第8話〈惚気問答〉

 湯気の立つお茶を一息に飲み干し——「あっつ!」と言ってひょうたんから水を飲む。

 囲炉裏を挟んで対面にいる、ヨシトキという少女だ。


 明るい茶髪がキラキラと輝いている彼女は、ひぃひぃと舌を出して冷ましている。


「あ〜あ〜。よしチャン猫舌なんだから、ゆっくり飲まないと〜」


 やっぱり常に笑い顔で、少しずつお茶を啜りながら長身の少女が言う。湯気が立っていて相当熱そうだけど、身震いひとつしていない。


 腰まで伸びる黒髪を背後に流しながら、俺の右手側で静かに座っている。


 微妙に硬い顔をしながら少しぬるくなったお茶を飲んでいるのは、俺の愛しの彼女、伊能忠敬ちゃんだ。


「……なんだか、すごく恥ずかしい風に思われた気がするのよ」


 おっと、気付かれてる。たまに勘が鋭いから気をつけないと。


 とにかく、そんなかわいい伊能ちゃんだけど、今日は珍しく俺のすぐ横に来ている。


 最初に伊能ちゃんが座っていた左手側には、測量器具『プラネ』や他の荷物なんかが置いてある。

 そこから移動した伊能ちゃんは、俺の左腕に抱きつくほど近い距離に座っている。


 触れるか触れないかの距離でいられると、男としては手を出したくなってしまう。


 そっと左腕を動かして、伊能ちゃんの右腕から背中に手を這わせる。ぴくりと背中が跳ねたけど、すぐに弛緩して手に温もりを感じさせてくれる。


 伊能ちゃんが、囲炉裏のヘリに飲みかけの湯呑みを置いた。こてん、と俺の左肩に頭を寄りかからせてくる。

 伊能ちゃんの顔は、幸せそうに緩んでいる。


 伊能ちゃんの背中に回していた腕をさらに遠くまで伸ばし、左肩を優しく掴む。左腕を俺の方へ引くと、伊能ちゃんの右腕が俺の腰に回された。


 と、俺が顔を見ていることに伊能ちゃんが気付いた。目を合わせて、にへーっと笑いかけてくる。


 そんな伊能ちゃんに、俺も笑顔を返す——


「あーしたちを無視して、自分たちだけの世界に入ってるんじゃないのだ」


 慌てて伊能ちゃんと離れる。対面を見ると、苦々しい表情をしたヨシトキちゃんが、ひょうたんを片手にあぐらをかいている。


「まあ確かに、自己紹介すらまだだしね〜。ボクの名前だって知らないでしょ〜? そっちの忠敬チャンとも、実際に顔を合わせるのは初めてだし〜」


 正座で湯呑みを持っている背の高い少女は、背筋を糸でつられているかと思うほど姿勢が整っている。どこか良いところの出なのだろうか?


「えっと……伊能ちゃん、わかる範囲で誰なのか教えてもらっていいかな?」


「わかったのよ」


 微妙に語尾が引っ張られている伊能ちゃんが姿勢を正す。さっき「師匠」と呼んでいたし、自分よりも目上の相手なんだろう。そりゃあ背筋も伸びるってものだ。


「それじゃあ、まずは師匠からいくわね。名前は高橋至時。わたしに天文学を教えてくれた先生で、今回の旅の色んな事を幕府と掛け合ってくれた人よ。原付を格安で使えるように交渉してくれたのも、師匠なの」


 ヨシトキちゃんこと高橋至時という名前の少女は、師匠という言葉でふんぞりかえっている。これでひょうたんを持っていなければ、自信満々な少女に見えたんだろうけど、ひょうたんがどうしても酒入りに見えてしまう。


「実は、こ、この見た目でわたしより年下なのよ。……この、見た目で…………」


 この見た目、というのは恐らく胸のことを指しているんだろう。確かに、18歳の伊能ちゃんより年下でこれだけ大きな胸は見たことがない。


「ねえ、エイ? エイも胸は大きい方が好きなの?」


 不安げに、伊能ちゃんが聞いてくる。


「いいや、まったく。伊能ちゃんの体つきの方が好きだよ。神がかり的な体型だとすら思ってる」


 俺は即答した。あいにく、俺の中にこれ以外の回答は持ち合わせていない。


「でもさっき、お辞儀した時に師匠の胸を凝視してたわよね? あれは違うの?」


 バレてないと思ってたら、意外としっかりバレてたんだね。やっぱり、伊能ちゃんの勘には一生敵わない気がする。


「ほら、街を歩いてるときに背の高い人を見かけると思わず見ちゃうでしょ? あんな感じで、物珍しさっていうか」


 俺はまたもや即答する。ほんの少し芽生えていた邪な感情を排除して、努めて笑顔で。


「……信じていい?」


「もちろん。俺が好きなのは、伊能ちゃんだけだよ」


 先ほどと同じように、伊能ちゃんの左肩を俺の方に寄せる。伊能ちゃんの頭がこてんと傾いてくる。


「んっん!」


 咳払いの音で、一気に現実に引き戻される。慌てて離れる俺と伊能ちゃん。


「ともかく! あーしが伊能忠敬の師匠、高橋至時なのだ! 今回の旅のためにいろいろ手配したのもあーしだから、そこの男も心の底から感謝するのだ!」


 再びふんぞりかえる至時ちゃん。自信に満ち溢れているその姿は、見ていて本当に気持ちがいい。長身の少女がそっとひょうたんを回収してくれたので、飲兵衛のようには見えなくなったことも影響していると思う。


