第3話〈最初の測量〉

 天気は晴れ。真昼を少し過ぎたあたりだから、ほぼ真上から太陽が照りつけてくる。

 江戸の町から少し離れたとはいえ、まだ住宅地が続いている。そんな中を伊能ちゃんと2人で歩くのは、いつもと感覚がまた違って面白い。


「あ、この広場なんかいいんじゃないかしら。人もいないみたいだし」


 今は、持ってきた測量道具を使い慣れるための練習場所を探していたところだった。

 江戸から出て川沿いの道を歩いていたら、いい感じの広場を見かけた。足元に草が伸びているが、そこまで邪魔にはならない。座るときに座布団の代わりになってはくれないだろうが、直接土に座るより良いだろう。


「確かに、ここなら設置とかの作業もやりやすそうだね。ここに決めちゃおうか」


 広場というか空き地だと思われるここは、かなり大きな建物を建てられそうなほど広い。元々は権力者でも住んでたのかな?


 伊能ちゃんが長方形の土地の真ん中に荷物を置き、包んでいた布を開く。

 中から出て来たのは、立方体の上に半球を重ねたような形をした、奇妙な装置だった。これこそ、二人で費用を出し合ってなんとか買った、最新の測量道具だ。


「平らな地面に置いて……空に何もないことを確認して……天気や時刻の情報も必要なのね。あとは、これをこうして…………」


 伊能ちゃんが手早く準備していく。伊能ちゃんに熱中すると周りが見えなくなるって言われたけど、伊能ちゃんも大概そうだ。測量のことになるとそれに自分の全てを注ぎ込む。食事すら摂らなくなることもあるけど、そうやって一つのことに没頭している伊能ちゃんが、俺は好きだ。


「これで良し……と。エイ! 設置できたわよ!」


「わかった。そっちまで行くよ」


 見るからに興奮している伊能ちゃん。待たせたら悪いし、少し急ごうか。


「あとは記録用の紙を入れて、この切替器を押せば電源が入るはず」


 切替器を西洋風に言うなら、スイッチだったか。海の向こうの言葉にはあまり詳しくはないけど、少し勉強したことがある。日常会話もままならないとは思うけど。


 ともかく、切替器を押し込む伊能ちゃん。すると、測量道具が動き出した。

 ウイイィィィ……、と低い音を立てて起動するその機械は、側面から紙をどんどん吸い込んでいく。


「おお! 起動したわね!」


「このまましばらく置いておけば、勝手にこの辺りの地形を書き表してくれるんだよね?」


「そのはずよ。やっている間に離れても良いとは思うけど、こんな高価な物を置いて行くのは怖いし、近くで待機していましょうか」


 伊能ちゃんが測量道具の横に座る。ちょこんと膝を抱えて座る伊能ちゃんは、小さくてかわいい。

 俺もその隣に腰を下ろし、伊能ちゃんと2人で機械の動く様子を見る。


「今まで手作業でやっていたことが、これからは全自動で済むのね……。なんだか、感慨深いわ」


 伊能ちゃんは、目を輝かせながら言う。地図は描くより見返す派の伊能ちゃんだから、この機械は手間を全て省いてくれる最高の機械だろう。


「師匠がこの機械について知ったら、どんな反応をするかしら……」


 伊能ちゃんがぽつりとつぶやく。

 俺は伊能ちゃんの師匠と面識がない。伊能ちゃんから聞いた話によると、若い天才でちょっと性格に難あり、だそうだ。


 伊能ちゃんは稼働する測量機械を、俺は嬉しそうにしている伊能ちゃんを眺めていると、突然空が暗くなり始めた。


「な、なにこれ? 伊能ちゃん、これも測量に必要な機能なの?」


 俺が伊能ちゃんに質問している間にも、周囲は暗くなっていく。正しく言うなら、空に黒い幕がかかって、新月の夜のように真っ暗になっていく。


「今は昼間で、太陽がこの真上にあるわよね。でもそうすると、星を見て今の場所を確認することができないわ」


 地面まで、完全に幕が降りる。測量機械は発光していないから、完全に暗闇に包まれている。真横の伊能ちゃんの顔すら見えなくなってしまった。


 その直後、まばゆい光がこの半球内を照らした。上から降ってくる光だ。


「だから、この場所だけを夜にして、星を映し出すの。こんな風に」


 伊能ちゃんが見上げる。俺もそれにならって上を見ると、思わず感嘆の声が漏れてしまった。


「うわぁ……満点の星空だ」


 冬の高い山でしか見られないような、見渡す限りの星空が頭上に広がっていた。あれが何の形に見える、という話もできない、空一面を埋め尽くす星々が伊能ちゃんと俺を照らしている。


