第4話〈『初めて』のお泊まり〉

 あの後、夜空を映していた暗幕は静かに消えた。それと同時に測量も終わって、伊能ちゃんとのイチャイチャも一旦終了となった。


 そこからさらに北へ歩いて来たところで、日が落ちて満月が反対から見えてきた。この辺りで宿を見つけないと。


「あ、あそこが宿なんじゃない?」


「本当だ。部屋が空いてるといいけど」


 伊能ちゃんと2人で、2階建てになっている宿屋の看板が立てられた建物の戸をくぐる。


「2人で泊まりたいんですが、部屋は空いていますか?」


「ちょうど1部屋だけ、空いておりますよ。料金は一晩で200文です」


 宿屋は基本、先払いだ。金を払わずに泊まられたら、店は大損だからね。


 宿代や必須のものは、共有の財布からお金を出すことになっている。いつもは測量道具と一緒に仕舞っているが、もう宿に泊まることは決まっていたから財布は先に出してあった。


 少し値段が高い気もしたが、もう外は日が完全に沈んでいる。文句をつけてはいられない。


「はい、確かに。では部屋に案内します」


 丁寧な対応で、俺と伊能ちゃんを宿の一室まで案内してくれる。

 ちなみに、この間伊能ちゃんは一言も喋らずに俺の後ろをついてきている。人見知りが出てしまっているみたいだ。


 案内された場所は、1階の最奥の部屋だった。目の前には便所がある。


「飲用井戸はこの奥にございます。最終退出時間は巳の刻となっております。では、ごゆっくりおくつろぎください」


 下がっていく店員に軽くお礼を言って、連れてこられた部屋に入る。


 そこは、2人で過ごすには少し狭い部屋だった。


「せ、狭いわね……。1人用の部屋に通されたんじゃないの?」


 布団は押し入れに2枚入っているようだが、2枚並べたらそれだけで床の全面を埋めてしまいそうだ。


「でも、障子から差してくる月明かりが綺麗に見えるね」


 最近張り替えられたばかりらしい綺麗な障子窓が、優しい青に光っている。部屋には火事対策のために蝋燭が置かれていない。だから、これがこの部屋全ての灯りだ。


「狭いのは部屋全体を明るくするためなのかもね」


 俺がそう言うと伊能ちゃんも納得したのか、小さく頷いている。


 とはいえ、やっぱり狭いものは狭い。

 測量道具を置いておく場所が無さそうだが、布団を出した後の押し入れに置いておけばいいか。


「ねえ、測量道具って呼ぶのも長いし、わたしたちで名前を付けない?」


 畳まれた布団を両手に抱えたところで、伊能ちゃんからそう提案があった。


「確かに言いにくいからね。どんな名前がいいかな」


 布団を床に置きながら、伊能ちゃんに返事をする。


「星に関係した名前がいいんじゃないかしら? あの星空を見ることも多くなるだろうし」


 伊能ちゃんからそう提案されて、俺は参考にしつつ考える。


「星……星…………。確か、えうろつはでは星のことを『プラネート』って呼んでたはず」


「それなら、この機械の名前は『プラネ』よ」


 即決だった。

 伊能ちゃんは即決・即行動が基本。だから、今回も直感で決めたんだろう。こんな風に即決する伊能ちゃんが、俺は好きだ。


「まあ、プラネをしまうためにも布団を出しちゃうよ。伊能ちゃんは押し入れの中に場所を確保しておいて欲しいな」


 敷き布団だけでなく、掛け布団も押し入れから下ろす。あとは、下の段に詰められている枕を取り出すだけになった。


 枕を取り出すときに、奥の方からやたらと布が出て来たのが気になった。布団に巻いたりして使えそうなほど大きくはないから、破れた箇所を修理するための当て布かもしれない。


「う……」


 と、プラネをしまう場所を探して押し入れの下の段を覗いていた伊能ちゃんが、照れるような声を出す。


「何かあったの?」


 枕を置き、伊能ちゃんの後ろに立つ。そこから押し入れの中を見ると、大きめの紙が2枚とくずかごが入っていた。

 俺たちは紙を持ち歩いて旅をしているけど、本来紙はとても高価なものだ。それが2枚も置いてあるなんて、普通の部屋ではありえない。


 もしかして、さっきの布といいここに置かれている紙といい、これは……そういう部屋に案内されたのかな…………?


