探ししようか」


「そ、そうね……」


 湯屋の近くにある宿がいい。流石に風呂がついている宿は一泊あたり超高額だろうし。


「あ、あそこなんかいいんじゃない?」


 伊能ちゃんが指さす先には、それなりに大きい建物があった。宿屋の看板が出ている。


「この通りを戻ったところに湯屋があったし、割引券も貰えるんじゃないかしら」


「ならここに決めちゃおうか。部屋が空いてるといいんだけど」


 それなりに大きい建物、ということはそれだけ多くの人が泊まる場所、ということだ。


 最初の将軍である家康さまに仕えたという本多正純さんが、ここ宇都宮を二本の街道との連結地にふさわしい宿場町にする事業をしてくれたおかげで、今でも江戸近くの大きな宿泊地として発展している。


 俺たちも利用するように、他の旅人たちも数多く利用しているのだ。


「部屋は空いてますか?」


「空いてるわよー。適当に鍵とか持ってって」


 ……かなり大雑把な店主らしい。


 壁にかけられた鍵を一つ適当に手に取り、ついでに銭湯の割引券も貰っていく。当然、割引券は2枚だ。


「そいじゃごゆっくりー」


 右手をひらひらやって、女店主は本を手に取った。接客してくれよ……。


 鍵に対応する部屋に着くと、そこは思った以上に新しい雰囲気だった。


「意外に天井も畳もきれいね。最近入ったのかしら?」


「そうだね。あんな感じの店主だったからどうかと思っちゃったけど、多少信頼してもいいのかも」


 戸を完全に閉めて、伊能ちゃんと二人だけの空間を作る。


「…………はあぁぁぁ」


 全身をしぼませるほどの勢いでため息をつく伊能ちゃん。背中のプラネを下ろさず畳にへたり込んでいる辺り、相当疲れている感じだろう。


「大丈夫? 伊能ちゃん」


「……やっぱり、偉い人と会うのは緊張するわね」


 自虐するように笑う伊能ちゃん。


 江戸城に連れて行かれた時も、最初はかなり緊張してたしな。……まさか緊張のせいで逆に頭が冷静になって、卑屈な感じになるとは思わなかったけど。


「伊能ちゃんだけじゃないよ。俺だって緊張くらいするし」


「ううぅ……エイぃ……」


「ほら、早めにお風呂行こ。部屋に戻って来たら、明日のために早く休もう」


 荷物を下ろした俺に続いて、伊能ちゃんも背中から荷物を下ろす。気分的に隅に寄せてしまうのは、他の人に迷惑をかけないようにと考えてしまう癖だからだろうか。


 銭湯用の物を一式持って、伊能ちゃんの準備を待つ。


 部屋の鍵を閉めて、きちんと携帯しておく。それと一緒に、銭湯の割引券も忘れずに持つ。


「これで良し。じゃあ、行こうか」


 伊能ちゃんを伴って、宿の出入り口まで歩く。途中ですれ違った利用客は、みんなそれなりの格好をしていた。逆に俺たちが浮いてしまっているようにも感じる。


「……お、銭湯に行くのかい? ま、大通りは安全だと思うけど、一応気をつけてね」


 受付を通るときに、大雑把店主に話しかけられた。


 きちんとこちらに気を遣ってくれるとは、意外に周りは見えているんだろう。

 ……本を読みながら言っていなければ、信頼度がかなり上がったんだけど。


「ありがとうございます。気をつけます」


 そう返事をして、銭湯へ向かうことにする。


 銭湯の場所は把握している。さっきまで歩いていた道を戻った途中だ。


「夜だとあんまり人がいないね。サッと行ってすぐに帰ってこよう」


「そうね。あんまり長く外にいて、湯冷めしたくもないし」


 そんな訳で、宿の正面にある通りへ繰り出した俺と伊能ちゃん。


 隣を歩く伊能ちゃんを見ると、地方からやって来たてのおのぼりさんみたいにきょろきょろ見回している。


 伊能ちゃんって幼い頃に上総国にいた以外は江戸の外に出たことがないみたいだったし、やっぱり物珍しいんだろう。


「おぉ……やっぱり、餃子の店が多いわね。焼き餃子に水餃子……あんこ入り餃子なんて物もあるのね。気になるわ……」


「明日、宇都宮城主への面会予定がもらえたら食べに来よう。どうせ、この時間は飲み屋以外開いてないよ」


 一応納得してくれたようで、歩くのに集中してくれるようになった。それでも好奇心は抑えきれておらず、うずうずと体を震わせている。しっぽが生えていたら犬みたいに振りまくっているだろう。


