第7話〈師匠、登場!〉
「あちゃぁ……本格的に降ってきたわね」
俺と伊能ちゃんは、目的地である栗橋城跡の近くにあるお寺で雨宿りさせてもらっている。
急に雨足が強まってきたかと思ったら、あっという間に視界を遮るほどになった。
流石にこの中を歩いていくのは危険だし、何より伊能ちゃんをびしょびしょに濡らしたくない。
そんな訳で、泣く泣く栗橋城跡へ行くのを断念して屋根のある場所で一休みしている。
「すみません、住職さん。急に雨宿りさせてもらって……」
「いえいえ、構いませんよ。体が冷えてしまうといけませんから、粗茶ですが温かい飲み物でも」
「ああ、お気遣いありがとうございます」
「これくらいしかできませんが……と、玄関の方でどなたかが呼んでいますね。失礼します」
好々爺然としている住職さんは、ほんの微かに聞こえた玄関の戸を叩く音を聞き、そちらの方へ歩いていった。部屋の奥側に座っている俺を気遣ってか、ほんの少しだけ襖を開けてそこから出ていった。
今の俺たちは、通してもらえたお寺の中奥にある、畳張りの部屋に座らせてもらっている。真ん中にある囲炉裏にはついさっき火をつけたばかりだから、まだ温度が上がっていない。
まあ、しばらくしたら暖かくなってくると思うし、少しの辛抱だ。
「濡れた服を干させてもらえたし、本当に至れり尽くせりって感じよね」
「ここの住職さんがいい人で良かった。本当にありがたいよ」
俺と伊能ちゃんは、雨で重くなった服を別の部屋で乾かさせてもらっている。長襦袢は流石に脱ぐことができないから上の袷だけだが、それでも助かることには変わりない。
囲炉裏のヘリに置いてもらったお茶を蹴らないように気をつけながら、座りやすいように姿勢を崩す。左手側に座っている伊能ちゃんも、お尻をもぞもぞと動かしている。
「囲炉裏に火をつけるのも、電子火打ち石になってきたんだね。俺たちも持っておいたほうがいいのかな?」
「夜は出歩かないし、宿は大体火が使えないし、必要ないわよ。第一、かなりいい値段がするんじゃなかったかしら」
2人ともキセルを吸ったりはしないし、春になってきた今の季節以降はこんな雨でも降らない限り気温も下がらない。となれば、今回の旅の間は昔ながらの火打ち石で充分だろう。
「冷めないうちにお茶を飲ませてもらおうか」
湯気の立ち登る湯呑みには、煎茶が注がれている。一般的な庶民が飲むような釜茹で茶ではないので、客人としての対応をしてもらえてるのだろう。
「ありがたいような、申し訳ないような……変な気分になってくるわね」
伊能ちゃんも、俺と同じく若干気後れしているらしい。どこにでもある茶屋で1杯4文という値段で飲めるとはいえ、それが庶民の家で飲めるようなものではない。それだったら茶屋の商売上がったりだし。
湯呑みにゆっくり口を付けると、沸騰寸前の熱い湯が口の中に入ってきた。
「あふっ」
伊能ちゃんが慌てて湯呑みから口を離す。俺も流石に熱かったから、味わう前に口が離れた。
「ちょっと冷ましましょうか」
囲炉裏を囲むように座って、同じようにふぅふぅと息を吹きかける。
表面が温くなってきた頃に、湯呑みを傾ける。
「……温まるね」
「……そうね」
口の中で転がして味を楽しむ。すると、優しいまろやかな風味が鼻を抜けた。喉を焦がすような熱が、胸元を通って胃に落ちる。
喉元過ぎれば熱さ忘れる、ということわざがあるけど、心地よい温もりは体の中心から全身へ広がってゆく。
伊能ちゃんを見ると、少しずつ味わうように口に含んでいる。たまに「ほぅ」と一息ついて、ぼーっと囲炉裏を眺めている。
そんな伊能ちゃんの横顔を御茶請け代わりに、再度お茶を飲む。
囲炉裏にくべてある薪が、静かにゆっくりと燃えている。
ゆっくりとした時間が、この部屋に流れている。
伊能ちゃんがお茶を飲む。
俺もお茶を飲む。
………………。
…………。
……。
「あったかい部屋なのだーっ!」
「な、なに! 誰!?」
ズバーン! と、勢いよく襖が開けられる。
驚いて肩を震わせた伊能ちゃんが、手に零れたお茶の熱さに湯呑みを取りこぼしそうになっている。
「お! 先客がいたのだ……。騒いでしまって済まないのだ」
ぺこりと頭を下げるのは、伊能ちゃんと背丈のほとんど変わらない女の子だった。しかし、まとう雰囲気から伊能ちゃんよりも2つ、3つ年下に見える。
彼女の耳ほどまでの長さの髪は、伊能ちゃんの茶髪より明るい。腰から曲げるお辞儀によって顔は見えにくいが、それなりに整っているように感じる。
そして何より……伊能ちゃんより確実に、大きい。
背丈が、という話ではない。なんというか……帯に乗っかっている。
明らかに足元が見えないであろう双丘が、お辞儀をしたことによってより一層存在感を増している。少し動くたびにたゆたゆと揺れ動くそれは、男を惑わせる禁断の果実だ。