「こ、この紙って、何に使うのかしらね〜。あはは、わたしにはよくわからないな〜。あは、あはは……」


 伊能ちゃんの顔が赤くなり、目線は宙をさまよっている。明らかに何かを知った上で、動揺しているみたいだ。


「えーっと……とりあえず、晩御飯でも食べようか?」


 昨日の夜に、晩御飯としての握り飯を二つ作っておいた。墨絵を描く前だから、変なものは混ざってないぞ。

 軽く葉に包んであるそれを取り出し、布団の上で普段よりも小さく正座している伊能ちゃんに手渡す。


「あ〜、もしかしてこの紙、何か食べる時に布団を汚さないようにするため……なのかな? ちょうど二人だし、丁度いいね」


 俺はなんとなく誤魔化してみる。

 今日の朝の会話で、伊能ちゃんが『そういうこと』に対して緊張しているのがわかっているから、俺の話に乗ってくるかもしれない。


 しかし、というべきか。

 伊能ちゃんは差し出した紙を、そっと横にずらした。


「いや、ご飯で汚して使えなくなっちゃうのも嫌、だし……。そ、その……エイはわたしと、『そういうこと』は、したくないの…………?」


 ちょこんと布団に座っている伊能ちゃんは、元の身長差も相まって俺の事を上目で見てくる。

 その姿が愛らしく、そして非常に蠱惑的でもあった。このまま押し倒してしまいたいほどに。


 いつまでも立ち尽くしているわけにもいかないから、俺は布団に腰を据えた。

 そのまま、緊張で心の臓が高鳴っていることを悟られないよう、平静を装って返答する。


「そんなことはないよ。むしろ、えっと……し、したい。と、思う」


 平静を装うつもりが、化けの皮が早くも剥がれてしまった。


 俺も、多分伊能ちゃんも、こんな空気を経験するのは初めてだから、少し硬い雰囲気が部屋中に広がる。


「せっかく出したんだし、食べようよ。うん」


 緊張感丸出しの声で、俺は伊能ちゃんにそう促す。促すというより、自分の気持ちごと誤魔化している。


「そ、それもそうね。お腹が空いて集中できない、なんてことにならないように、ちゃんと食べないと」


 う……と、握り飯を持ったまま体が硬直してしまう。


 伊能ちゃんは、顔を赤くしながらも握り飯を食べている。ひと口ひと口が小さくて、小動物を見ている様な気分になってくる。


「あ、ちょっと塩が強い……?」


「うん。今日は歩き疲れるだろうと思ったから、塩を多めに入れておいたんだ。まあ、しばらく家に帰れないからできるだけ使っておきたかった、って理由もあるんだけどね」


 答えて、俺も握り飯にかぶりつく。疲れた体に、ちょうど良い塩の濃さになっている。


 その後はお互い無言で、ぱくぱくと食べる。

 二人とも、紙には目もくれない。いや、正しく言うなら直視できない。


 この紙を何に使うかは検討がついている。

 ……子供が簡単にできないようにするのと、その後始末のためだ。


 目の前にある便所といい、近くにある井戸といい……この部屋って『そういうこと』のための部屋なんじゃないか……?


 ……思考がうまくいかない。さっきも似たようなことを考えていた気がする。やっぱり、緊張してるな。

 伊能ちゃんも、うっすら顔を赤くしたと思ったら頭を振って、少し動きが止まったかと思ったら素早い動きで食べ進めたりと忙しそうだ。


 そんな風に、二人でなんとなく居心地悪くしながらも、いよいよ握り飯を食べ終えてしまう。


「んー……あー……、塩味の物を食べたから喉が渇いてきたなー…………井戸で口を潤してこようかな……」


 伊能ちゃんがわざとらしく言う。


「なら俺も——」


「エイはここで待ってて!」


 勢いよく立ち上がって言うと、押し入れから何か荷物を取り出した。巾着袋に入っている俺の手ほどの大きさで、細長い物だ。


 それから俺の背後にある部屋の戸を力一杯開け……ようとして思いとどまり、そっと開けた。今朝みたいに走って出ていくと、他のお客さんに迷惑になっちゃうからね。


 伊能ちゃんがいなくなったこの部屋は、嫌というほど広く感じる。部屋の広さは変わっていないのに、あの小さい女の子が少し席を外しただけでこうも感じ方に変化があるんだな。