 伊能ちゃんの顔を一瞬見てみると、呆れたような表情をしている。弟子として学んでいたときもこんな風なやりとりがあったんだろう。


 それでも、目の奥には憧れや尊敬の光が見えている。心の底からすごいと思える、やはり師匠と呼ぶにふさわしい人なんだろう。


「ふふ〜、こう見えてよしチャンはすごいことをやってるんだよ〜」


「すごいこと?」


 どこかにひょうたんをしまった長身の少女は、どこか得意げに至時ちゃんのことを話し出す。


「今使われてる『寛政暦』ってあるでしょ〜? あれに深く関わってるのが、よしチャンなんだよ〜」


「寛政暦……ってことは、前に改暦した新しい日付けの?」


「そうそう〜」


 鼻高々な至時ちゃん。

 正直、とても驚いた。


 暦といえば、農民や商人、町民も大名もみんな気にするものだ。これを基準にして約束を取り決めたり、期日までに物事をしなければならなかったり……。

 そんな全ての基準となる大事なことを定めていた人だったなんて。


「伊能ちゃん、至時ちゃんってすごいんだね……」


「至時ちゃんってなんなのだ! 至時サマと呼ぶのだ!」


 これでもかと畳みかける至時ちゃん。


 しかし、横から茶々が入る。


「でもよしチャン、体悪くて足引っ張っちゃってたよね〜」


「そういうことは言わなくていいのだ!」


 笑い顔の少女を至時ちゃんがガクガクと揺らす。互いに信頼しあっていないとできないことだし、これだけ体を委ねられる仲であるということだろう。


 伊能ちゃんも小さく笑っている。この2人の距離感というか掛け合いは、見ていてとても楽しい。


「あ、こっちの……笑い顔な方の人から話聞いてないや。伊能ちゃんは誰なのか知ってる?」


「前に師匠から仲良くしている人がいる、とは聞いたことがあったわね。もしかして、あなたが?」


 至時ちゃんの頭を撫でながら揺さぶられるという器用な事をしている少女は、伊能ちゃんの質問にのんびりと答えた。


「多分そうだね〜。ボクの名前はシメ。よしちゃんの1コ下だよ〜。名前を漢字で書くと、勉を志すって書いて志勉って読ませるんだ〜。あ、一人称がボクだけど、体も心も女の子だからね〜」


 長身で笑い顔の少女こと、志勉。

 ……うーん、漢字で書かれると絶対に読めない。


「志勉……ちゃん、も何かすごいことを成し遂げたりしてるの?」


「いや〜、ボクは特にすごい事をやったわけじゃ無いからね〜。話せる内容はこれくらいじゃないかな〜?」


「そんなことないのだ! シメがいなかったら、あーしは何もできなくなるのだ!」


 至時ちゃんが志勉ちゃんを揺さぶる力を強めた。頭飛んでいきそうだから、そろそろやめてあげたら?


「シメがいなかったら、あーし1人で化粧できないし料理できないしお金も管理できないし着替えだってできないし買い物もできないし朝起きられないし体洗えないし……とにかく! シメがいないとあーしが困るのだ!」