思わず見惚れてしまっていた自分に気付き、急いで伊能ちゃんの反応を見る。俺はあくまで伊能ちゃん一筋だ。もしそれを誤解されていたらすぐに解かなくては。
……と、伊能ちゃんも少女を見て呆然としている。良かった。見ていたのはバレていないらしい。
「ところで……あーしたちも温まりたいのだが、構わないのだ?」
少女が顔を上げながら、笑顔を見せて俺たちに言う。髪の色と同じく、見ていて気持ちの良いとても明るい笑みだ。
俺が構わないと返事をする前に、人見知りする伊能ちゃんから珍しく大きな声が出た。そして、その内容は俺も驚かされるものだった。
「し、師匠! ヨシトキ師匠!」
「え……師匠!?」
立ち上がった伊能ちゃんに釣られて、俺も一緒に立つ。囲炉裏の薪が小さく爆ぜて、足元を火の粉が飛んでいく。
「お……? おお! あーしの一番弟子なのだ! まさかこんなところで会えるとは思ってなかったのだ!」
ヨシトキと呼ばれた少女は、伊能ちゃんのことを認識すると花が咲いたような満面の笑みになった。さっきまでの明るさが、より一層かわいらしさを増した感じだ。
「師匠、どうしてここに? 体調がすぐれず江戸で療養していたのでは?」
「一人前になったことだし、もっと崩した言い方で良いのだ、推歩先生……いや、伊能忠敬。まあ、これも療養の一環なのだ」
ヨシトキちゃんが神妙な顔をしてうなずく。
と、ヨシトキちゃんが急に顔を手で覆ったかと思うと、激しく咳き込み始めた。
「師匠! 大丈夫ですか!?」
伊能ちゃんが慌てて駆け寄る。それに続いて俺も近寄る。ひどい風邪の時のような咳を続けるヨシトキちゃん。
息を吸う間も無く咳き込んでしまっているため、だんだん顔が赤くなってきた。
何か気休めになるものはないかと、持ってきた荷物を漁ってみる。しかし、目ぼしいものは見当たらない。家を出るときに必要最低限のものしか持ってこなかったからだ。
苦しそうなヨシトキちゃんに、寄り添っている伊能ちゃん。そして良い案の浮かばない俺。ただオロオロする時間が流れているところに、新たな人物がやってきた。
「ほら、よしチャ〜ン。一旦お水飲もうね〜」
やってきたのは、とても背の高い少女だった。男としては平均的な身長である俺より、頭ひとつ大きい。
表情筋が弱いのか、うっすらと笑い顔なままテキパキと行動している。
背の高い少女は、ひょうたんで作られている水筒を手に持ち、ヨシトキちゃんのそばで屈む。
背とともに髪も長い彼女は、腰ほどまでの黒髪が畳についてしまうのも気に留めず、目線の高さをヨシトキちゃんに合わせている。
その少女は、咳が少し落ち着いたところでひょうたんをヨシトキちゃんに渡した。そして空いた手で懐をまさぐると、薄い紙の包みを取り出した。
「はい咳止め〜。水は使わずに飲むんだよ〜」
「わ、わかってるのだ……!」
ひょうたんと薬を交換したヨシトキちゃんは、薬包紙を解くと勢いよく喉に薬を流し込んだ。
目を瞑って苦味に耐えながら、口の中の薬を飲み込む。
「ぷはぁ……やっぱり美味しくないのだ」
「良薬は口に苦しって言うでしょ〜。いい薬なんだよ〜、それ〜」
素早くヒョウタンと薬包紙をしまった長身の少女は、間延びした口調でヨシトキに言う。
薬を飲んだことによって咳がおさまったヨシトキを見て、俺も伊能ちゃんもほっと肩の力を抜く。
「あ、そこの男の人〜。とっさによしチャンを助けようとしてくれて、ありがとうね〜。これなら忠敬チャンを任せてもいいって〜、よしチャンも言うんじゃないかな〜?」
背の高い少女は、表情をほとんど変えることなく俺に言ってくる。正直、何を考えているかよくわからないけど……。
「任せてもいい? それって、どういう——」
質問しようとした俺の声を遮るように、ヨシトキちゃんの声が響く。
「そうなのだ、伊能忠敬! あーしの療養の旅は、伊能ちゃん力をあーしの中に取り込むためなのだ! それなのにどうして、他の男と一緒にいるのだ! その男はどこの誰なのだ!」
「ええ!? ええっとぉ……それは、そのぅ…………」
「すぐに言えないような関係なのだ? ならやっぱりダマされて……」
「ダマされてない! ダマされてないわよ!」
「それじゃあいったい、その男とどういう関係なのだ!」
攻めるヨシトキちゃんと照れる伊能ちゃん。まあなんと言うか非常に微笑ましい感じの光景だけど、だんだんと熱くなってきたヨシトキちゃんが、尋問するように伊能ちゃんに詰め寄っている。
流石にそろそろ止めなければいけない。ちょうどそのとき、開きっぱなしの襖から声が掛かった。
「粗茶ですが、お持ちしました。どうぞ、囲炉裏の周りで温まってください」
ニコニコと人当たりの良い笑みを浮かべる住職さんは、こちらの空気感を知ってか知らずか呑気に話してくる。
それに毒気を抜かれたヨシトキちゃんは、大人しくお茶を受け取っていた。
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