「——ふぅ……」


 息を一つ、吐いた。


 ああ、緊張する。


 からかう時なら何も緊張することはないのに、いざ本番となると全身がこわばってしまう。


 視線を正面に向けると、障子窓がある。夜が深まってきて月が上がってきたから、この部屋に着いた時よりも光が強くなっている。

 青かった光は白くなって、部屋全体を明るく照らしている。


 姿勢を正座に直して……よし。もう一度深呼吸しよう。


「すぅ——」


 息を吸い始めたところで、


「た、ただいま」


 背中側から声をかけられた。


「ンっ! ……うん、おかえり」


 ちょっとむせて、変な声が出てしまった。


「ふふふっ。エイ、変な声。もしかして……緊張してるの?」


「あー……うん。実は緊張してる」


 隠しても仕方がないから、俺は素直に気持ちを言うことにした。正直、すごく恥ずかしい。

 自分の恥のようなものを言っているから、伊能ちゃんの方を見ることができない。


「その、ごめん」


「どうして謝るのよ。わたしだって、すごく緊張しているのよ?」


 そう言いながら、伊能ちゃんが布団を踏む音が聞こえてくる。背を向けている俺に近づいてきている。


 俺のすぐ後ろで音が止まったかと思うと、今度は衣擦れの音が聞こえてくる。


 俺は、緊張で唾液が出なくなってしまった口で、無いそれを飲み込む動きをした。


 背中を、やわらかいモノが包み込んできた。


「う……あ……」


 伊能ちゃんの口から、声とも言えない音が漏れる。

 一方、俺の口からは全く音が出てこない。呼吸の仕方まで忘れてしまったような感覚だ。


 背中で感じる伊能ちゃんの体は、服越しであっても温かい。子供体温……というわけではないんだろうけど、俺よりも少し熱くなっているようだ。


 甘えてくるように、首へ手を回してくる伊能ちゃん。


「は、恥ずかしいから、何も言わないで……」


 伊能ちゃんの声が、俺の耳元で囁かれる。

 普段聞き慣れている声のはずなのに、今は脳の奥まで染み渡るように広がってくる。


 このままじっとしているのがもどかしい。けれど、指一本動かしたらいけないような気もする。


 伊能ちゃんの吐息が温かい。風が耳を撫でると、背中に抜ける背徳感のようなものがある。


 背中から、伊能ちゃんの鼓動を感じる。どくどくと早い鼓動に、俺の心臓の音も重なっていく。


 最初は少しずれていた鼓動の調子が、互いに歩み寄るようにゆっくりと近づいてくる。


 早い伊能ちゃんの鼓動に俺の鼓動が追いついて。遅い俺の鼓動に伊能ちゃんの鼓動が歩み寄って。


 変な高揚感と一緒に、落ち着くような安心感がある。

 なんだろう……んー、あー…………


「伊能ちゃん、好き」


 これしか言いようがない。


「んん〜〜〜〜っ!」


 伊能ちゃんが顔を俺の背中に埋める。そのままぐりぐり動かされる。髪が首に触れて、少しくすぐったい。


 しばらくそうしていたが、意を決したように頭を離した。

 それどころか、全身が俺から離れていく。背中にあった温もりはそのままに、伊能ちゃんの気配が移動する。


 そして動き出す音が、俺の右から聞こえた。


「ねえ、エイ。昼間に話したことは覚えてる?」


 俺は伊能ちゃんの方を見られない。普段あまり緊張することはないはずなのに、いまだかつてないほど頭が回らない。

 そんな頭で、なんとか言葉を絞り出す。


「昼間……って言うと、そばの屋台での話?」


 正直、何があったかと思い出しているが出てこない。昼間にあったであろうことよりも、今の状態の方がよっぽど衝撃的だからだ。