 この角を曲がったら、銭湯まではもうすぐだ。


「見えてきたわね。他の人は……そんなにいないみたいね」


「それか中に沢山いるか、だね」


 そうだったとしても、時期的に入れ違う形になるだろう。どちらにしても、空いている湯船でゆっくり浸かれそうだ。


「中は男女で分かれているだろうし、上がったら待合で待機してるよ」


「ええ、お願いね」


 番台に割引券と料金を渡して、それぞれの性別の方へ入る。


 さて、気合入れて体を洗わないとだな。




「エイ、お待たせしたのよ」


 伊能ちゃんが風呂から上がってきた。


 まだ上がりたてでほかほかしている伊能ちゃんは、厚手の手ぬぐいで髪を拭いている。


 少し浸かりすぎたのか、赤くなった頬と、とろんとした目がかわいらしい。


「伊能ちゃんも何か飲む?」


 この銭湯には冷えたお茶が何種類か用意されている。風呂上がりで火照った体に流し込むと、かなり気持ちがいい。


「じゃあ、これにしようかしら」


 そう言って伊能ちゃんが選んだのは、ごく普通な麦茶だった。


 大きめで、ぐいぐい飲める湯呑みに注がれた冷たい麦茶を、伊能ちゃんが口に流す。


 くぴくぴと半分くらいまで一気に飲み、湯呑みを口から離す。


「……ぷは。なかなか美味しいわね」


 体に水分が入ったことで、伊能ちゃんの体から汗が吹き出てきた。湯で濡れた髪も素敵ではあるが、汗で濡れていると思うとまた違った趣を感じる。


「ふう、ごちそうさま。ほら、エイ。湯冷めする前に宿に戻るわよ」


「ああ、うん。そうだね」


 伊能ちゃんに見惚れていて一瞬反応が遅れてしまったが、すぐに気を取り直して返事をする。幸い、伊能ちゃんには気付かれていないようだ。


 右手側に伊能ちゃんが立って、宿に向かって出発する。


「まだ春だし、やっぱり夜は寒いわね」


「温かい飲み物の方が良かった?」


「いや、あれはあれで美味しかったから良いわよ」


 気持ち遅く、伊能ちゃんと2人で通りを歩く。伊能ちゃんは髪を拭っているから、あんまり速く歩くとどっちにも集中できないだろうし。


「まあ、これくらいかしら。あとは部屋に戻ったら拭き直すわね」


 角を曲がった辺りで、伊能ちゃんが手ぬぐいを畳んで仕舞う。まだ若干濡れているみたいだけど、本人が言った通りあとで拭き直せば良いくらいだ。


 拭き終わった後でも、歩く速度は変えない。夜の街を、伊能ちゃんとゆっくり歩くのも良いだろうと思ったからだ。


 何となく、手持ち無沙汰になった。


「ん……」


 伊能ちゃんのことを探るように見ると……まだ少し緊張しているみたいだ。手が忙しなく動いている。


 胸元に上げてみたり、下ろして緩く振ってみたり、両手を組んだり、手のひらを揉んだり。


 そんな風に動いている伊能ちゃんの手を、隙を見て優しく握ってみる。


「ひゃっ!」


 驚いた伊能ちゃんが、全身を硬くする。


「ごめん、緊張してるみたいだったからさ」


「も、もぅ……驚いたじゃないの」


 硬くなった体を弛緩させて、安心した表情を見せる伊能ちゃん。微笑んだ姿を見せてくれるのは、信頼も出ているんだろう。


 それにしても、手が非常に柔らかい。


 にぎにぎと感触を確かめるように触る。


 こんなかわいらしい手で、測量や暦について勉強していたのか……。


 小さくて、柔らかくて、あったかくて。


「すごいな、伊能ちゃん」


 思わず、声が漏れた。


「く、くすぐったいのよ……」


 手をしきりに握られたからか、それとも照れ隠しか。伊能ちゃんがむず痒そうな声を出す。


「あはは、ごめんね」


 伊能ちゃんと手を握り合いながら、宿への道を歩く。


 さっきの銭湯よりも、温かいように感じた。

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