第2話〈今後の話と熱いそば〉

「親父さん、かけそばを2杯お願いします。あ、伊能ちゃんも海老天つける?」


「食べ切れるかわからないし、わたしは無しでいいわ」


「あいよ、ちょっと待ってな!」


 大通りに出たは良いものの、伊能ちゃんの荷物が大きかったから満足に移動できなかった。逃げ込むように住宅街の方までやってきたところ、台車で移動屋台をしている立ち食いそば屋を見つけた。

 四月の中ば、春とはいえ肌寒いこの時期に温かいそばはありがたい。


「やっぱり……これだけ大きい荷物を持ってると歩きにくいわね。いざ観光するとなったら、宿に預けたりするしかないかしら」


 右隣に立っている伊能ちゃんが、荷物を足元に置いてから疲れた様子で言っている。


「大都市江戸に住んでいる以上あれくらいの人混みは慣れたものだと思っていたけど、荷物があるだけでこうも違ってくるのね」


「俺が持とうか? 俺の方が荷物は少ないし、測量器具くらいなら背負いながら伊能ちゃんを横抱きにするくらいはできると思うけど」


 その姿を想像したのか、伊能ちゃんが少し頬を赤らめる。


「エイはそこまで力持ちじゃないでしょ。現実を記しに行こうとしてるわたしたちが非現実的な話をしてどうするの」


 そっぽを向きながら言う伊能ちゃん。顔を赤くしながら言っても、ただかわいいだけなんだよね。


 と、俺たちのすぐ後ろを、原動機付自転車が通過していった。ブロロロ……、と大きい音を鳴らすそれは、否が応でも注目を集める。


「最近、原付が普及してきたよね。あれも平賀源内さんが制作に関わってるんだったっけ」


「そうね。『えうろつは』からやってきた商人が自転車を持ってきて、それに電気の力を足したのが原付と呼ばれてるわ」


 えうろつは……江戸のはるか西側にある世界の入り口長崎出島より、ずっと遠い西にあるという場所。一度行ってみたいと思うが、当分は測量の旅だ。


「わたしたちも原付があれば、全国を回るのが少しは楽になりそうなんだけど……」


「原付税を徴収するって幕府が言い出したからね。税を払いながら測量道具以外の電気代も確保しつつ、全国を旅するのは大変だから、やっぱり歩きの方が良いよ」


「それはそうなんだけど……」


 口を尖らせて不満そうな伊能ちゃん。

 この話はもう何度もしている。この旅が決まった時に、幕府の偉い人に直接言ったくらいだ。

 税を撤廃することはできなかったけど、それでも話した成果は少しだけあった。


「幕府が格安で全国に貸し原付屋を置いてくれるって約束してくれたし、急な雨に降られたりしたときは使わせてもらおうよ」


「……まあ、歩いて移動する方がエイとゆっくり話もできるしね。旅行気分を味わうなら、こっちの方が良いのかも」


 やっぱり楽な移動手段には未練があるのか、納得はいっていない伊能ちゃん。けど俺としては、伊能ちゃんと景色を見ながら歩けるのは楽しみである。


「へい、かけそばお待ちどお! 熱いから気を付けて食うんだぞ、嬢ちゃん!」


「嬢ちゃんと呼ばれるような歳じゃないわよ。18はもう超えてるんだから……」


 初対面の相手に対しては緊張してしまう伊能ちゃん。文句を言う声も、尻すぼみになっている。


「まあまあ、冷めないうちに食べようよ」


 見計ったように話がひと段落したところで出されたかけそばは、湯気が立ち上る麺の上にネギと海老天が盛られたものだった。漂ってくるつゆの匂いが、こちらの食欲をそそる。


 伊能ちゃんのものは具材の追加なしだったが、天かすが少し盛られている。ご好意で乗せてくれたのかな?


 俺の前に置かれていた箸置きから箸を2膳、取り出して伊能ちゃんと分ける。


「ありがと、エイ。それじゃあ、いただきます」


「いただきます」


 一口分を箸で持ち上げて、軽く息を吹いて口に入れやすいくらいまで冷ます。2回ほど息を吹きかけたそばを唇に軽く触れさせてから、一気にすする。


「……ほぁ」


 おいしい。主張の強すぎないつゆが、やわらかめの麺とよく合う。そばの詳しいことはわからないが、この店主は相当腕のいいそば職人らしかった。


 次に、海老天を食べる。揚げたてのそれはさくさくとした食感で、噛んでいて楽しい。中の海老は新鮮なのか、歯切れが良くて食べやすい。薄味のつゆが染み込んでいるのが、なんだか嬉しくなってくる。


 あ、伊能ちゃんが海老天をちらちらと見てきてるな。頼めばよかったって思ってるかな? まあ、独り占めしたいわけではないし、お裾分けしようか。


「伊能ちゃん、ひと口食べてみる?」


 俺がそう聞くと、伊能ちゃんが嬉しそうな顔をする。


 海老天を箸で持ち上げて、伊能ちゃんの前に差し出す。すると、俺の箸から直接伊能ちゃんが海老天を食べた。


 俺が口をつけたところから食べることになるけど、伊能ちゃんは照れたりはしていない。接吻しようとすると顔を真っ赤にするのに、間接的になら恥ずかしくないのかな。それとも、おいしそうな海老天を前にして気が付かなかったんだろうか?