「うん。そこでエイ、言ってたよね。宿に着いたら……せ、接吻する……って」


「……言った、ね」


 思い出した。

 間接的に接吻したのを、からかうように言ったんだった。


 いや、からかっていたわけじゃなくて本気でしたいと思っていたし今もそう思っているけど、こういう状況になるとは考えていなかった。


「今なら、周りに人は……いないわよ?」


「うん、そうだ——」


 ね、という音までは、口から出なかった。


 ゆっくりと俺の視界に入ってくる伊能ちゃんは、神々しさすら感じた。


「あ、あんまりジロジロ見ないで……いや、やっぱり見て……」


 胸と股を手で隠している伊能ちゃん。今朝、体つきを比較的平坦と称したが、胸や腰回りなど要所はうっすらと膨らんでいる。その膨らみが、彼女が女の子であることを再認識させてくれる。


 触れたら壊れてしまう、というほど細くはなく、かといって不健康なほど身に肉がついているわけでもない。


 細部まで見ることはできない。なぜなら障子窓から入ってくる月光が、彼女の体の正面を影に包んでいるからだ。

 しかしそれすらも、伊能ちゃんの魅力を引き立たせる材料になっている。


 逆光に立っている伊能ちゃんは、そんな中でもわかるほどに顔を赤くしている。多分、俺も同じくらい赤くなっているだろう。


 伊能ちゃんが、ゆっくり両手を俺の方へ向ける。

 俺を迎えに来たような、俺が行くのを待っているような、そんな体勢だ。


 両手の奥には、小ぶりで可愛らしい胸が主張している。ふるふると揺れているように見えるのは、俺が揺れているのか、それとも伊能ちゃんが震えているのか。


 伊能ちゃんが、俺の方へ一歩進んでくる。

 俺は情けなくも、固唾を飲んでいる。さっきまで押し倒したいなどと考えていたのに、今はどうしたらいいのかさっぱりわからない。


 先程までとは逆の位置で、伊能ちゃんが正面から俺の首に手を回す。けれど、体はまだやって来ない。


 どうにもそれがもどかしくなって、右腕を伊能ちゃんに伸ばす。


「あ——」


 一瞬だけ伊能ちゃんの体がこわばったけど、すぐに緊張を解いたみたいだ。


 伊能ちゃんの背中に、恐る恐る右手で触れる。


 とても、やわらかかった。


 自分のや、幼い頃に母親の背中を触ったことがあったが、その時はとても硬かった。硬い骨に皮を一枚貼っているだけ。それが今までの背中というものに対する印象だった。


 けれどこの瞬間、その印象は打ち砕かれた。

 適度な弾力がありつつ、こちらを拒まずに受け入れてくる。指のシワひとつまで埋めるほど密着してくるそれは、骨と皮と言い切るにはあまりにも肉感的だった。


「ん……」


 喉の奥から音が漏れる。それと同時に、俺は右手を自分の方へ引いた。この手に促されるようにして、伊能ちゃんが腰を下ろす。


 ももの上に乗った、手のひらほどの大きさしかない尻。こちらは少し骨張っているが、そんなことが気にならないほど軽い。


 荷物を背負って横抱きはできない、非現実的だと言われたが、これだけ小さくて軽いんだったら荷物にもならない。

 もちろん、伊能ちゃんは荷物などでは全くないが。


 そして、顔がとても近い。

 鼻と鼻が触れ合いそうなほどの距離で、黒曜の目に自分の顔が映り込んでいる。


 吐息と吐息が混ざり合って、空気の温度が上がっていく。


「エイ……シよ?」


「よ、よろしくお願いします」


「ふふふっ……こちらこそ、よろしく」


 体と体が密着して、口同士で接吻を交わす。

 初めて経験する長い夜が、深まっていった。

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