「本当にきれいね……。月明かりも無いから、全部の星が見えているのかしら」


 伊能ちゃんも、この光景には感動しているみたいだ。首を上に向けて、口には隙間が開いてしまっている。子供っぽい仕草だけど、見た目相応でかわいらしい。


 だんだん首が疲れてきた。いっそ横になろうか。

 となると、伊能ちゃんと一緒に星を見たくなってくる。冷える夜じゃなくてもこんな夜空が見えるんだ。使わない手はない。


「伊能ちゃんも、上を見続けて辛くない? 横に来る——って、服が汚れちゃうか」


 草が生えているとはいえ、元の地面がかなり見えている。一ヶ所だけならいざ知らず、女の子の服を大きく汚すのはよろしくない。


 でも、ずっと首を上向けるのって大変だよね。どうしようか……。


「あ、なら俺の上で寝る?」


「え……は!? エイ、何言ってるの!」


 伊能ちゃんが顔を赤くする。


「夜を映し出してるって言っても、外はまだ明るいのよ! それに、わたしの初めてが外って……!」


「ち、違う違う。言い方が悪かったね。服を汚したら悪いから、俺の上で横になったらどうかな? って言いたかったんだよ」


 これを聞いた伊能ちゃんは、より顔を赤くした。恥ずかしいのと、ほんの少しの怒りが滲み出ている。


「もう……どうしてそう誤解される言い方をしたのよ。……うう、心臓が痛い」


 ほっ、と胸を撫で下ろす伊能ちゃん。今回は、朝にあんな話をしたのにこの言い方をしてしまった俺の不注意だったな。


「でも、そうしたらエイの背中が汚れちゃわないかしら? あと、その……重かったら、エイに悪いし…………」


 伊能ちゃんが、小さくなりながら聞いてくる。両の手は、伊能ちゃんの心を表すようにそわそわと動き続けている。


 少し体を起こして、伊能ちゃんの顔を正面から見ながら、俺は言う。


「野郎の背中なんて、汚れてても誰も気にしないよ。それに、伊能ちゃんは重くなんてない。万が一重たかったとしても、俺は絶対に支えるから」


 この言葉がきっかけとなって、伊能ちゃんがゆっくりと俺の方に近づいてきた。

 恐る恐る、俺の腹にお尻を乗せる伊能ちゃん。多少の圧迫感はあるけど、押し潰されそうな感じは全くしない。


「全然重たくないじゃないか。これなら、俺の上に乗っても動けそうだよ」


「う、動く、ね。そうよね。そういうことも大事よね……」


 そう言うなり、伊能ちゃんが固まってしまった。考えすぎて思考が停止してしまっているみたいだ。


 俺はさらに起き上がって、伊能ちゃんの両肩を掴んだ。


「ひぅ……」


 そのまま、伊能ちゃんの体が俺の上に寝転がるように倒れていく。たまに伊能ちゃんが反射的に体を硬くしているけど、それでも構わずに肩を引く。


 伊能ちゃんの背の高さは、俺と頭ひとつほど違う。だから伊能ちゃんを俺の上に寝かせると、あごの下に伊能ちゃんの頭がきた。小動物を抱いているみたいで、なんだか心が安らいでくる。


 あ、いい匂い。

 髪からというより伊能ちゃん自身から、俺の大好きな香りが漂ってくる。人を惹きつける花のように、俺を離そうとしない香りが、少しの興奮とそれ以上に大きな安心感を俺にもたらしてくれる。


「ほら、そんなに緊張しないで。必要以上に硬くなってると、体にも悪そうだし」


「この状況で、どうやって力を抜けばいいのよ……!」


 体を動かさずに、伊能ちゃんが反論してくる。

 どうやったら伊能ちゃんの緊張が解れるかな?


 俺は手持ち無沙汰になっていた両腕を、伊能ちゃんの上に回した。


「ひゃわっ!」


 かわいらしい悲鳴が、すぐ下から聞こえる。


「安心していいから。だから、今は2人で星を見ようよ。せっかく空がきれいなんだからさ」


 囁くように俺が言うと、伊能ちゃんが肩を震わせた。そして、全身の力が緩んできた。俺に体を預けてくる。


「前から、こんな風にしてみたいと思っていたんだよね。情緒あふれる場所で、伊能ちゃんとイチャつきたいなって」


「い、いちゃ……ううぅ」


 伊能ちゃんが俺の袖を小さく掴む。恥ずかしいけどそうしたい。そんな伊能ちゃんの気持ちが伝わってくる。

 一生、彼女と共に歩みたい。そう思うと、伊能ちゃんを抱いている腕に力が入る。


「あ、流れ星」


「え、うそ。どこどこ」


「一瞬で消えちゃったわよ。ふふ、ちゃんと見てなかったの?」


 伊能ちゃんが楽しそうに笑う。

 こんな幸せな日々がいつまでも続くと確信しながら、俺は星を眺める。

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