 食べた伊能ちゃんは、頬が緩んでいる。こんなにも笑顔な伊能ちゃんを人前で見られるのは珍しい。2人きりの空間だとよく見られるんだけどね。

 この親父さんのそばには、人を笑顔にする力がある。


「おいしいわね……。こんなところでひっそり店を出すんじゃなくて、大通りで自分の店を構えたらどうかしら?」


 伊能ちゃんもこのそばの味に満足したみたいだ。初対面の人を褒めることはほとんど無いのに、大絶賛だ。


「ははは、ありがとよ、嬢ちゃん! だが、オレはまだ味に満足してねえんだ。オレのじいさんが作り出したという究極の一杯を見つけるまでは、この屋台で全国を修行して回らなくちゃならねえ」


「親父さんも全国を旅しているんですね」


「も、ってこたあ、お二人さんも何かの修行かい?」


 俺の言ったことに、親父さんが食いついてきた。


「修行じゃないんですが、全国を測量するよう幕府から言われまして。……これです、測量許可証」


 俺が袷から取り出したのは、手のひらに収まる大きさの厚紙。そこに大崎栄という俺の名前と、測量許可証という文字。そして幕府が直々に出したことを証明する印が押されている。


 これがあれば、地主に許可を取らずともその辺りの土地の測量をすることができる。比較的大きな街はそこの長に話くらいはしなければならないが、道すがら測量をすることができるだけでかなり労が減る。


「ほお〜……といってもオレはわかんねえからなあ。ま、そんな大層なモンはそう易々と見せるんじゃねえぞ」


「はい、そうします。でも、親父さんとはこれからもたびたびお世話になる予感がしてるんですよね」


「お、やっぱそう思うか。オレもお二人さんとはまたどこかで会えそうな気がしてたんだぜ。……と、話しすぎたな。カノジョの方はもう食べ進んでるし、お前さんも食っちまいな」


 横を見ると、親父さんの言う通り伊能ちゃんは器の半分ほどまで食べ進めている。

 いやしかし……そばを食べる伊能ちゃんが非常に、グッとくる。


 肩を少し過ぎるくらいに長い髪をしている伊能ちゃんは、食べる時に邪魔にならないよう、左手で髪を耳にかけている。その動作をすると、普段は髪で隠れている左の耳が見えるようになる。普段隠されてるものが見えるのは、どうしてこんなに背徳感があるんだろう。


 伊能ちゃんが2回息を吹きかけてそばを口にしようとしたとき、俺が見ていることに気がついた。


「ん……そんなにじっと見られると、恥ずかしいんだけど……」


 少し身じろぎしたあと、見られるのに耐えられなかったのか髪を前に下ろす。

 伊能ちゃんの横顔は、普段のかわいい印象から変わって、心臓がどきりとするほどキレイなのだ。


 それが見られなくて少し残念……と思っていると、やっぱり食べにくかった伊能ちゃんが左の髪をかき上げる。


 大きな音を立てずに、ゆっくりと麺を口に入れていく伊能ちゃんの姿はずっと見ていられる。でもそうするとそばが伸びてしまう。


 名残惜しいが、伊能ちゃんのそんな表情はまた見られるだろうと結論付けて、目の前のそばを再度食べ始める。


「ふう……」


 気がつけば、最後の一口だった。心の中でおいしいそばを作ってくれた親父さんに感謝しつつ、つゆの一滴まで残さないように飲む。


「ごちそうさま。本当においしかったわ」


「おう! 美味かったなら、何よりだ!」


 一足早く食べ終えた伊能ちゃんが、親父さんにお礼を言っている。少し遅れて、俺も完食した。


「ごちそうさまでした。えっと、勘定の方は……」


「ちょっと前までは一杯16文だったんだけど、最近幕府が改革だかなんだかで物価が変わっててな」


「貨幣を大きく変える、とかでしたよね。なんでも、円とかいう単位に切り替えるとか」


「ずっと価値が変わらないカネになるんだってな。んで、その練習として文や匁も固定の価値が出されたってわけだ」


 その影響で、多少物価が変わっているらしい。事前に話もなく金の価値が変わることもあったから、それが無くなるのはありがたい。

 えっと、1文が大体30円に固定されるんだったか。


「今は一杯10文でやってるんだが……オレのそばよりも熱いお二人だ! 2文まけて、18文でいいぞ!」


「まけてくれるのは嬉しいんですが、いいんですか? 海老天も付いていたのに」


「男に二言はねえ! ま、その分どっかで会ったらまた食っていってくれよ」


 商売上手だなあ。

 俺は財布から18文を取り出して、親父さんに支払う。伊能ちゃんも財布を出そうとしていたけど、測量道具と一緒にしまっていたから出すのが大変そうだったし、18文くらいだったら俺から出すんだけどね。


「ありがとよ!」


 親父さんに別れを告げて、荷物を背負いなおした伊能ちゃんと2人で道を進む。


「気のいい親父さんだったね」


「そうね。あの店主のだったら、また食べてもいいかも」


 伊能ちゃんも大満足だ。


「そうしたら、また伊能ちゃんと間接的に接吻ができるんだね」


 俺がそう言うと、伊能ちゃんは動きを止めた。それから何かを思い出したのか、顔を真っ赤にして照れ始める。


「あ、あれは……その、気が付かなかったというか…………エイの食べた物だったら、良いかな、って思って」


 ああ、かわいい。かわいい子は籠に入れたくなると言う人もいるけど、伊能ちゃんはのびのびとしている時にでる表情が一番かわいい。


「間接的にじゃなくて直接したいんだけど、いい?」


 我慢の限界を迎えそうな理性で、伊能ちゃんに聞く。


「い、今はダメ。人の目もあるし……」


「それじゃあ、宿に着いたら、いい?」


 質問すると、伊能ちゃんは小さくうなずいた。ツバキよりも赤くなった伊能ちゃんの顔は、緊張で固まってしまってるようだ。


 俺の顔を見れないのか、ずっと前を向いたままで歩き続ける伊能ちゃん。

 やっぱり、今日も伊能ちゃんはかわいい。

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