 なんとも悲しい告白だった。伊能ちゃんも、うんうんとうなずいている。色々苦労したんだろう。


 伊能ちゃんの頭をそっと撫でると、伊能ちゃんは気持ちよさそうに目を細めた。かわいい。


「むっ!」


 と、いきなり至時ちゃんが声を上げた。


 静まり返る部屋。囲炉裏で薪が小さく爆ぜる。


「……便所行きたいのだ」


「勝手に行ってくればいいわよ、師匠!」


 至時ちゃんはさっと立ち上がると、部屋から出ていった。襖を閉めるときに勢いが良かったため、若干隙間が空いている。


「も〜、触れづらい話題でごめんなさい〜」


 志勉ちゃんがその隙間を閉めてくれる。そのまま至時ちゃんが座っていた場所に、座った。


 ……あれ? と思う間も無く自然に座った志勉ちゃんだったが、すぐに恍惚とした表情になる。


 至時ちゃんが飲んだ湯呑みを、まるで宝物のように持ち上げると、大胆に口をつけた。


 伊能ちゃんも呆気に取られている。


「——ふああぁぁぁぁ〜…………」


 絶対に年頃の女の子がしちゃいけない表情をしている。怪しい物でも混ざっていたのかと疑いたくなるほど緩みきっているその表情は、さっきまでの変わらない顔とは大違いだ。


「あ〜、気にしないでね〜? ボクが勝手にやってるだけだから〜」


「いや、気にしないでって言われても……気になっちゃうわよ」


 伊能ちゃんが引いている。俺の左袖を掴んで、怯えるように小さくなっている。


 とりあえず頭を撫でてあげよう。うん、かわいい。


「そっちはそっちで熱々ですな〜。……さて、ボクもそろそろ気合いれないとな〜」


 気合が入らなさそうな声で志勉ちゃん……いや、志勉さんが言う。


 志勉さんは懐からひょうたんを取り出した。

 この時点で、何をしたいのか想像がついてしまう。


 ポン! と音を鳴らして蓋を開けた志勉さんは、ゆっくりとそれを口に近づけた。


 喉を2回ほど鳴らして、水を飲む。


 伊能ちゃんがさっきよりも引いている。言うなれば、ドン引きだ。


「——ふぅ〜」


 恍惚を通り越した悟りの表情で、志勉さんがひょうたんから口を離す。


 両手を合わせ、貴重な物でも食べたように「ごちそうさまでした〜……」と言う志勉さん。その顔には、一点の曇りもない。


「あ、この事は他言無用でお願いするね〜」


 赤べこのようにうなずく俺と伊能ちゃん。口が滑っても至時ちゃん本人に言えるわけがない。


「おっと、そろそろ戻って来るかな〜」


「え?」


 まだ何も聞こえてこないが……。


 志勉さんが元々座っていた場所へ戻り、何事もなかったかのように自分の茶を飲みだしたとき、遠くから歩いてくる音が聞こえてきた。


「ただいま戻ったのだ!」


「ああ……お帰りなさい、師匠…………」


「ん? 3人ともどうしたのだ?」


 妙に静かな俺たちの様子を見て、至時ちゃんが微妙に不信感を抱いているらしい。ここはどうにか誤魔化さないと……!


「あーほら、会話してて間が開いちゃうことってあるでしょ? ちょうどそんな時に至時ちゃんが帰ってきたんだよ」


 本当とも嘘とも言いきれない、絶妙なことを言う。我ながらいい誤魔化し方だったんじゃなかろうか。


「そうそう〜。よしチャン、気にしすぎだよ〜」


「ほら、志勉さんもこう言ってるし——」


「ん? 今、志勉さんと呼んだのだ?」


 あ。


 志勉さんがドス黒い瞳で俺を射抜いたのと、呼び方の変化に気づいた至時ちゃんが首を傾げるのが同時だった。


 至時ちゃんの前でしっかり「志勉ちゃん」って呼んでたの忘れてた……。呼び方が変わるってことは、絶対に何か変化があったと言う証拠になる。それも、相当大きな。


 ど、どうしよう……あの眼光、最悪の場合は切腹とかさせられそう。


 俺が伊能ちゃんへの愛を胸に死にに行こうとしていたその時、俺の左袖から救いの手が差し伸べられた。


「し、師匠!」


 俺の最愛の人、伊能ちゃんだ!


「どうしたのだ?」


「師匠に、エイのことを紹介していなかったなと、思って」


 若干語尾が弱くなってるのは、俺を挟んでいるはずの志勉さんから飛んでいるドス黒い瞳のせいだろうか。


 ともかく、俺をこの窮地から救おうと伊能ちゃんが声を上げてくれた。


「おお、確かにそうだったのだ。して、その男は一体誰なのだ?」


 自分の場所に座り直した至時ちゃんが、笑顔で伊能ちゃんに先を促す。


 その姿に安心したのか、伊能ちゃんの言葉も弾みながら飛び出した。


「この人は大崎栄。計算事や漢文の読み書き、絵も上手な天才よ」


 いやはや、そう思ってもらえてたのか……。結構、いやかなり照れるな。


「それで今は……わたしの、か、彼氏…………なのよ」


 語尾がすぼんでいく。うむ、かわい……ハッ!


「ふーん……彼氏…………そうなのか……」


 至時ちゃんから、一切の光が消えた。


 志勉さんに続いて、こっちもこんな罠が!


「推歩先生——伊能忠敬」


「は、はい……」


 気圧されるように、さっきまで甘々な雰囲気だった伊能ちゃんが緊張した面持ちになっている。


「あーしの旅の目的はなんて言ったか、覚えているのか?」


「ええ、と……伊能ちゃん力をあーしの中に取り込むためなのだ! ……ですよ、ね?」


 一言一句間違わず、伊能ちゃんが言う。


「そうなのだ」


「あれ? でもそれって、一体どうやって……」


 至時ちゃんは勢いよく立ち上がると、伊能ちゃんを指さして宣言した。


「あーしはアンタと、伊能忠敬と旅をして、いろんな場所を巡って、たまに乳繰り合いながら楽しく旅がしたいのだ! 伊能忠敬ちゃんから、元気をもらいたいのだ!」


 それってつまり——


「測量の旅に、あーしを連れて行くのだ!」


 更なる波乱の予感は、強まる雨足とともにすぐそこまで迫っていた。

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